失う君に、何度でも 2
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ぎゅるるるる。
その音がもう何度鳴ったか分からない。その度に燃えるような羞恥に耐えた。耐えて耐えて耐えて、ようやく放課後を迎えた。ジュースで誤魔化そうとしても数刻は紛れるが、すぐに腹の虫は鳴き始める。
弁当箱を置いてきてしまったことが悔やんでも悔やみきれなかった。あの雰囲気で取りに戻るのは格好が付かない。次の休み時間にそれとなく確認しに行ったのだが、そこに弁当箱はなかった。雅也が持っていったのだろうと思うものの、声をかける気にはなれなかった。
だから、静香は空腹を我慢するという選択をしたのだ。しかし、その道は想像以上に辛かった。高校生という育ち盛りの時期に加え、毎日激しい部活動をしている。そんな彼女にとって、昼食は自身が思っていた以上に重要な栄養補給源だった。
部活に行く前にコンビニへ走り、パンを牛乳で流し込んだ。大好物のイチゴジャムパンの甘みが口の中に広がる前に牛乳によってかき消され、食べた気がしなかった。それでも胃はちゃんと認識したようで、腹の虫はようやく収まった。
前回の二の舞にならないように、静香は深く息を吐いて心を落ち着かせた。そのおかげか練習が始まってもいつも通りにプレーできた。
ドリブルで相手をかわし、そのままレイアップで決める。左足で踏み切って、跳躍が頂点に達したところでボールを放つ。リングにそっと置くような感覚だ。ボールはリングの内側へ吸い込まれていき、ネットをわずかに揺らした。
「ナイッシュー」
よし、と静香は心の中で拳を握る。全然平気だ。
休憩に入り、ニコニコ顔で京子が寄ってきた。
「今日は絶好調よね? 恋の力ってやつ?」
頬が引き攣らないように注意して、笑顔を作る。
「恋? そんなのしてないけど?」
「ふふーん」
「何その意味深な顔は」
「だって、遊園地でお化け屋敷出てから明らかに雰囲気違ったんよ? 本当は付き合ってるんよねー?」
「付き合ってないから。雅也くんは私のこと、好きじゃないみたいだし」
言葉にすると実感が伴った。本当に失恋してしまったのだと胸が締め付けられた。油断すると涙腺が緩みそうで、静香はぐっと噛みしめる。
「ほおん」
「だから、何もないって」
「まあ、そういうことにしておいてあげよう。ところで、再来週の体育祭は何に出るん?」
「四〇〇メートル走だけど」
「去年と同じかー。雅也は?」
「知らない」
言ってからはっとする。口調が強くなってしまった。苛立ちが焦りに変わる。今ので悟られてしまわないだろうか。
そんな静香の心配は杞憂だったようで、京子は違うように捉えた。訳知り顔で静香の肩に肘を置く。身長差の関係で何とも不格好な姿だが、京子は気にしない。
「そんな必死に知らないアピールしなくてもいいんよ?」
「だから違うって」
「雅也が一位取ったら何してあげるの? ちゅー? それとも――」
「な、何もしないから!」
つい大きな声になってしまい、静香は自分の口を押さえる。だが時既に遅く、周囲の注目を集めてしまった。笑って誤魔化して、京子に向き直る。
「何でそんな話になるの」
「やっぱりご褒美って必要よね? 特に静香は今まで手を繋ぐまでしか行ったことないから、こういうきっかけでちゅーとかしないと一生踏み切れないんよ? 雅也はヘタレっぽいし、どうせ向こうからしてこないに決まってるんだから」
「……確かにそうかもしれないけど」
そもそも、もう二人の関係は終わっているのだ。
そう言おうとしたところで、京子はどこかを見て声を上げた。すぐにニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべる。
「ちょうどいいから、一位取ったらちゅーする約束して来るんよ!」
言いながら京子が指さした方向。そこは体育館の出入り口。
顔を向けると、そこに雅也の姿があった。体育館の中を恐る恐るといった感じで窺っている。
「私に用があるわけじゃないよ」
「静香が用あるんだから、気にせずレッツゴー」
気が進まない静香の腕を引いて、京子は強引に雅也のところへ連れて行く。
「雅也、京子が用あるって」
「いや、私は別に――きゃっ」
静香は京子に背中を押され、体育館から追い出された。扉が閉まり、喧噪が遠ざかる。そのせいで、二人きりになったということを強く感じ、気恥ずかしくて顔を背けた。
お昼の一件で泣き顔を見られている。そのことが恥ずかしくてたまらない。勝手に良い感じになっていたと思い込んで、舞い上がって、勝手に落ち込んで、泣いて。
だから会いたくなかったし、顔も見たくなかった。
だが、こうして顔を合わせると、落ち着かない。胸が苦しく、心が震える。気持ちが高ぶる。
静香は自嘲した。
自分はなんておめでたい人間だろう。
まだ期待している自分に反吐が出た。
