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王子が悪役令嬢と婚約破棄するのを手伝った結果

作者: 星森 永羽
掲載日:2026/03/14




 カシャカシャと金属の擦れる音が、静まり返った礼拝堂に響いた。


 白い花弁が敷き詰められたバージンロードを進むたび、わたくしの足元で鎧が鳴る。


 純白のウェディングドレスの下に、銀の軽鎧を着込んでいる。


 参列客たちは奇妙な顔をしてこちらを見るが、誰1人として声を上げない。


 父であるディアナ公爵が怖いからだ。



 高い天井から差し込む光がステンドグラスを通り、赤や青の影を床に落としていた。


 わたくしは、その中をまっすぐ歩き新郎の隣に立つ。


 フェルマー伯爵令息は金髪を丁寧に撫でつけ、白い礼服に身を包んでいた。


 整った顔立ちだが、どこか軽薄さが滲む。


 牧師が厳かな声で、誓いの言葉を読み上げた。


「誓います」


 迷いのない新郎の声。


 続いて──


「わたくし“は”誓いません」


 礼拝堂がざわついた。

 誰もが息を呑む気配が伝わる。


 だが牧師だけは眉1つ動かさず、淡々と次の段取りへ進んだ。


 事前に通達してあるからだ。


「では婚姻届にサインを」


 差し出された紙に、わたくしはサラサラと署名する。


 ペン先が走る音だけが響いた。


「なぜ、夫より先にサインするんだ?

 普通あとだろ。

 っていうか『誓わない』って、何だ?

