第1章 第1節 頭を下げない太陽
1. 夜明けは、まるで夜明けらしくなかった
太陽が東京の空に昇る様子は、どこか神の傲慢さで領地を取り戻すかのようだった。普段みたいに地平線をなぞることもなく、突然、空気が発火したみたいに光が走っていった。
明るい光、慎重に、ゆっくりと、山本家の家屋を横切っていく。タイル屋根も、鯉の泳ぐ池も、何度も戦争や地震、王朝の交代を生き抜いた古い桜の木も照らす。あの土地には何百年も“朝”が積み重なってきたけど、今日みたいな朝は今まで一度もなかった。
太陽は、ただ朝の光を降り注いでいたんじゃない。今日の光は、誰かを選ぶみたいに働いていた。ベランダに立つ一人だけに深く頭を下げるみたいに、光線が彼にだけ曲がって落ちてきた。
山本明。温かい光が肌を包んでも、目を背けなかった。後ずさりもしない。ただ、息を吸った。
光が皮膚の下まで沈み込んで、まるで“心臓の鼓動その二”になったように響いた。天照の血–––今日は、もう一段と強くなっていた。
明は声に出してそれを言わない。でもそんな必要はない。答えは心臓が全部知っていた。
今日は、とうとう世間が自分に命じてくることが消えた日だと、明は目覚めた瞬間から理解していた。封を切っていない手紙や、テーブルの上でほのかに脈打つ神聖な印章のせいじゃない。太陽そのものが、たしかに違って昇ったんだ。
それは明にとって、とんでもなく大きな出来事だった。
同時に、彼自身が認めたくなかったくらい、正直言って怖かった。
2. 嵐は予告なしに
「…またやってるでしょ」
いきなり、その声が静けさを切り裂いた。冷たくて、ピリピリしてて、どうしようもなくイラッと感じさせる––まるで絹でできたナイフみたいだ。
アキラは振り向かずに「おはよう、ズイナ」とだけ返す。
鈴見瑞奈は、ズイナは彼の隣にすっと立って、腕を組んだ。まるで家の中に雷雲を引き連れてきたみたいに、微かに何かがパチパチとはぜる。他の朝なら陽射しも彼女を包むのに、今日だけは光線でさえズズイと彼女を避けているような、有り様だ。
夜明けが終わっても、ズイナがそこにいるだけで空気は雷鳴の匂いがした。
彼女の鋭い目が、明の背後に積まれた手紙に光る。「まだ開けてないんだ」
「必要ないよ」
「逃げてるわよね」
「考えてるんだ」
「逃げてるわよね」
アキラは、少しだけ肩を落とした。「たぶん」
ズイナの表情が、ほんの少しだけ和らぐ。それで彼女にとっては抱きしめるようなものらしい。
「今日、どうなるか知ってるよね?私たち二人にとって」
アキラは頷いた。
彼は太陽の女神・天照の後継者。ズイナは嵐の神・スサノオの継承者。
日本の神話の、ただ2本の血がここに揃っている。国も政府も、この二つの家に畏れと敬意を払ってきた。どこまで行っても“普通”なんて選べない2人。
アキラはやっと彼女の方を見た。
「一度これを越えたら、戻らないよな」
ズイナは何も否定しなかった。
「それが問題」と彼女は言った。「私たち、ちっぽけなままでいられない」
3. 出発は、旅の始まりじゃない
山本家が目覚めていた。いや、日常の喧騒や裕福な家庭ならではの静けさじゃない。神様の儀式が溢れる朝だった。
壁の模様が生きてるみたいに動いて、幾重にも重なる結界がアキラのオーラと共鳴する。監視防止サイン。占術をはね返す障壁。位置トラッキングを防ぐ結界–––まるで空気そのものが固くなったみたいに、内と外を隔ててる。
アキラは、それを敷地の向こうまで肌で感じ取っていた。
無数の気配–––規律正しく、底なしに強く。そして、決して曲がらない。
DGGS(Descendant Government Guard Service)。日本のものでも、アメリカのものでもなく、どこの国のものでもない。
