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昨日の君に、さよなら  作者: WW
第3章
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失う君に、何度でも 5

 外の喧噪が嘘のように静まり返った室内。薬品の匂いが充満するこの部屋は、どこか別世界なのではないかと錯覚させる静謐さがあった。

 遠くから聞こえる歓声。それよりも大きく響くすすり泣き。

 静香はベッドにうずくまって、独り涙を流していた。


 京子と孝多がすぐに駆けつけてきてくれた。いつもならお礼を言って笑って見せるところなのに、追い返してしまった自分を情けなく思った。

 二人は心配そうな表情で頷いてくれた。保険の先生も保険委員も、気を遣って部屋を空けてくれた。


 その優しさがとても痛かった。


 膝や肘の擦り剥いた痛みなど何でもなかった。消毒液が滲みる感覚は自分のものではないように感じられた。

 シーツを握りしめ、咽ぶ声を噛み殺す。それでも漏れ聞こえて、自分の状態をはっきりと思い知らされる。余計に悲しくなった。胸が苦しくて、詰まって、意識が一つの事実で埋め尽くされていく。


 ――駄目だった。


 涙は涸れることなく、枕を濡らし続ける。


 ガラガラ、と。控えめな音で鳴った扉。足音が近づいてくる。


 来るな、来るなと念じても、その音は止まらない。

 カーテンが揺れる音。

 ベッドがゆっくりと軋む。

 被っていた布団が捲られていく。


 そこにいたのは、雅也だった。


 静香は慌てて身を捩り、反対側を向く。

 堪えようとした涙は余計に溢れ、意識すればするほどに止まらなくなる。

 彼が何をしにきたか、静香は知っていた。

 言い渡しに来たのだ。


 静香の敗北を。約束の破棄を。


 なにも今じゃなくてもいいじゃないか。

 静香は身を縮まらせる。

 追い打ちをかけるように。傷口に塩を塗るように。

 その口を開かないで欲しいと、そう願う。

 分かっているから、と。


 それでも、願いは都合良く叶わないことを静香は知っていた。身をもって、思い知らされていた。


「ごめん」


 吐息のような弱々しい力で放たれた言葉。それは今の静香にとって、何よりも聞きたくない言葉だった。


「分かった、から……あっ、ち、行って」

「ごめん」


 静香が捻り出した一言に、雅也は静かにそう答えた。だが、一向に立ち去ろうとはしない。


 抑えきれなくなって、耐えきれなくなって、静香は起き上がった。

 泣き顔を見られてもいい。無様な姿を見られてもいい。独りになりたかった。


 目が合った。優しい目。なのに、とても悲しい目。

 同情でもなく、哀れみでもなく。

 その矛先が自分に向いているものではないことを、静香は感じ取った。


 意味が分からない。


 困惑していると、雅也は困ったように笑う。寂しげに。まるで彼の方が泣いているように。


「ごめん、姫野とは付き合えない」

「何で? 何で雅也くんの方が悲しそうなの? 振られてるの、私なのに」


 ごめん。雅也はまたそう呟いた。


「酷いよ。何で優しくするの? 前みたいにきっぱり断ってよ。私の全部が駄目だって、突き放してよ」

「前?」


 まただ。

 また、なかったことにしようとしている。


 静香は滲んだ視界で雅也を睨みつけた。頭に血が上って思わず手が出そうになる。その頬を叩いてやれたら、どれだけ気持ちが晴れるだろうか。考えても実行には移せなかった。


 心底、馬鹿だと思う。


 そんなことをしたら嫌われてしまうかもしれない。

 そう思うと手が震えた。


 本当に馬鹿だ。


「そっか」


 うるさい。


「ごめん」


 もういいから。


「やっぱり僕は、忘れてたんだね」


 もう――


「え?」


 間抜けな声が漏れた。静香は目を見開いて雅也の顔を見つめる。瞬きをすると視界が少し晴れた。滴が頬を伝ってシーツに染みを広げる。


「全部駄目って言ったの、覚えてないんだ」


 困惑する静香に追い打ちをかけるように雅也は続けた。


「お化け屋敷で抱きついたのも、覚えてない」

「どういうこと? 記憶喪失? けど、紗理那のことは覚えてたよね? ふざけてるの?」

「ああ、うん。いや、そうじゃなくて。……記憶障害、っていうらしいんだ」


 聞き慣れない言葉に静香は困惑を深めた。表情からそれを汲み取った雅也は自嘲の笑みを浮かべる。


「記憶障害っていうのは簡単に言うと、自分にとってストレスになる記憶が欠落することなんだって」

「それって……」