 そんな荒業あるのか?」


 わたくしは彼の疑問に答えず、ただペンを差し出した。


「どうぞ」


 その瞬間、白いドレスの女が勢いよく立ち上がった。

 ──平民のベラだ。

 濃い化粧に、胸元の開いた白ドレス。

 花嫁でもないのに目立つほど派手な装いだ。


「ちょっと、あんた何なの。失礼でしょ!」


 怒鳴りながら前へ出ようとした瞬間、ビリッと嫌な音が響いた。

 スカートが裂け、白い布が床に落ちる。


 次の瞬間、彼女の下着が礼拝堂中に晒された。


 ベラは甲高い叫び声を上げ、顔を真っ赤にして走り去っていく。


 客席から押し殺した笑いが漏れた。




 教会を出ると、外の空気は爽やかで澄んでいた。


 白い石畳の上に春の陽光が反射し、馬車の黒い車体を鈍く光らせている。


 わたくしの侍女は淡い灰色のドレスに身を包み、落ち着いた所作でわたくしの腕を取った。


 乗り込むと、侍女も当然のように続いて馬車へ足をかける。


「なぜ侍女が──」


 前に座った新郎が、驚いたように目を見開いた。


 誰も質問に答えないまま、馬車がゆっくりと動き出す。


 石畳を踏む蹄の音が規則的に響き、揺れが身体に伝わる。


「おい! 教会には、お前の父親がいたから静かにしていたけど、調子に乗るなよ」


 わたくしは答えず、視線だけを窓の外へ向けた。

 青空の下、教会の尖塔が遠ざかっていく。


 侍女が静かに荷物を開き、折り畳まれた衝立を取り出した。

 木製の枠に薄布が張られた簡素なものだが、馬車の中では十分な遮断になる。


 侍女は、それをわたくしと男の間に、迷いなく立てた。


「わ、なんだ、これ?」


 ジュリアンが情けない声を上げる。

 衝立が立つと、彼の顔が半分隠れた。


「姫様はフェルマー伯爵令息の体臭が苦手なのです。

 できる限り動かず、喋らないでください」


 侍女の声は淡々としていた。

 礼儀正しいが、容赦はない。


「なっ……」


 男は慌てて自分の襟元を嗅いだ。

 白い手袋をした指先が震えている。


 香水と汗が混ざった匂いが、馬車の中にわずかに漂った。




 馬車が止まると、古びた屋敷が目の前に現れた。

 外壁はところどころ色が剥げ、庭の手入れも行き届いていない。


 玄関前には数人の使用人が並んでいたが、どう見ても少なすぎる。

 伯爵家とは思えない寂れた光景だった。


 わたくしは侍女の手を借りて馬車を降りた。


 淡い灰色のドレスを揺らしながら、彼女は周囲を一瞥する。


「これしか使用人がいないのですか」


 侍女の声は静かだが、驚きを隠していなかった。


「当たり前だ。歓迎されない、お前たちの出迎えなど──」


 隣の男が言いかけたところで、わたくしは軽く息をついた。


「ミランダ、人様のお家を貧乏だと嘲笑ってはいけません」


 侍女はすぐに頭を下げた。

 銀色の髪飾りが揺れる。


「はい、申し訳ありません。

 公爵家の1/10もいなかったものですから……。

 さぞかし財政が厳しいのですね。

 同情を禁じえません」


 彼女は本気で心配しているのか、それとも皮肉なのか。

 どちらとも取れる声音だった。


「あとで一緒に祈りましょう」


「はい、姫様」


 隣の男は口を閉ざし、視線を逸らした。

 礼服の襟元をいじりながら、何か言いたげに唇を動かすが、結局言葉にはならない。


「ようこそ、おいでくださいました。

 お部屋にご案内いたします」


 年老いた執事が深く頭を下げた。

 黒い服は古く、肩の縫い目が少しほつれている。


 彼の後ろ姿を追って屋敷に入ると、廊下の壁紙は色褪せ、ところどころ剥がれていた。



 案内された部屋に足を踏み入れた。


 そこは、どう見ても使用人部屋だった。


 狭く、窓も小さく、家具は最低限。


 寝台は1つしかなく、荷物を置く場所もほとんどない。


「まあ、やはり荷物を持って来なくて正解だったわね」


「さようでございますね。

 これでは荷物が1/20も入りません」


 侍女は部屋を見回しながら、真剣な顔で言った。


「あとで祈りましょう」


「はい、姫様」


 年老いた執事は深く頭を下げたまま、落ち着いた声で告げた。


「お食事は7、12、19時に持って参ります。

 この部屋は外からのみ鍵がかけられるようになっております。

 それでは、ごゆっくりお寛ぎください」


 その言葉を最後に、執事は静かに扉を閉めた。


 金属の擦れる音がして、鍵が外側から回される。


 廊下を歩く足音が遠ざかりかけたその時、突然パタンと何かが倒れる音が響いた。

 続いて、低い呻き声。


 わたくしは微動だにせず耳を澄ませた。

 侍女は静かに扉の方へ視線を向ける。


 やがて廊下が騒がしくなり、誰かの悲鳴が上がった。


 慌ただしい足音が近づき、鍵が乱暴に開けられる。


「お前、セバスチャンに何した?」


 扉の向こうに立つジュリアンは、顔を強張らせていた。

 焦りと怒りを混ぜた目で、こちらを睨む。


「何、とは?」


 わたくしは淡々と返す。


「セバスチャンがここから出て、すぐに倒れて死んだんだ」


「さようですか」


 新郎は、信じられないというように目を見開いた。


「おい、人が死んだんだぞ。

 何故そんなに落ち着いてられる」


「王妃教育の賜物ではないですかね」


 わたくしが面倒そうに言うと、男は鼻で笑った。


「はは、その王妃になりそこなった女か。

 滑稽だな、こんな場所にいて。

 本来なら今頃、王宮にいただろうに」


 侍女が一歩前に出る。

 灰色の瞳が冷たく光った。


「失礼ですが、ご用件は終わりでしょうか?」


「は? だから、セバスチャンに何したと聞いてるんだ」


「それは、こちらのセリフですよね。

 外から鍵がかけられてるのに、何ができるんですか?」


 ジュリアンは口を開きかけ、言葉を詰まらせた。


「……うるさい。確認しただけだ」


 吐き捨てるように言い、扉を閉める。再び鍵が外側から回される音が響いた。


 静寂が戻る。

 わたくしは侍女と目を合わせ、ほんのわずかに肩をすくめた。




 夕刻を過ぎ、薄暗い部屋に蝋燭の灯りが揺れていた。


 古い木の壁は冷たく、湿気を含んでいる。


 侍女が困ったように振り返った。


「姫様、湯浴みの準備をしようとしたのですが、バスタブがありません」


「あらあら、バスタブを忘れるなんて、うっかりね」


 わたくしは思わず笑ってしまった。

 侍女も肩をすくめる。


 屋敷の貧しさは想像以上だった。




 夜が更け、蝋燭の火が短くなった頃、扉が乱暴に開いた。


 バスローブ姿のジュリアンが、立ち尽くし息を飲んでいる。


 薄暗い部屋の中、鎧を着たわたくしの姿が影を落としていたからだろう。


「な、だ、誰だ?」


「わたくしですわ」


 兜を少しずらし、顔を見せる。

 金属の縁が頬に触れ、ひんやりとした。


「何の御用でしょうか。

 わたくし、もう寝るところですの」


「なんで、そんな格好をしている?!」


「万一にも、純潔を散らされては困るからです。

 それよりも、何の御用でしょうか?」


「だ、は? え、なぜ?」


 彼は理解できないというように目を瞬かせた。


 わたくしは小さくため息をつく。


「何の御用でしょうか」


「お、お、お前を愛することはない」


「ですが──」


「すがっても無駄だ。

 俺にはベラという恋人がいる」


 わたくしは舌打ちした。

 鎧の籠手がわずかに鳴る。


「そうではありません。

 神の前で、あなたは『愛する』と誓っていたではありませんか。

 早速、誓いを破るのですか。

 それなら、わたくしみたいに最初から『誓わない』と言えば良かったではないですか」


「う……う、う、うるさい。小癪なやつだ」


 怒りに顔を赤くし、新郎は扉を乱暴に閉めて出ていった。


 廊下で足音が遠ざかる。


「暇な方ね」


 わたくしが呟くと、侍女が微笑んだ。


「さ、甲冑を脱いで寝ましょう」


 わたくしは頷き、侍女に手伝われながら鎧の留め具を外した。

 金属が外れるたび、今日という日の滑稽さが胸に積もっていく。





 薄い光が小さな窓から差し込み、埃が舞っていた。


 朝の空気は冷たく、湿った木の匂いが鼻をかすめる。


 やがて扉が開き、無表情のメイドがトレイを運んできた。

 パン2つと水2杯だけの、あまりに質素な朝食だ。


 彼女は何も言わず、テーブルにトレイを置くとすぐに出ていった。


 足音が遠ざかり、廊下が静かになったかと思えば──


 悲鳴が響いた。


 侍女は肩を竦めると、窓を開けた。


 朝の風が吹き込み、カーテンが揺れる。


「姫様、失礼いたします」


 そう言って、侍女はトレイごと外へ放り投げた。


 ガシャン、と金属の音がして、続いてまた悲鳴が上がる。


 どうやら下に人がいたらしい。


 わたくしは刺繍を続けながら、暇を潰した。


 外が慌ただしくなり、怒号と足音が交錯する。


 やがて、扉が勢いよく開かれた。


 ずぶ濡れのジュリアンが立っていた。

 金髪は水を滴らせ、シャツはパンカスで汚れている。


「窓から食事を捨てるとは……どういう了見だ!」


 怒鳴り声が部屋に響く。


 侍女は一歩も引かず、淡々と答えた。


「あれは“食事”だったのですか?

 鳥の餌だと思って、鳥にやったのです」


「なっ……!」


 男の顔が真っ赤になり、濡れた髪が頬に張り付く。


 わたくしは刺繍を置き、静かに微笑んだ。


「ミランダ、それだと伯爵家がとても貧乏だという風に聞こえるわ。

 “蟻に慈悲を与える、ボランティア精神に溢れた方たち”と言わなければ」


 侍女は深く頷いた。

 灰色の瞳が真面目に光る。


「確かに……その方が伯爵家の名誉を守れますね」


 ジュリアンは、口を開いたまま固まった。

 返す言葉が見つからないらしい。


 わたくしは刺繍の糸を指に絡めながら、静かに口を開いた。


「フェルマー伯爵令息。

 ご用件が、それだけでしたら……私は朝の祈りがありますので」


 男の肩がびくりと震え、顔がみるみる赤くなる。


「……っ、ふ、ふざけるな!

