第十二話 李榮(リ・ロン)
「その李って、中国人男性は……?」
園部美也子が、静かに神谷に尋ねた。
午後の陽が傾き始めた静岡県警の一室。
港の風のように、どこか冷たい沈黙が流れていた。
「一命は取り留めたそうだ」
神谷は、手元の報告メモをちらと見やりながら、言葉を続けた。
「でも、集中治療室。頭部と胸に銃創。まだ予断は許されない……さっき、厚木の刑事から連絡が入った」
その声に、わずかに悔しさがにじむ。
「折角の証言者だったのにな……」
美也子も唇をかみしめた。
神谷が情報のピースをつなぎかけた矢先――
真実の扉は、再び固く閉ざされた。
*
翌日――
神谷と園部は、都内・虎ノ門ヒルズの一角にある、静かなカフェバーの奥の席にいた。
約束の時間から数分遅れて現れたのは、李南の妻、塚原絢子。
黒のシンプルなワンピースに身を包み、控えめな化粧、そして疲れの残る目。
飲み物の注文もそこそこに、神谷が本題に入った。
「塚原さん……ご主人の李南さんが匿っていたのは、同郷の、黒竜江省出身の外科医で――**李榮**さん、で間違いありませんね?」
塚原は、無言で頷いた。
「どうも、どこかの“船の中”に監禁されていたそうです」
美也子が静かに言葉をつなぐ。
「臓器移植を強要されていたと、ご主人は?」
「……はい」
塚原は、掠れるような声で答えた。
「最初に“施術”させられたのは、中国人男性だったと聞いています。
『殺人犯だから問題ない』『合法だ』と、そう説明されたと……でも、李榮さんは、どこか違和感を感じていたようで」
神谷の表情が固くなる。
「そして次に、“少女”が連れてこられた」
「……その子を見たとき、もう我慢できなかったみたいです」
塚原は、手に持っていたカップをぎゅっと握った。
「まだ息のある、あどけない顔の女の子。
李榮さんにも、小さなお嬢さんがいて……自分の娘と重なってしまったって。
それでもう、何も考えずに……看守の目を盗んで、海に飛び込んだって言っていました」
「……自殺覚悟で」
「はい。助からなくてもいいと思ったって。
でも、偶然なのか、巡回中の警備艇に救助されたんです。
それで、李南を頼って厚木に……」
カフェの空調の音だけが、かすかに耳に残った。
神谷は、深く椅子にもたれながら、目を閉じた。
「臓器移植を強要されていた外科医……犠牲者のひとりが、香山千鶴……
中国の外交官ナンバー……出港した貨物船……」
断片が、いよいよ輪郭を結びはじめていた。
「――だとすれば、あの船の中は、**“移植施設”**だったということか」
「まるで海上の手術室」
美也子の言葉に、神谷は頷いた。
「李榮さんに会いたい。すぐにでも。……今、どこに?」
塚原は一瞬ためらい、そして小さく答えた。
「静岡県警が保護してくれてます。今は別の名前で一時的に――でも、もう時間の問題かもしれません。
あの人たちは、きっとまだ追ってきます」
神谷と美也子は、視線を交わした。
何かが大きく動き出している。
海の向こうから、この国の中枢にまで――確実に。