「あ、別に姫野からの好意が迷惑とか、そういうことじゃなくて」


 雅也は言葉を丁寧に選ぶように間を空ける。


「僕の場合、ある条件に当てはまるとその人の記憶がほとんどなくなっちゃうんだよね」

「ある、条件?」


 先を促す静香に、雅也は沈黙した。言い難そうに視線をあちこちに泳がせる。逃れられないと観念したのか、雅也は静香を一瞥して顔を背けた。


「相手を……す……好きに、なる……こと」

「え?」


 雅也の言葉の意味を理解するのに少し時間がかかった。だが、理解し始めた途端に体温が上がっていくのを感じて、静香は俯いた。前髪を整える振りをして顔を隠す。

 身体の内側から湧き上がる感情に喉が震えた。手を握り締めて耐えようとしても無駄だった。


「い、今、なんて……言った、の……」


 声が上擦って、羞恥心が込み上げる。


「っ…………だから、その……」


 心臓が高鳴る。

 早く。早く。早く。早く。

 息が乱れ、震える。どうやって普通に息をすればいいのか分からない。心臓を吐き出しそうだ。太鼓のような音がうるさい。


「姫野のことを忘れたのは……」


 ああ、もう。


「た、ぶん……す……す……」


 早く。


「……好き――」


 私も、と言いかけて、静香は言葉を呑み込んだ。


「――だったんだと、思う」


 熱を帯びた吐息が漏れる。

 分かっていた。何を期待していたのだろうと、静香は肩を落とす。


 雅也の言うことが真実なら、全部説明がついた。

 何度も話したことがあるのに、いつもどこか他人行儀で。

 告白されたことを忘れていて。

 遊園地で起きた二人だけの秘密も覚えていない。


 それは紛れもなく、雅也が静香のことを好きだったということであり。

 それは紛れもなく、すべて過去の話なのだ。


 雅也にとって、それは失われた時間。

 何もなかった時間。

 今まで静香と過ごした時間は、ほとんど雅也の中に積み重なってはいないのだ。


「だから、僕は誰のことも好きになれないし、姫野とは付き合えない。前に酷いこと言ってごめん。こんなこと言っても頭おかしいと思われるだけだから、言えなかった」

「なんで、話してくれたの?」


 訊いてから、馬鹿だと思った。そんなの決まっている。

 雅也は困ったように笑う。


「ちゃんと理由を言わないと諦めてくれなそうだったから。それに――」


 二人の視線が結ばれる。


「あんな真剣な顔見せられたら、ちゃんと向き合わなきゃ失礼だと思って」


 照れくさそうに頬を掻く雅也を見て、静香は心の中が温かい気持ちで満たされていくのを感じた。口元が綻び、胸が熱くなる。


「馬鹿だね、雅也くんは」

「え?」

「そんなこと言われたら、諦められないよ」

「いや、僕の言ったこと聞いてなかったの?」

「聞いてたよ。私のことが好きだから、忘れちゃうんだよね?」

「……結果的にはそうだけど、もっと言い方ってものが」

「だったら、何の問題もないよ」


 そうだ。何の問題もない。


 誰かを好きになることなく。誰からの愛も感じることなく。孤独な人生を生きる。それでは何も残らない。そんなの嫌だった。それではあまりに救いがない。


 けれど、彼は言った。


 好きになった相手を忘れる、と。


 だったら、何の問題もないじゃないか。


「私は雅也くんのことが好き。雅也くんも、私のことを好きになる」

「そんなの分かるわけ――」

「少なくとも、二回は私のことを好きになってるんだよ? だったら、また私のこと好きになるよ。何度だって、好きになるよ」


 ――だって。


 静香は屈託のない表情で笑う。


「私は諦めが悪いんだよ? 何度だって雅也くんに気持ちをぶつけるから。今日も。明日も。明後日も。雅也くんが忘れる度に、私は伝えるよ。そしたらいつか、忘れない日が来るかもしれないよ」


 そうだ。両想いなのは分かっている。だったら、自分が諦めなければいいだけの話だ。それだけで二人の物語はハッピーエンドになる。

 それはとても素晴らしい名案に思えて、世界がぱっと輝いた気がした。何もかもが自分たちを祝福している、そんな気さえした。


「そんな日が、来るかな」

「来るよ! 絶対に来る!」


 どこからこんな自信が湧いてくるのか、自分でも不思議だった。


 それでも――。


 静香は雅也の手を取って優しく包み込む。

 その日が来たとき、雅也の隣にいるのは自分がいい。

 そう思えたから。


「好きです。私と付き合ってください」


 静香は自らの想いを告げた。

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