 うちは、そんなに貧乏じゃない!」


「まあ、そうでしたの?

 父が事前に調査した時は、借金だらけだとありましたが」


「ぐ、うるさい! うるさい! だま──」


 その瞬間、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。


「大変です、キッチンが燃えています! 念のため避難を!」


 若い使用人が青ざめた顔で叫ぶ。


「なっ、わ、わかった!」


 ジュリアンはわたくしたちを振り返る余裕もなく、扉を開け放したまま走り去った。


 廊下の向こうで怒号と足音が交錯し、屋敷全体が騒然としていく。


 侍女は静かに扉へ歩み寄り、ため息をついた。


「まったく、礼儀がないですね」


 そう言って、丁寧に扉を閉めた。

 古い蝶番がきしむ音が部屋に残る。


 わたくしは刺繍を再開しながら、静かに思う。

 この屋敷での混乱は、まだ始まったばかりだ。








 屋敷の外は騒然としていた。


 黒煙が空へ昇り、焦げた匂いが鼻を刺す。


 使用人たちは慌てて外へ飛び出し、庭に集まっている。


 火の粉が風に乗り、まだ熱を帯びた空気が肌を刺した。


「ねえ、アウローラは?

 この機会だから『火傷防止』とか言って水をかけてやろうと思ったのに」


 恋人のベラが、不満げに唇を尖らせる。

 赤いドレスの裾をつまみ、煙を避けるように後ずさった。


 俺は辺りを見回した。

 どこにも、あの女の姿がない。


 逃げられるように、わざと鍵をかけずに出てきたはずだ。

 なのに、なぜ避難していない。




 数時間燃え続けたキッチンは、屋敷が半焼する前にようやく鎮火した。

 だが、もう使い物にならないらしい。


 焦げた木材の匂いが、まだ鼻に残っている。


「みんな、とりあえず復旧作業をしよう」


 俺が声を上げると、家令が眉をひそめた。


「何をおっしゃいますか。

 まだ火跡の熱が残ってますし、そもそも解体業者に依頼せず素人がやったら怪我しますよ」


「それは……確かに。

 だったら、どうすればいい?」


「復旧作業が終わるまで家に帰れる者は帰って、帰れない者は近くに宿を取るか、宿が満杯ならテントなどを張っての宿泊になるでしょう」


「分かった。では、そのように取り計らえ」


「はい」


 その時、ベラ付きのメイドが吐き捨てた。


「全く。血筋だけで何もできない無能な公爵令嬢が嫁いできてから、ろくなことないですね」


「本当よ。あいつ疫病神なんじゃないの?」


 ベラが同意するように腕を組む。


 俺はふと気づき、周囲を見渡した。


「そういえば、あいつ、どこ行った」


「知らないわよ。煙吸って死んでんでしょ」


「それはまずいだろ。

 嫁いで、すぐ死んだなんて公爵に知られたら殺されるぞ」


 胸がざわついた。

 あの女が死んだら、俺の家がどうなるか分からない。


 嫌な汗が背中を伝う。


 俺は急いで、あの女を閉じ込めていた部屋へ向かった。




 部屋の前に立つと、外側から鍵がかかっていた。

 わざと開けておいたはずなのに。


 震える指で鍵を回し、扉を開けた。


 中は静まり返っていた。


 薄暗い部屋の中、侍女も、あの女の姿もない。


「……いない?」


 胸がざわつく。


 部屋の隅から隅まで探すが、どこにもいない。


 窓も閉まっている。隠れられる場所などないはずだ。


 どういうことだ?

 どうなってる?

 どうすればいい?


 いや違う。


 逃げた後に、誰かが鍵を閉めたんだ。

 きっと、そうだ。

 そうでなければ説明がつかない。


「何してるの? 荷物持って宿に行くわよ」


 背後からベラの声がした。

 不機嫌そうに眉を寄せている。


 俺は状況を説明した。

 鍵が閉まっていたこと、部屋に誰もいなかったこと。


「アウローラが逃げた後に、誰かが鍵を閉めたんでしょう」


「何のために?」


「知らないわよ。さあ行きましょう」


 ベラは面倒くさそうに言い、俺の腕を引いた。




 屋敷の奥にある自分の部屋へ向かうと、扉が半開きになっていた。


 胸騒ぎがして中へ入る。


 息が止まった。


 部屋は、めちゃくちゃに荒らされていた。


 壁には穴が開き、床板は剥がれ、貴重な絵画やオブジェ、花瓶は粉々に砕け散っている。

 衣服は引き裂かれ、部屋全体に油が撒かれていた。


 焦げ臭い匂いが鼻を刺す。


「なっ……強盗よ! 強盗! 憲兵に──」


 ベラは叫びながら廊下へ飛び出した。


 これが強盗? どう見ても怨恨じゃないか。


 俺の背中に冷たい汗が流れた。


 その時、悲鳴が響いた。


 慌てて廊下へ出ると、ベラが腰を抜かして座り込んでいた。

 顔面蒼白で震えている。その視線の先には──


 ベラ付きのメイドが血まみれで倒れていた。

 目は虚ろに開き、胸元には深い傷。すでに息はない。


「ふ、2日で3人も使用人が死ぬなんて……」


 俺が呟くと、近くにいたメイドが震える声で言った。


「3人ではありません。

 キッチンにいた調理人も全員……ですから8人です」


「は、8?」


 足元がぐらりと揺れた。

 喉が乾き、声が出ない。


「ねえ……これって……呪いじゃない……?」


 ベラが震える声で言った。


「黙れ!」


 俺は怒鳴り返したが、胸の奥では同じ言葉が渦巻いていた。


 本当に──呪いなのか。


 そんな中、家令が血相を変えて駆け寄ってきた。


「ぼっちゃま……ご報告がございます」


 俺は疲れ切った顔で振り返った。

 頭痛がする。胸がざわつく。


「……今度は何だ?」


 家令は深く頭を下げ、淡々と告げた。


「洗濯メイドが……庭で3名ほど死んでおりました。

 すでに憲兵に報せましたので、対応をお願いします」


 言葉の意味が理解できず、思考が止まった。


「え? は? ……3……?」


 家令は静かに頷く。


 頭の中で数字が弾けた。

 さっきのメイド、キッチンの調理人たち、そして今の3人。


「11……? 2日で……11人……?」


 口が勝手に動く。

 声にならない声が漏れた。


 理解が追いつかない。

 現実味がない。

 こんなこと、あり得るはずがない。


「と、とりあえず……昨日、領地に向かった両親を呼び戻してくれ……!」


「早馬を出します」


 家令は深く頭を下げ、すぐに走り去った。


 俺は、その場に立ち尽くした。

 足が震えている。


 11人……?

