第9章「埋もれた声、燃える息」
夜の下北沢、〈ELM〉のカウンター席。
田村奏真は、カフェラテを手に、MacBookをぼんやりと眺めていた。
横では、有村康太がバスの走行音のような低音で鼻歌を口ずさんでいる。
「……そういや、俺さ。昔、オリジナル曲、何曲かネットに上げてたんだよね」
「え、マジすか?ボカロとか?」
「いや、ボカロは使ってない。自分で打ち込んだインストに、仮歌だけのっけてSoundCloudに置いてた。
名前も変えてたし、たぶん誰にも届いてないと思ってたけど……ふと、気になってさ」
田村はブラウザを開いて、数年前のハンドルネームを検索してみる。
──そして数分後、YouTubeに辿り着いた。
「……これ」
「歌ってみた……?」
サムネイルには、黒髪の女性がイヤホンをつけたまま、ベッドルームらしき部屋で歌っている姿。
再生回数は少ない。コメントもない。
けれど──その音が流れた瞬間、空気が変わった。
「……うわ……」
有村が、息を飲む。
田村は、目の前の画面から目を離せなかった。
女性の声は、ただ上手いだけじゃなかった。
>「君の鼓動が遠ざかるたび 名前のないまま僕は揺れる」
正確なピッチ。
それだけじゃなく、母音の閉じ方が異常に滑らかだった。
「お」と「う」の成分を絶妙に曖昧にして、倍音を減らさずにノイズだけを沈めている。
さらに──
「ブレス、完璧……っすね」
有村が、つぶやいた。
「んだこれ……ピッチじゃなくて、吐き出す息の圧でリズム作ってる。
コンプなしでも、ここまで“波”出せるんだ……」
田村は、無意識に画面を巻き戻した。
>「重なるノイズの中にだけ〜」
その「ノイズ」の発音。
高域にかすかに倍音を“意図的に残している”。
ノイズリダクションもEQもしてないのに、“汚いのに美しい”質感がある。
さらに、語尾の処理が異常だった。
「“〜だけ”の“け”を抜いてない……息だけで音高キープしてんじゃん。
これ、肺活量だけの話じゃない。声帯の圧と舌の角度、コントロール完全にできてる……」
有村は完全に音楽オタクの顔になっていた。
「これ、ヤバいっす。
発声でバンドに“空間”作ってくれるタイプのボーカルっすよ。
ただ主旋律歌うだけじゃない、“構造を変える声”っていうか……」
田村は再生を止め、マウスを握る手をわずかに震わせていた。
「……たぶん、俺がずっと“欲しかった声”だ」
その言葉に、有村が静かに頷いた。
──名前は、「ユイ」。
アカウント情報は少ない。連絡先も非公開。
だが田村と有村は、その声が“必要”だとすでに確信していた。
「……探そう」
田村が、小さな声で言った。
「この声に会わなきゃ、曲が未完成のままだ」
次のピースが、確かに見えた。
だがそれは、まだ誰の手の中にもなかった。