現代のどんな同盟よりも古い条約に誓って、DGGSの目的はひとつだけ。
“神々の後継者を守ること、何があっても。”
ズイナが壁を睨む。「まるで私たちが爆発物みたいな扱いよね」
アキラが首を振った。「違うさ。俺たちが、“失うには貴重すぎる”んだ」
ズイナは鼻で笑った。「どっちも同じようなもんよ」
彼は言い返さなかった。
だって、彼女も間違ってはいないから。
4. 開けなくていい手紙
漆のテーブルの上にあるのは、分厚い羊皮紙に輝く封蝋、神聖な文字。神のアカデミーの紋章が生き物みたいにゆっくり脈打ってる。
アキラは、それに触れようとしなかった。だってもう、触れる必要がない。届いた時点で、もう世界そのものが変わっていた。
ズイナが指でテーブルをコツコツ叩いた。「まぁ…ふつうはメールくらい開けるのに」
「普通の人は、物理法則の外から学校案内なんて受け取らないよ」
「まあ、確かにね」
アキラは、封に視線を送った。
それは招待状じゃない。呼び出し状だ。神様本人からの“命令”だ。
ズイナは手すりに寄りかかる。「…ちょっと、怖いよね」
アキラは否定しない。
「分かってるよ」そう、かすかに息を吐いて答える。
ズイナの声がほんの少し柔らかくなる。「アキラ、あなたは太陽の後継者でしょ。大丈夫だよ、怖がることなんて」
彼はズイナの目を見た。「太陽だって沈むよ」
ズイナが目を丸くする。
それからふいに、笑った。「ちょっと、演劇っぽいわね。でも、あなたのこと誇りに思う」
5. この日を家族も知っている
中庭に出ると、山本と鈴見–––2つの古い家の家族が並んでる。その立ち姿から、どれだけの歴史と神話が染み込んでいるか見て取れた。
アキラの父、山本浩は静かでどっしり構えて変わらない。母のあやめは、誇らしさと・・・どこか心配を隠せない複雑な表情で息子を見ている。
一方でズイナの両親は遠慮がない。鈴見大悟は、“嵐”のエネルギーを堂々と放ってる。玲奈は––まるで武器みたいに、一挙手一投足に緊張が宿ってる。
二人が庭に姿を見せたら、家族全員が一斉にその方を向いた。
一番に、あやめがアキラのほほに手を当てた。「大きくなったね」と、ほっとするように。「でも、あなたはいつまでも私の息子よ」
アキラは小さくうなずいた。「心配ないよ」
「ううん、知ってるの」と、彼女は言った。「でもやっぱり、見守らせて」
大悟はズイナの肩をばしんと叩いた。「また、ご迷惑おかけしないようにね」
ズイナはむっとして言い返す。「私は何も問題起こさない」
玲奈は鼻で笑う。「あなたはトラブルそのもの」
ズイナは何かちょっと物騒なことを呟いた。
アキラは、つい笑いそうになるのをこらえた。
神聖な政治とか、歴史の重さとか全部背負ってても––こういう瞬間だけは正真正銘の家族、普通の人間なんだと思えた。
それぞれの家族、2人の子ども。もう二度と“普通”には戻れない未来に、みんなで送り出されている。
6. 死の世界を抜ける
低い地鳴りが敷地を振るわせた。
結界が変化して、空間ごと重くなった。
門が開いた。
そして、“死の世界”――普段の生活、電車、ビル、朝のラッシュ、そんなものがぜんぶ振り返る間もなく消えてしまった。
外に待っている車は、“リムジン”なんて呼べるものじゃなかった。
まるで神が設計した移動要塞。黒曜石みたいな金属に天球の文様が浮かび上がり、光すら腕で追い払うみたいに反射しない。存在だけで重力が増す、そんな感じだった。
DGGSのエージェントたちが“生きた武器”の通路をつくっている。
ズイナが小さく息を吐いた。「今なら、引き返せるよね」
アキラはうなずく。
「いや」ぽつりと言った。「もう戻れないよ」
二人は並んで一歩、歩み出した。
世界は、そっと道を開けた。