 なんで……なんでこんなことに……。


 アウローラは……どこに……?

 まさか……いや、そんな……。


 だが、頭の奥で声が囁く。


 ──これは偶然ではない。


 その考えを否定しようとしたが、喉が乾いて声が出なかった。




 屋敷の前には憲兵たちが集まり、使用人たちの確認や現場の封鎖に追われていた。


 焦げた匂いと血の匂いが混ざり、空気は重く淀んでいる。


 俺はその中心で、もはや何が起きているのか理解できずに立ち尽くしていた。


 憲兵隊長が書類を手に、重い声で告げる。


「たった2日で11人も死亡し、部屋が荒らされ、屋敷が半焼……ですか」


 喉がひりつく。

 俺は顔を引きつらせながら頷いた。


「そ、そうだ……頼む、なんとかしてくれ……」


 だが、隊長は首を横に振った。


「申し訳ありませんが、これは我々の手に負える範囲を超えています。

 王宮騎士団に回します」


「……っ、わかった。今は……復旧作業を頼む」


 すがるように言ったが、隊長は淡々と返した。


「いえ、それは我々の仕事ではありません。

 復旧は業者に依頼してください」


「う……わかった……」


 俺はその場に立ち尽くした。


 思考がまとまらない。

 ただ、不安だけが確実に形を持ち始めていた。


 そのとき、屋敷の奥で影が揺れたように見えた。


 俺は反射的に振り返った。

 だが、そこには誰もいない。




 呆然としているうちに、いつの間にか空は暗くなっていた。


 焦げた匂いがまだ残り、屋敷の壁は黒く煤けている。


 冷たい夜風が吹き抜け、肌を刺した。


 そこへ家令が足早に近づいてきた。

 顔色は悪く、手には書類が握られている。


「ぼっちゃま……王都中の宿屋に宿泊を拒否されました」


「は?」


 意味が分からず、思わず聞き返した。


「ですので、庭にテントを張ります」


「ちょ、え? 何で?」


 家令は淡々と続けた。


「すべての宿で『今後フェルマー伯爵家とは取引しない』と言われたそうです」


「何?! 理由は?」


「門前払いされたようなので、理由は分かりません」


 頭が真っ白になった。


 なぜだ? どうしてだ?


 昨日まで普通に暮らしていたはずなのに。




 使用人たちは黙々と庭にテントを張り、焚き火を起こし、残った食材で簡単な料理を始めていた。


 そのとき、馬車の音が近づいてきた。


 黒い馬車が門をくぐり、ゆっくりと庭へ入ってくる。


 扉が開き、紫のドレスの裾が現れた。

 アウローラが侍女を伴って降りてくる。


「なっ、なっ、ど、どこに行ってた?」


 声が裏返った。

 この混乱の中、どこへ行っていたというのか。


「今日はアルマン家のお茶会でしたの。

 執事から聞きませんでした?」


「執事は死んだと言ったろ」


「あら、ちゃんと茶会の予定を報告してから死ぬべきですわ。

 教育がなってませんのね」


「は、な、バカなことを……」


 言い返そうとしたが、言葉が喉でつかえた。


 彼女はまるで何事もなかったかのように、侍女と共にすたすたと屋敷へ向かっていく。


「待て、家の中は危険だ」


 思わず声が裏返る。

 だが彼女は振り返り、首を傾げた。


「地震ならともかく火災なのに、なぜ危険なのです?

 倒壊するのですか?」


 ……言われてみれば、そうだ。


 火事はキッチンだけで、屋敷全体が崩れるほどではない。


 なのに、なぜ俺たちは庭でテントを張っている?


 考えがまとまらないうちに、気づけばアウローラの姿はもうなかった。


「キャンプはやめて家に入ろう」


 俺は家令に言った。

 家令は眉をひそめ、静かに答える。


「柱の一部が燃えて弱っています。

 崩れる可能性はあります」


「確かに、そうだ」


 さっきの自分の言葉が、急に馬鹿らしく思えた。




 アウローラの部屋へ向かうと、また外から鍵がかかっていた。


 胸がざわつく。


 鍵を開け、中を覗く。


 次の瞬間、息が止まった。


 部屋の真ん中に、湯気の立つバスタブが置かれていた。

 その中で、アウローラが白い肌を湯に沈めている。


「きゃっ」


「失礼!」


 慌てて扉を閉めた。


 心臓が跳ねる。

 顔が熱くなる。


 ……いや、待て。

 なんで、あんなところにバスタブが?


 それに、キッチンは燃えて使えない。

 湯を沸かす場所などないはずだ。

 どこから湯を調達した?


 背中に冷たい汗が流れた。


 もう1度確認しようと、扉に手をかけた。


 中では湯浴みをしていたはずだ。


 さっきは驚いて飛び出してしまったが、どうして湯があるのか確かめなければならない。


 そっと扉を開けようとした瞬間──


 バシン、と頬に衝撃が走った。


「変態! 出て行きなさい!

