第87章「Noëls」
夜の街に、柔らかなネオンが灯り始めていた。
片寄結衣と櫻井由奈は、細い路地を抜けた先にある小さなバーの前に立っていた。ドアには、手書きの看板が掛けられている。
──Live Tonight: Noëls
「……ひさしぶりよね、美月の歌、聴くの」
片寄がぽつりと呟くと、隣を歩く櫻井が頷いた。
「うん。わたし、美月の歌ってさ……なんか、ダイレクトに感情を伝えるって感じがする」
「感情の方は、そうだと思う。でもね……」
片寄は少しだけ真剣な顔になる。
「美月が凄いのは、裏のリズム取り。歌のノリ方。R&Bとかやるなら、正直、勝てるか分からない」
「え……結衣ちゃんでも、勝てないかもしれないんだ……美月って、そんなに上手いんだね」
少し驚いたように、櫻井がつぶやいた。
バーの扉を開けると、すでに店内は客であふれていた。低く流れるジャズ、グラスの音、ざわめき。心地よい熱気が空間に広がっている。
「すいません、今日ライブがあるって聞いたんですけど……」
片寄がカウンターの奥にいたマスターに声をかける。
「ええ、ありますよ」
マスターはにこやかに応じる。
「ワンドリンク制になります。ミュージックチャージはとりませんので、お好きな席でどうぞ」
「ありがとうございます! オレンジジュースください!」
元気に頼んだ櫻井に、マスターは少し困ったように微笑んだ。
「すいません……うちはお酒しかなくて……」
「……じゃあ、水で……」
「いいよ、私が飲むから」
片寄が笑って言う。
「ブールバルディエで」
「かしこまりました」
しばらくして、2人は壁際の席に腰を下ろした。ほどなくして、マスターがステージ前に立ち、マイクを手に取る。
「みなさん、こんばんは」
場が静まり返る。
「今話題のイベントをご存知でしょうか? プロのバンドを募集している、全国規模のオーディションです。今日はその決勝戦、Aグループ代表に選ばれた《Noëls》のライブです。どうぞ、お楽しみください」
盛大な拍手が起きる。
照明がふっと落ち、ステージにスポットライトが差し込んだ──。
手を繋いだときに すべては このためだったと
──その一声が、空気を変えた。
美月の歌声が、観客の胸を真っ直ぐに貫いていく。ギターと共に流れた最初のサウンドで、空間ごと雰囲気を飲み込んだ。
ホーンセクションがグルーヴを刻み、ギター、ベース、ドラムがそれに絡む。高密度なアンサンブル。まるでプロのステージを観ているようだった。
流れていたのは、**《Free Free Free feat.幾田りら》**──東京スカパラダイスオーケストラとのコラボ曲。
「……あれ? 結衣ちゃん、これって……」
櫻井が眉をひそめて尋ねる。
「うん。ボカロの技術だね。音の繋ぎ方、明らかに違う…」
「これが美月……? 前に聴いたのと、全く違う……」
「短期間で、進化してるね」
「それに……バックバンドも……」
「ええ。もう素人じゃない」
希求 希求 希求 希望を求めてた
空の上 飛行機で ヘッドホンして見てた
高速で流れるメロディに、美月は余裕をもって声を乗せる。余裕、というよりは、すでにその音楽と一体化しているようだった。
「……なんか、お姫様と音楽隊みたい」
櫻井がぽつりとつぶやく。
「なるほど」
片寄は、微かに頷く。
「……決勝に行くわけだ」
曲が終わると、ステージに立った美月がマイクを握った。
「こんばんは、Noëlsです。今日はありがとうございました! 今度の決勝戦、ぜひ見てください!」
歓声と拍手が響き渡る。
「すごくよかったな!! ファンになっちゃったよ!」
「決勝はNoëlsに投票しよう!」
店を出ていく観客たちの声が、空気に残る。
「……すごいね。もうファンがついちゃったよ」
櫻井がぽつりとつぶやく。
「負けられないね」
片寄は、小さく拳を握った。
そのとき──背後から、慌ただしい足音。
「結衣! 由奈! まってー!」
振り返ると、美月が息を切らしながら駆けてきた。
「はぁ、はぁ……久しぶり!! やっと会えた!」
「美月!」
櫻井が笑顔で応える。
「ライブ、すっごく良かった!」
「ありがとう! ……私たち、パワーアップして、〈レゾナンス〉と勝負できるようになるまで、頑張ったんだよ!」
「……あのホーンセクションの人たちと、ドラムの人って……」
「ジャズバンドしてた人たちだよ! アメリカでやってたんだけど、『もう終わりにしよう』って日本に戻ってきてて。私たちのライブ観て、『一緒にやりませんか?』って!」
「なるほど……どうりで、上手なはずね」
「うん、めちゃくちゃ上手かった……」
櫻井も素直に感嘆の声を漏らした。
少し沈黙が落ちる。
そして──
「ねぇ、結衣……私、今までいつも2位だった。どんなオーディションを受けても、結衣が必ず1位だったよね」
片寄は、何も言わなかった。
視線だけを、まっすぐ美月に向ける。
「……私、本気だからね」
「わかってる。私も、いつでも本気だよ」
「次は絶対、負けない」
「……」
静かだった櫻井が、唇を引き結ぶ。
「……そうだよね。私たちも、負けない!」
3人は、笑顔で別れを告げた。
店を出た帰り道、片寄がぽつりと尋ねる。
「由奈……ジャズ路線、行けると思う?」
「……無理だね」
櫻井は、素直にそう答えた。
「矢吹くんも有村くんも宮下さんも、ジャズはできる。でも……Noëlsのレベルには、私しか対抗できない」
「……だよね」
「悔しいけど、ジャズ路線では勝てないや……」
夜風が、彼女たちの頬をかすめていく。
戦いの予感は、すでに始まっていた。