「あいつ強引だな」
先に口を開いたのは雅也だった。
「あ、うん。そうなんだよね」
「これ」
差し出された弁当箱を見て、静香は一気に気持ちが冷めるのを感じた。それはそうだと納得する。受け取り、笑って見せた。
「あ、ありがとう。わざわざごめんね」
「いや、僕こそごめん」
「ううん。気にしないで」
それで会話は途切れた。ぎこちない、相手の動きを探るような間が空く。
「あれ、先輩じゃないですか?」
明るい声が暗い空気を吹き飛ばした。
「……お前か」
「お前って酷いじゃないですか。ちゃんと名前で言ってくださいよ!」
「有明か」
「やだなあ。苗字なんてそんな他人行儀な。私と先輩の仲なんですから、ちゃんと下の名前で呼んでくださいよ」
げんなりした表情で、雅也は嘆息した。
「そんな仲になった覚えはないぞ有明紗理那」
「うーん。先輩、恥ずかしがり屋さんですね。というか、部活中にイチャイチャですか、静香先輩」
目を細めながら口元に笑みを浮かべる紗理那に、静香は慌てて手に持った弁当箱を見せた。
「これを受け取っただけだから」
「え! なんだー。やっぱり彼氏さんなんじゃないですか。お弁当を作ってくるなんて、静香先輩意外と家庭的なんですね」
「なっ――ち、違うから。私がお弁当箱を置き忘れちゃって、それを届けに来てくれただけで」
「へえー。ってことはお昼一緒に食べたんですね? これはもう言い逃れできませんね。一大スキャンダルですよ」
一緒に食べてはいない。
しかし、否定すると弁当箱を忘れたというところの辻褄が合わなくなり、一緒に食べようとしたけれど一悶着があったということを話さなければならなくなる。それは具合が悪い。
静香が言葉に詰まっていると、それを肯定と捉えたのか紗理那は雅也に詰め寄った。
「先輩はもう胃袋掴まれちゃいましたか?」
雅也の腕に抱きついて、上目遣いで首を傾げる。
「ちょっと、離れろって」
「えー、何でですか?」
「何でって……その、胸が」
顔を赤くして、頬を掻く雅也。
その姿に静香は言いようのない不快感を覚えた。
「あはは、先輩ウブですねえ。わざと当ててるんですよ?」
紗理那がさらに強く押しつける。
嫌がりながらも、否定しながらも、無理矢理引き剥がそうとはしない。
満更でもない表情で、嬉しそうで。
気づけば静香は、紗理那の腕を強く握り締めていた。
「静香先輩、痛いです」
「あ、ごめん」
腕を擦りながら雅也から離れ、紗理那は苦笑する。
「やだなあ、そんなマジにならないでくださいよ。冗談ですよ、冗談」
「分かってるよ。ごめんね。ちょっと強く握りすぎた」
「もう、ほんとですよ。これは静香先輩に念入りに看病して貰わないと治らないやつですね。具体的にはおっぱいで――」
「はいはい。早く中に戻りな」
「え、い、今のは恥ずかしがりながら胸を隠して――ってあ、ちょっと」
抵抗する紗理那を中に押し込んで、扉を閉める。
静香は扉の方を向いたまま、握ったドアノブに視線を落とす。目を瞑り、深く息を吐いた。
そうしていたのはほんの数秒だった。
顔を上げ、開いた瞳には力強い光が宿る。勢いよく振り返り、詰め寄った。雅也を壁まで追い詰め、顔の両側に手を突いた。
「あのさ」
ごくりと雅也が唾を呑む音が聞こえた。肉食獣に狩られる小動物のような怯えた表情に、静香は少し躊躇いを見せた。これではまるでカツアゲではないか。
けれど、一度動き出した想いを止めることはできなかった。
「体育祭の四〇〇メートル走で一位になったら、私と付き合って欲しい」
雅也は目を見開き、視線を外した。
「こ――」
断る。そう口が動きかけた気がして、静香は言葉を被せ、さらに詰め寄った。
「一位じゃなかったら、きっぱり諦める。いいよね!?」
雅也が息を呑んだ。驚きのあまり顔を戻して、視線が結び合う。
「わ、わかっ……た」
唖然とした表情で、雅也は首を縦に振る。完全に勢いで押し切った。
「約束だからね」
とびっきりの笑顔を雅也に向けて、静香は体育館に戻った。
練習を再開して、ふと自分のことを酷く惨めだと思った。
相手の気持ちなんて関係なく無理矢理に頷かせた。どうしてこんなに必死にすがりつこうとしているのだろう。静香は自問する。
パスを受け取り、反射的にシュートした。ボールが手から離れた瞬間に外れると分かった。
案の定、ボールはリングに弾かれる。バウンドした先には守備側のプレイヤーがいた。
しかし、シュートした瞬間から静香は走り出していた。その身長を活かして誰よりも先にボールへ手を伸ばす。片手でボールを放り、リングの中へ押し込んだ。
「何今の……。静香本気出しすぎなんよ」
引き気味に言う京子を見て、静香は苦笑する。
「ごめん、つい」
湧き上がる後輩たちからの黄色い声援に笑顔を返しながら、静香は迷いを振り払った。
負けるなら、全部出し切ってからでないと納得できない。