 覗くなんて最低ですよ!」


 侍女が拳を握りしめ、鋭い目で睨みつけていた。

 灰色のドレスの裾が揺れ、怒りで頬が紅潮している。


「違う! 何で、どうなってるんだ……意味がわからない。

 俺はただ……」


 言い訳をしようとしたが、侍女は容赦なく押し返してきた。


「出て行きなさい!」


 背中を押され、俺は廊下に追い出された。


 頬が熱い。

 心臓が早鐘を打つ。

 何がどうなっているのか、本当に分からない。




 庭へ戻ると焚き火の明かりの中で、ベラと使用人達が倒れて呻いていた。

 顔色は悪く、汗を流し、身体を丸めている。


「ベラ! ベラ、どうした?」


 駆け寄ると、ベラは苦しげに手を伸ばした。


「……医者を……早く……」


「わかった! おい、誰か早く医者を呼べ!」


 叫んだが、誰も動かない。


 倒れている者ばかりで、立っている者すらいない。


「あなた以外、動ける人はいない……早く行ってよ……」


 ベラが涙を滲ませながら訴える。


「な……仕方ない!」


 俺は走り出した。


 庭の焚き火が背後で揺れ、夜風が冷たく頬を打つ。


 ──侍医を呼ばなければ。

 このままでは、本当に誰もいなくなる。




 夜の王都を走り抜け、侍医の家の扉を叩いた。

 冷たい空気が肺に刺さる。息が荒い。


「頼む! ベラが……使用人たちが倒れて……!」


 扉がわずかに開き、侍医が顔を出した。

 その顔は怯え、青ざめ、まるで幽霊でも見たかのようだった。


「……フェルマー家ですか……」


「ああ! 早く来てくれ!」


 侍医は震えるように首を横に振った。


「今日限り……侍医を辞めます。

 もう……関わりたくありません」


「は……?」


 扉はすぐに閉じられ、内側から鍵がかけられた。

 叩いても返事はない。


 胸の奥がじわりと冷えていく。

 理解できない。


 しかし足を止めず、王都の病院を次々と回った。


 だが、どこも同じだった。


「フェルマー家の人間は診ません」

「申し訳ありませんが、お引き取りを」

「うちは関係を断っています」

「他を当たってください」


 名前を告げた瞬間、受付の表情が固まり、声の温度が一気に下がる。


 理由を尋ねても、誰も答えない。


 ただ、恐怖と嫌悪の混じった目で見られるだけだった。


 王都の灯りが、やけに遠く感じた。

 足が重い。

 息が苦しい。


 医療からも拒絶された。

 宿屋からも拒絶された。

 憲兵にも見放された。


 そして──アウローラだけが、優雅に湯浴みをしていた。


 理解が追いつかない。

 何が起きているのか分からない。


 言葉にできない恐怖が広がっていく。




 とぼとぼと屋敷へ戻ると、庭には冷たい夜風が吹き抜けていた。


 そこに──使用人たちの死体が転がっていた。


 焚き火の残りが赤く揺れ、影が死体の上を這う。


 ベラだけが地面に倒れたまま、かすかに呻いていた。


「ベラ……どうした……何で……どうすれば……」


 声が震えた。


 助けを求めるように周囲を見回すが、動ける者は誰もいない。


 昼間、憲兵が言っていた言葉が脳裏に浮かぶ。


 ──王宮騎士団に回します。


「……王宮に行こう」


 自分に言い聞かせるように呟き、夜の王都へ走り出した。




 王宮騎士団の詰所に着くと、衛兵たちが怪訝そうな目でこちらを見た。


 俺は息を切らしながら状況を説明した。


 屋敷が半焼したこと。

 使用人が次々と死んでいること。

 医者にも宿屋にも拒絶されたこと。


 騎士たちは互いに顔を見合わせ、やがて1人が前に出た。


「フェルマー伯爵令息。

 あなたを放火および殺人の容疑で逮捕します」


「……は?」


 言葉の意味が理解できなかった。


「違う! 俺じゃない! 俺は被害者だ!」


 騎士は冷たい目で言い放つ。


「犯罪者は、みんなそう言うんだ」


 腕を掴まれ、後ろ手にねじられる。

 鉄の手錠が冷たく肌に食い込んだ。





 牢の中は湿っていて、冷たかった。


 石の床に体育座りしたまま、時間の感覚が曖昧になっていく。


 食事が10回以上出てきたのだから、3日は経ってる。


 鉄格子の向こうから足音が近づき、顔見知りの騎士が無表情で立ち止まった。


「お前の処刑が決まったぞ」


「なっ……嘘だろ。俺は何もしてない」


 声が震えた。

 騎士は鼻で笑う。


「本当に何もしてないのか?」


「た、確かに妻を監禁したが……それだけだ。

 一連の犯人はアウローラだ」


 騎士は肩をすくめた。


「ふうん。仮に、お前の言う通りでもディアナ公爵令嬢は、どれだけ人を殺しても処刑されないよ」


「は? なんだそれ。

 あんな、王太子殿下に婚約破棄された──血筋だけで使い物にならない無能な女が、何故?」


 騎士は淡々と、しかし呆れたように言った。


「ディアナ公爵令嬢の父君は王弟。

 母君は隣国ヴァルシェリアの王女。

 母君の母君はグランツベルク帝国の皇女。

 兄君の奥様はリュミエール王国の王女。

 妹君の婚約者は、カストレオン国の第1王子。

 これで処刑できるわけないだろう。戦争になる」


 言葉が喉で止まった。


「な、でも……罪は罪だ。

 罪人を裁かないと国民に示しがつかない」


 騎士は呆れたように、ため息をついた。


「さっきから何言ってるのかな、お前。

 お前の家で死ななかった使用人は、全員ディアナ公爵家の放った間者や監査人だ」


 35人中22人が死んだ。

 つまり、残りの13人は公爵家の者。


「彼女のアリバイは完璧だ。

 犯人だとしても証拠は1つもない」


「そんな……どうすればいい……?」


 騎士は冷たい目で見下ろした。


「お前って本当に──自分の頭で考える能力ないよな」


「なんだ……一介の騎士のくせに」


「王宮騎士団は全員、貴族で成立してるんだぞ。

 知らないのか?

