第五話 河岸の市
港まで歩いた二人は、潮風の中をくすぐったような笑い声を交えながら、「河岸の市」へと足を運んだ。
静岡・清水の地魚が並ぶ人気の市場で、昼前でも店内は観光客と地元客でにぎわっていた。
「名物の漬けマグロいっぱい丼、行こ! お昼はこれって決めてたんだ~」
と、はしゃぐように美波が言う。
「もう、美波ったら相変わらずの食い気なのね」
「だってほら、あたしは美也子みたいに恵まれた職場環境じゃないし、素敵な上司いないもん」
園部美也子の頬には自然と笑みが浮かんでいた。
そして、わずかに目を細めながら、つぶやいた。
「でも、“シジュー”よ、あの人……」
美波が箸を止めて、すぐに察する。
「神谷さんでしょ? そんなの全然アリでしょ。っていうか、逆にいいじゃん」
「なにが“逆に”よ」
美也子は呆れたように笑った。だが、その口調にはどこか複雑な感情がにじんでいた。
「ってかさ、美也子はまだ三十一でしょ。全然若いし、めっちゃ綺麗だし、警察内でもモテてるって噂、聞いてるよ」
「噂って……やめて、そういうのいちばん面倒なの」
ふたりは笑い合いながら、丼を平らげていった。
テーブルの上には、空になった器と、どこかほんのり甘い海風だけが残された。
そのすぐ向こうで、海辺の一角が、青いテープで静かに封鎖されていたことには――
まだ、誰も気づいていなかった。
*
「私さ……あのとき、美波が一瞬、言葉を忘れてるって思っちゃったんだよね」
園部美也子は、河岸の市での出来事を思い出しながら、吹き出すように笑った。
「え、なにそれ。いつの話?」
「ほら、漬けマグロいっぱい丼。あのお兄さんがさ、笑顔で“好きなところでストップって言ってくださいね〜”って言ってから、
白米の上に、ぶつ切りのマグロを豪快に盛りつけ始めたじゃない?」
「……あぁ、あれね!」
美波も思い出し、両手を叩いた。
「普通はさ、ちょっと盛ってもらったら“あ、もうそのへんで”って遠慮するでしょ?
でも美波ときたら、目を見開いたまま、全然止めないの」
「いやだって、止める理由ある!?」
「もはや無言だったよ。真顔でマグロだけ見つめてるから、
私、途中で“これ、永遠に盛り続けるんじゃ……”って不安になったもん」
二人は顔を見合わせて、また笑った。
「……でも、あー、満足満足。ほんと、幸せだったな」
美波は手をお腹に当てながら、丼の山のようなマグロを思い出し、うっとりしたように目を細めた。
「当分マグロ、いらないとか言いながら、たぶん明日また食べたくなるよね」
美也子のその一言に、美波もあっさり頷いた。
小さな旅のなかの、ほんの短い昼食だった。
だが、その笑いの余韻が残る時間も――長くは続かなかった。