精霊はふよふよただよう
「どうしてそんなに機嫌が悪いのです。別に一日くらい妥協してもいいじゃないですか」
コトは布団の上で器用に跳ねながら尋ねてくる。くるくるくるくると何度も宙を回り、髪が綺麗な円軌道を描く。
「その意見だと復讐とかも認めることになるぞ?」
この現実には絶対悪という概念は在りもしない。相対悪が代わりにまかり通っている現代、復讐という言葉は大きな意味を持っていた。創作では重い過去を持たせたいからという筆者の傲慢な思いで、復讐は作られ正当化されている。そこには倫理観など存在しない。
「一々スケールが大きすぎるのですよ」
「万引きと強盗も大して違いないのと一緒だ。大事なのは規模じゃなくて行動だ」
「千円もあるのにたった三円も捨てられないとは情けないのです」
「話が飛躍している」
「完璧を追求し滅ぶ必要がどこにあるというのですか!」
嘘というものが許せない僕は綿あめのような甘ったるい声に反論され続けた。
頭の片隅がじんわり痛み、息がこぼれる。幾度と意見がぶつかっても交点がない。ひたすら平行線を辿っていた。
「結局何がしたかったんだか」
馬鹿みたいにはしゃいでいたせいで、コトは息が切れ切れになっていた。
「あなたがここまで妥協しないのが悪いのですよ」
布団に戻る足取りも少し重い。
不本侵入してきて、討論にもならない喧嘩をした。コトは何の為にこんな実入りのない家に来たのだろうか。少し探るが思い当る節はない。
「……流石にわたしだって何の目的もなくここに来ないのです」
コトは毛布を座布団に見立てて正座をしていた。ただし数センチ浮いている。
「その視線は止めてくださいよ!」
多分生暖かい目をしていたのだろう。コトの瞳が僅かにうるんでいた。
コトはこしこしと軽く目をこすり、わざとらしく咳払いをする。
「わたしはあなたを助けるためにやってきたのです」
普遍的な詐欺の常套文句も、コトの手にかかればふんわりとしたものに変わってしまう。度々奇行に走るこいつのどこを信用しろと言うのだろうか。言動に気を使っている詐欺師の方々に一回謝って欲しい。中途半端に大人ぶる姿は、それはそれで子供らしいのかもしれない。
「ならそんな生暖かい視線を今から変えてみせます! わたしの凄さに驚いてください」
心を落ち着けようとしていたのに、容赦なく横やりを入れてきた。
コトが自信を持って指差したのは何の変哲もないトランプであった。『いらないから貰ってくれ』という旨で友人が勝手に落としていたものである。傷も特にない為、捨てる訳にもいかず台の隅に鎮座していた。
「ふふん。2%くらい簡単に当ててみせるのです!」
どうやら予知能力の類を披露したいらしかった。スーツが整っている状態だとつまらないので何回かシャッフルするが、コトの視線がトランプに一極集中している。予知じゃくて動体視力だ、という率直な感想は言わないでおく。
「今に見ているのですよ」
のんきで野心的な声色の割に目元は真剣であった。山札から一枚取り出し、床に伏せる。
「これは簡単です。スペードの3です!」
正解はハートの6であった。ただの悪戯に真面目になって損した気がする。コトは「練習じゃ成功していたのにどうして本番で失敗するのですか」とぼそぼそ部屋の隅で呟いていた。
いじけているコトのことを無視し、朝支度を始めた。冷蔵庫から小鍋を取り出し温める。
「あの、その件ですが……」
しばらく時間が経過し反省でもしたのだろうか、背後から申し訳なさそうな声が聞こえてきた。
「もう時間ですよ」
真っ先に布団から時計を掘り起こす。無慈悲にもコトの言う通り八時を過ぎていた。
「は!?」
ブクブクと鍋から汁が溢れているがそんなことを気にしている余裕はない。慌てて身支度を整える。
「何故それをもっと早く言わなかった!」
コトに言ってもどうしようもない。コンロの火を止め、顔に水をかける。
「時なんてもの、わたしにとってないに等しいのです」
唾を吐き捨てるような一言。暗雲が立ち込めるそれは適当に喋ったものではないことを物語っていた。
「どういうことだ」
今日は靴紐がよく絡まる日だ。
「……なんでもないのです」
「それは問題がある奴しか言わない言葉だ」
一番問題を抱えている奴はそもそも声をかけてこない。他人のことを心配する程度の余裕がある奴はよくこういって山積みにしていく。まるで『自分がすべて悪く、お前には関係ない』と無意識に語り掛けるように。
「それじゃ職場にレッツゴーなのです!」
束の間現れた雨雲は跡形も残っていなかった。ただのうわ言だと断じ、玄関の扉を開けて……バタンと勢いよく閉じる。戸締りを厳重に確認し、遅れを取り戻すべく走り出した。