 王子殿下の腰ぎんちゃくだったくせに」


「腰ぎんちゃくじゃない……側近だ」


「学生時代、殿下の周りをウロウロしてただけで、登城して働いてるわけじゃないじゃないか。

 なんで、それが“側近”なんだよ」


「ぐ……」


 言い返せなかった。


 ──そうだ。

 卒業パーティーで王子がアウローラに婚約破棄を突きつけた直後、なぜか俺にアウローラを娶るよう命令してきた。


 俺にはベラという恋人がいる。

 だが平民なので結婚はできない。

 いつかは貴族と結婚しなければならないことは分かっていた。

 しかし、まだ先のことだと思っていた。


 なのに、あの命令は強制だった。


 そして──用が済んだとばかりに王子は、その後1度も俺に会おうとしなかった。


 牢の冷たい石に背を預けたまま、言葉がこぼれた。


「俺は……何だったんだ?」


 鉄格子の向こうで騎士が鼻で笑う。


「王子の近くにいれば得すると、何も考えずに腰巾着してた結果、災難を押し付けられた馬鹿」


「っ……」


 反論できなかった。

 騎士の言うことは、すべて事実だった。


 王子と仲良くしていると、親は喜んだ。

 周囲の貴族も一目置いてくれた。

 そばにいれば、将来は重要なポストに就けると信じていた。


 だが、実際は──役人ですらない。

 ただの“取り巻き”だった。


 言葉を紡げなくなった俺を見捨て、騎士は去っていった。

 牢には静寂だけが残る。



 どうしてこんなことになったのか。


 使用人殺害の犯人は、公爵家の手の者だろうか。

 他に考えられない。

 だが、どうすればいいのか分からない。


 まずは今までのことを整理しよう。

 その上で、ここから出る方法を考えなければならない。



 ──3年前。


 学園でフレデリック・ラングフォード王太子と同じクラスになった。


 ラッキーだと思った。


 王子は気さくに挨拶してくれた。

 それだけで、自分は“側近”になれると信じ込んだ。


 当時、フレデリックはアウローラの婚約者だった。

 だが、同じクラスのマリーネ・カーヴェル男爵令嬢と恋仲になった。


 俺は2人がくっつくまで、そしてくっついたあとも、ずっとサポートしていた。

 王子の恋路を手伝えば、信頼されると思っていた。


 ──最初、フレデリックは「学生時代だけの恋愛だ」と言っていた。


 だが、ある日「マリーネの純潔を奪ってしまった。責任を取って結婚しなければならない」と言い出した。


 しかし「男爵令嬢では王妃になれない」と窘めると、彼は「親戚の伯爵家の養子にするから大丈夫だ」と答えた。


 その時点で、もう道を誤っていたのかもしれない。


 王子有責での婚約破棄はできない。

 将来の治世に傷がつくからだ。


 だから、アウローラに冤罪をかけることになった。


 俺はマリーネの教科書やノートを破き、 アウローラが犯人だという噂を流した。


 だが、それだけでは婚約破棄はできない。


 仕方なく、マリーネは自ら噴水に飛び込み、アウローラに落とされたと騒いだ。


 それでも足りないと言われた。


 次にマリーネは階段から落ち、アウローラに押されたと主張した。


 ──殺人未遂だ。

 さすがに、これで婚約破棄できるだろう。


 卒業パーティーでアウローラを断罪する際、俺も「マリーネが突き落とされるのを目撃した」と証言した。


 すると──俺が結婚するよう命じられた。


 パーティーの後で理由を問い詰めると、フレデリックは言った。


「監視が必要だから」


 その時は納得した。

 監視を引き受ければ、それなりの恩恵が受けられると思った。



 しかし、期待した恩恵は何もないまま、卒業式の1ヵ月後に結婚することになった。


 急ピッチで準備が進み、当日を迎えた。


 結婚式には名だたる人物が並んでいた。

 その光景に肝が冷えた。


 王子とマリーネも招待したはずだったが──

 2人の姿はなかった。



 バージンロードの先から──カシャン、カシャンと金属音が響いた。


 アウローラが、ウェディングドレスの下に甲冑を着て現れたのだ。


 参列者たちがざわつく中、彼女は平然と誓いの言葉を拒否した。



 教会を出るときも馬車に乗るときも、エスコートしたのは新郎の俺ではなく侍女だった。


 馬車に乗り込み、結婚式で恥をかかされたことを言おうとした瞬間、侍女がついたてを立てた。


 俺とアウローラの間に、分厚い壁ができた。



 披露宴では突然腹を下し、会場にいられなかった。


 なんとか自宅に戻ると、執事がアウローラを部屋へ案内していった。


 だが──その直後に彼は死亡した。


 最初は偶然だと思った。



 次に、アウローラの元へ朝食を運んだメイドが、階段から落ちて死んだ。


 さすがにおかしいと思い、アウローラに事情を聞きに行くと──

 屋敷が火事になった。


 結婚して、すぐ死なれると困るので部屋の鍵は、かけずにおいた。


 だが避難先の庭に、彼女の姿はなかった。



 その後も、料理人、洗濯メイド、ベラのメイドが死んでいった。


 部屋は荒らされ、家具は破壊され、油が撒かれた。


 途方に暮れていると、アウローラが平然と帰ってきた。

 まるで何事もなかったかのように。


 話し合いもできないまま困っていると、使用人とベラが毒に倒れた。


 医者は誰も来てくれなかった。


 王宮に助けを求めに行くと──

 俺は逮捕された。



 膝を抱えたまま、暗い牢の中で呟いた。


「これは……復讐……?」


 言葉にした瞬間、背筋が冷えた。


 もしかして王子は、こうなることを分かっていたのではないか。


 アウローラの怒りが全部、俺に向くように仕向けたのではないか。


 俺は──最初から捨て駒だったのか。


「そんな……バカな……。

 おい、誰か来い! 王子を呼んできてくれ!

