第1話 プロローグ
———音が、狂っている。
キキーッ、というタイヤの摩擦音。鼓膜を叩く、不協和音のような高周波。
誰かの悲鳴。ピッチがうわずったF#(ファのシャープ)か。もう少し息を深く支えてあげないと、喉を痛めてしまうな……なんて。
僕は、どうしたんだ?
いつの間に、空を見て、寝ているんだ?
誰かが、寝ている僕に叫んでいる。
ブロンドの女性と……子供?
———ああ、さっきの……車に轢かれそうになった子供を、庇ったんだっけ。
助かったんだ。良かった………。
手は、あるのか?
動かない。でも、痛くもない。
これじゃあ、もう二度と指揮棒は、持てないな……はは…………。
僕は……死ぬのか?
……困った職業病だ。死ぬ間際まで、他人の出す声と音を心配しているなんて。
……寒い。
聞こえていた音が、遠ざかっていく。
代わりに、僕の耳の奥に、不思議な“声”が響き始めた。
『……音至天域信愛者(音を天の領域まで高め、深く人を信じ、愛する者にこそ)』
———誰の声だ?
『……得筆命書織命理(命の理を織り直す力は授けられる)』
———男とも女ともつかない、だが確かに、僕に語りかけてくる音。
…………。
水都。
僕は、君の役に立てたのかな。
指揮者になったよ。
それなりに、ヨーロッパでも頑張った。
でも———本当は、一番に君の力になりたかった。
あの時の音を、もう一度……聴きたかったな。
今の力が……指揮者の力が。
あの時にあったら…………水都の夢を…………叶えられたの……か、な……。
鼓動のリズムが、少しずつ遅れていく。
アレグロから、アダージョへ。そして、フェルマータ(停止)……。
すべての音が、消えた。
代わりに———完全な静寂が、訪れた————————……
* * *
……まぶしい。
目が、開ける?
ここは……。
息を吸うと、胸が痛む。
でも、血と鉄の匂いはしない。
代わりに……味噌汁の匂い?
———生きている?
……そんな馬鹿な。
仰向けに寝ている。天井が近い。
いや———これは二段ベッドの上段の底?
誰かが、運んでくれたの、か?
ここは……知っているような———うん? 身体が、動く。
なんだかよくわからない。
とにかくベッドから降りて……って……
「え?」
身体が小さい?
このパジャマも———小学生用、か?
視界が低い。背が縮んだのか?
周りを見渡すと……知っているような、知らないような。いや———
机、棚、ベネッセのポスター……ここは子どもの頃住んでいた、団地!?
「陽? おはよう。どうしたの? 変な声出して。」
「母さん!!?」
日本にいるはずの母さんが、なぜここに? あれ、白髪も……というか、若い!?
「どうしたのよ? 寝坊はしてないわよ? しっかりしなさいよ。ほら、ご飯できてるわよ。」
意味がわからない。
「寝坊って……何の?」
「……。あんた、頭大丈夫? 小学校に決まってるじゃない。今日はまだ金曜よ。寝ぼけてるの?」
……小………学校?
小学生?
僕は洗面所に走り込み、鏡を見た。
これは———小学生の……自分!?
「母さん、僕、何年生……だっけ?」
母さんが、いよいよ疑いの目でポカンとしている。
「……はいはい、顔洗って。ちゃんと着替えといで。4年3組、石上陽くん。」
4年生……。 4年生?
僕は、過去に戻ったの、か……?
さっきまでのは、夢?
———じゃない。記憶はある。
ドイツも、コンクールも、水都のことも、全部。
ベッドの部屋に戻り、出されている洋服に着替える。
確か……こんな服。あった。
昔着ていた、母さんチョイスの、服だ。
じゃあ、これは小学生の時の、僕と弟の部屋、か。
何が何だか……と思って布団に目を向けたら———
僕の枕元に、何か光る物がある。
え?
———本?
黄色い光を放ちながら、宙に浮いている。
呼吸と同じリズムで、微かに脈打っている。
(え? え……? な、何だ? こんな、こんなファンタジーな物!?)
———僕を、呼んでいる?
僕の名前を、声ではなく、“音”で。
本が、光を吐くたびに、胸の奥が鳴る。
おそるおそる、手に取る。
特に痛みや、嫌な感じは無い。
冷たくも、熱くもない。
ただ、心臓の鼓動が伝わってくるような———そんな感覚。
分厚い表紙をめくる。
焼け焦げたような文字が浮かび上がっている。
『歪波の———命書』
『運命に逆らい 人の寿命に直接作用して生じた歪波は 自身に返る』
———この瞬間、何かが“共鳴”した。
「運命に、逆らい……。」
背筋がぞわりとする。
まるで、この本が僕に語りかけてくるようだ。
死の淵で聞いた、あの声で。
「陽! 着替えた? いい加減、ご飯食べなさい!」
「あ……うん、ごめん、今、行く。」
僕は怪しい本を布団の下に隠し、リビングに向かった。
* * *
小学校から帰宅後。
僕は布団の下から、あの本をもう一度取り出した。
相変わらず、浮いて、黄色く光っている。
小学校は、昔のままだった。というか、昔そのものだった。
名前も忘れたかつてのクラスメートが、全員いた。先生も。
算数、国語……こんなのやったかな、やったな、と思い出しながら、授業を受けた。
ただひとつ違うのは、僕の中にある48年分の記憶。
帰る最中も、給食当番の白い袋をポンポンしながら、あの言葉を考えた。
『運命に逆らい 人の寿命に直接作用して生じた歪波は 自身に返る』———。
(運命に、逆らえる……?)
試しに、母さんに聞いてみる。
「母さん……リウマチの痛みは大丈夫?」
洗濯物を畳む母さんの手が止まり、また僕に疑いの目が向く。
「……リウマチ? なんでそんな言葉知ってんの? テレビの見過ぎじゃない? お母さん、どこも痛くないわよ? ああ、肩なら痛いから、揉んでくれる?」
うん、いいよ、と言い、母さんの近くに行き、肩を揉みながら考える。
(やっぱり、母さんはまだリウマチになってない。これから起こることなんだ。だから白髪も無い……。
『運命に逆らえる』なら、これから起こることも、“人の運命”も———変えられる?)
「……ちょっと!?」
走って僕は自分の部屋に戻り、机で新しいノートを「バッ!」と開く。
(今日は2018年4月24日。水都の……確かあの日は…………新聞記事を思い出せ………。)
鉛筆の先が、震える。
ノートに、
『2020年4月12日14時31分、東岡崎駅前交差点で轢き逃げ事故、水都、右大腿骨損傷』
と書く。
そして、その先の未来。
高校1年の12月に彼女を襲う、決定的な“死の運命”のことも。
もし、それらを回避すれば、どうなるか。
もう一度、黄色く光る本を開き、一文を読み、フウッと息を吐く。
『運命に逆らい 人の寿命に直接作用して生じた歪波は 自身に返る』
……つまり、彼女の死の運命をへし折れば———
———代わりに、僕が死ぬということか。
ノートを見つめる僕の鉛筆を持つ手は、恐怖からではなく……
歓喜で震えていた。
左の拳を開いたり握ったりしながら、見つめる。
こんな、訳のわからない状況だけど。
これは、奇跡だ。
寿命がどうした。
運命がどうした。
僕の命一つで、君がこの先何十年も音楽を奏でられるなら、そんなに安い代償はない。
もう一度、奏で直すんだ。
———あの日の、続きを。