 ふざけるな、こんなことあってたまるか!」


 鉄格子の向こうに牢番が現れた。


「罪人のお前が、王族を呼べるわけないだろう」


「しかし! ……分かった、自白する。今までやったことだ。

 王子に頼まれてアウローラを貶めた。

 司法取引してくれ!」


 必死に叫んだが、牢番は鼻で笑った。


「ここは王宮騎士団の管轄だ。

 王族の罪を告白したって、誰も聞いてくれるはずないだろう」


 足元が崩れるような感覚がした。


「な……そんな……嫌だ……このまま殺されるなんて……」


 牢番は肩をすくめた。


「お前にできるとしたら──」


「なんだ……?」


「ディアナ公爵令嬢が、お前を『処刑するな』と、一言いえば助かる」


 息が止まった。


「それは……」


「跪いて謝れば、許してもらえるかもしれないぞ」


 その“かもしれない”が、あまりにも遠く感じた。


「可能性は、ほぼないと思うがな。

 ……でも、やってみるか?」


 俺は唇を噛みしめた。


「……やってみよう。アウローラを呼んでくれないか」


「まあ、聞くだけ聞いてみてやる」


 牢番はそう言い残し、足音を響かせて去っていった。


 暗い牢に、再び静寂が落ちた。




 どれほど時間が経ったのか分からない。

 牢の外から足音が近づき、鉄格子の前で止まった。


「ディアナ公爵令嬢が来てくださるそうだ。

 貴族牢に移れ」


 騎士の言葉に胸が跳ねた。


 助かるかもしれない──そんな淡い期待が一瞬だけ胸に灯る。


 だが、すぐに気づいた。


 本来、最初から貴族牢に入れられるはずなのに、一般牢に放り込まれていた。


 つまり──

 最初から俺が逮捕されることは、織り込み済みだった。


 背筋が冷えた。




 風呂に入れられ、髪を整えられ、服を着替えさせられた。


 そして、アウローラと対面する部屋へ通された。


 薄紫のドレスに身を包んだアウローラは、まるで舞踏会にでも来たかのように優雅に立っていた。


 ワインレッドの髪を結い上げ、同色の瞳に笑みを称えている。


 俺は地面にひれ伏し、声を震わせた。


「どうか……どうか許してください……!」


 アウローラは、挨拶でも返すように軽く言った。


「宜しくてよ」


「え……」


 許されたのか。

 それとも──ただの返事なのか。


 判断がつかないまま固まっていると、アウローラは侍女に視線を向けた。


「では帰りましょうか」


 それだけ言って、くるりと背を向けた。


 まるで、ここに来たのは“ついで”でしかないかのように。


 見張りの騎士が俺を見下ろし、短く告げた。


「ディアナ公爵令嬢について行け」


 俺は立ち上がり、震える足でその背中を追った。


 助かったのか。

 それとも──別の地獄が始まるのか。


 答えは、まだ分からなかった。




 ディアナ公爵家に到着すると、侍女たちが整然と並び出迎えた。


 アウローラは馬車を降りると、こちらを一瞥し告げた。


「晩餐会があるの。あなたは調理担当よ。

 屠殺小屋に行って、料理に使う肉を解体して持ってきてちょうだい」


 言葉の意味が、すぐには理解できなかった。


 伯爵令息である自分に、肉の解体を命じるなどあり得ない。


 だが、逆らえばどうなるかは、もう嫌というほど思い知らされている。


 使用人の1人が無表情で言った。


「こっちだ」


 敬語すらない。

 胸の奥がざらついたが、口には出せなかった。

 言えば──殺されるかもしれない。




 案内された屠殺小屋の扉を開けた瞬間、息が止まった。


 人間の死体が吊られていた。


 腰が抜けそうになり、壁に手をつく。

 よく見ると、そのピンクの髪に見覚えがあった。


 ──フレデリックの恋人マリーネだった。


 全身は凄まじい拷問の跡で覆われ、損傷していない部分がないほどだった。

 皮膚は裂け、骨が覗き、血が乾いて黒くこびりついている。


 背後から係の男が、斧を差し出してきた。


「その肉は死後硬直で皮が剥がれないから、削ってくれ。

 首を落として、ちゃんと血抜きするんだ。

 分かったな?」


 斧の柄が手に押しつけられる。

 俺は首を横に振った。


「む、無理だ……こんな──」


 言い終わる前に、背中に激痛が走った。

 ──鞭だ。


「命令に背いた場合は、鞭を打つように言われている。

 動けなくなるまで打たれたくなければ、さっさとするんだ」


 再び鞭が振り下ろされる。

 皮膚が裂け、息が詰まる。


 逃げ場はなかった。

 見張りが2人、出口を塞いでいる。


 震える手で斧を握り、マリーネの身体に近づく。

 血の匂いが鼻を刺し、胃がひっくり返りそうになる。


 斧を振り下ろすたび、肉が裂け、骨が軋む音が響いた。


 こんなことが王子に知れたら、いくらアウローラに許されたとしても──

 もう終わりだ。


 だが、ここには逃げ場がない。

 ただ、命令に従うしかなかった。


 恐怖で手が震え、パニックで呼吸が乱れながらも、言われるままに解体を続けた。


 皮を削り、肉を切り分け、使う部分と使わない部分を分ける。


「使わない部分はドブに捨てろ」


 係の男に言われ、ふらつく足で外へ運び、黒い水の中へ落とした。


 ぼちゃん、と鈍い音が響き、再び胃がひっくり返りそうになる。


 可食部分を抱えてキッチンへ戻ると、調理人が無表情で言った。


「それを使って2人分の料理を作れ。補助はする」


 言われるまま震える手で包丁を握り、肉を切り、焼き、味を整えた。


 調理人は淡々と指示を出し、俺はただ従うしかなかった。


 料理が完成すると、使用人の服を渡され着替えさせられた。




 晩餐会の場に行くと、壁際に控えるよう命じられた。


 テーブルにはアウローラの家族が並び、その向かいにはフレデリック・ラングフォード王子が座っていた。


 さらに、もう1人──

 青髪のトマリ・アラウザー侯爵令息。

 学生時代、王子の腰巾着をしていた仲間だ。

 彼の父親は宰相で、今も王の側近として名を馳せていた。


 俺が作った料理は、王子とトマリの前に置かれた。


 2人は何の疑いもなくナイフとフォークを手に取り、口へ運ぶ。


 トマリは、マリーネを愛していたはずだ。

 それなのに自分が食べている肉が誰のものか、まったく疑っていない。


 壁際で立ち尽くす俺の手は、震え続けていた。


 食事が終わると、アウローラが静かに口を開いた。


「次は、アラウザー侯爵令息の元に嫁ぎます」


 トマリの顔が強張った。


「お断りします」


 アウローラは瞬き1つせず、淡々と返した。


「そう。残念」


 その瞬間、騎士達がトマリの腕を掴んで立たせた。


 彼は椅子を倒しながら抵抗する。


「離せ! 何を──」


 アウローラは静かに命じた。


「利き腕を斬り落としなさい」


 騎士たちは淡々と従い、トマリを押さえつけた。


 傷口を止血し、何か分からない注射を打つとトマリは動かなくなった。


 そして、外へ運び出される。


 扉が閉まり、会場には再び静寂が戻った。


 アウローラは、ワイングラスを指先で転がしながら言った。


「炭鉱夫にしようと思ったけれど……治験にしましょう。

 お父様、彼の家はどのように潰しましょうか?」


 その声は、まるで天気の話でもしているかのように軽い。


 ディアナ公爵は、ナプキンで口元を拭いながら答えた。


「前のアホ伯爵家のように、使用人から順番に殺していけばいいのでは?」


「うーん……嫁がないと実況中継のような楽しさがないのです」


「では森に放ち、獲物として逃がそう。逃げ切れたら恩赦だ」


 アウローラは満足げに頷いた。


「アラウザー侯爵夫妻は走れ無いでしょうが、兄君は走れそうですわね。

 ──殿下、ご予定はいかがでしょうか?」


 晩餐会の空気がわずかに揺れた。

 王子がワイングラスを置き、弱々しい声で言った。


「もう……許して貰えないか?

 側近は全員変死。議員は僕を『廃嫡せよ』と言う。

 少しでも僕を気にかける使用人や親族は、みんな次々に身内が不幸になる。

 そしてマリーネの実家は没落し、一家で行方不明だ……」


 その顔は蒼白で、目の下には深い隈が刻まれていた。

 かつての自信に満ちた王子の面影は、どこにもない。


 アウローラは、にこにこと微笑んだ。

 その笑顔は、まるで春の陽光のように柔らかいのに、背筋が凍るほど冷たかった。


「殿下、それは終わりではなく──始まりなのです」


 フレデリックの顔が引きつり、固まった。

 喉がひくりと動く。


 アウローラは首を傾げ、無邪気な声で言った。


「ところでマリーネさんという方は、どなたですか?」


 フレデリックの肩が、びくりと震えた。


「それは……君が……」


「聞いたことありませんわ。

 どういった、お知り合いですの?」


 王子は沈黙した。

 言葉を失ったというより、言えないのだ。

 この場で、何を言えば命取りになるか理解している。


 アウローラは軽く頷いた。


「宜しいですわよ」


「え……?」


「先ほど“許して貰えないか”と仰ったでしょう」


 フレデリックの顔に、わずかな安堵が浮かんだ。


「いいのか……ありがとう……」


 その瞬間、アウローラは扇子を閉じ、俺に視線を送った。


「ジュリアン。彼を屠殺小屋に案内して、仕事を教えてあげて」


 フレデリックが驚愕し、こちらを振り向いた。


「お前……!」


 今まで彼は、俺の存在に全く気付いていなかった。


 そして──アウローラの「宜しくてよ」は、“許す”ではなく “次の段階”という意味。


 王子の膝が震え、椅子がきしむ音が響いた。


 晩餐会の空気は、誰も声を上げないまま、静かに凍りついていった。




 王子を連れて屠殺小屋へ向かう。


 扉を開けた瞬間、フレデリックは悲鳴を上げ、俺は膝から崩れ落ちた。


 そこに吊られていたのは──ベラだった。


 王子は蒼白になり、後ずさる。

 俺は声も出ない。

 ただ、胸の奥が焼けるように痛む。


 背後から鞭の音が響き、俺の背中に衝撃が走った。


「仕事は教えたろう。さっさとやれ」


 係の男が冷たく言う。

 逃げ場はない。


 震える手で、解体していく。

 涙が頬を伝う。


 ふと、胸に黒い感情が湧き上がる。


 ──何もかも、王子が悪い。


 フレデリックが俺に厄介を押し付けなければ、最愛のベラは死ななかった。

 俺の家も、人生も、壊れなかった。


「殿下……ご存知ですか?」


 王子は震える声で返す。

 手にはノコギリが握られている。


「な、何が……?」


「本日、殿下が召し上がった料理──あれはマリーネでしたよ」


 フレデリックの顔から、血の気が引いた。


「……は?」


「確かめたければ、ドブをさらってみてください。

 ピンク色の髪が、きっと見つかります」


 王子は頭を抱え、叫び声を上げた。


「…………うあああああああああ!」


 その声は小屋の中に響き渡り、やがて鞭の音にかき消された。


「無駄口を叩くな。働け」


 係の男が怒鳴る。


 フレデリックは半狂乱になり、係に掴みかかった。


 その瞬間、俺の手は斧へ伸びた。


 振り上げた刃は、ベラではなく王子の背に向けて──






 その後、ジュリアンは王子殺しの罪で逮捕された。

 殺人と無関係のトマリも共犯として裁かれ、両家は取り潰しとなった。


 アウローラは女王になると、フレデリック元王子の両親──先王夫妻を処刑した。




 めでたし、めでたし。





□完結□






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― 新着の感想 ―
すごく面白かったです ナメられたら徹底的にヤる主人公さんが気持ちいい 途中で「王子が一番クソじゃん」と思っていたので、報いを受けててよかったです
グロくてちょっとウッとなってしまいましたが 実際貴族社会だったらこのぐらいの事は平然とやりそうですね… 最近の作品は修道院に送られて終わる事が多いので、きちんと復讐されていて良かったです
特殊な事情がない限り、高位貴族なのに理不尽な婚約破棄された怒りを王家に向けず被害者の子女に向ける作品を見る度に悪い意味で日本らしいなーと思ってたから、ここまで徹底的に思い知らせて磨り潰すのはスッキリす…
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