第77章「歓声の渦」
クラブの空気は、すでに酒と熱気でむせかえるようだった。
「──うぉい!もっとノれや、オラァ!」
ステージの下、酔いの回った男たちがコールを飛ばす。ステージでは、前のバンドがスピッツの《空も飛べるはず》を必死に演奏していたが、場の空気にはまるで噛み合っていない。
「なにこれ」「バラードじゃんか」「しらけんだよ〜!」
ブーイングと罵声が飛び交う中、バンドのボーカルが思わず歌詞を間違え、ギターがズレた音を鳴らした瞬間──大きなどよめきが上がった。
「……櫻井さん、やっぱり選曲って大事ですね」
袖でそれを見ていた有村康太が、ゾッとしたように呟いた。
「ね……ちゃんと打ち合わせしてて良かったね……」
櫻井由奈も苦笑しながら、小さく肩をすくめる。
「まぁ、場所ってやっぱりあるよねぇ……」と、宮下辰馬が腕を組みながらつぶやいた。
「いやー、あれは逆においしいって思うしかないだろ……」矢吹慎二は吹き出す。「可哀想にな」
その少し離れたところで、田村奏真と高木翔は、オーナーに頭を下げていた。
「今日は本当に、ありがとうございます」
高木が丁寧に挨拶し、続けて田村が一歩前に出る。
「〈レゾナンス〉と申します。よろしくお願いします」
「おぉおぉ、どうもどうも!」
白シャツにベスト姿のオーナーは、どっしりとした声で応える。眉を上げて笑いながら、ステージの騒がしさに顎をしゃくった。
「いやぁ、見ての通りうちは“熱い”人が多くてね……。高木くん、〈レゾナンス〉さんは大丈夫そうかい?」
「……ええ、問題ありません」
高木はきっぱりと答えた。
その隣で田村も一歩踏み出し、真剣な目を向ける。
「ちゃんと、沸かせますんで。安心してください」
オーナーはニヤリと笑い、肩を軽く叩いた。
「それは楽しみだねぇ!」
やがて前のバンドが、ブーイングの中で早めに演奏を切り上げてステージを降りる。
──〈レゾナンス〉の出番が来た。
前のバンドがブーイングとため息の中でステージを降り、場内にざわついた余韻が残る。
ゆっくりとマイクの前に立ったのは、片寄結衣だった。
「こんばんは、〈レゾナンス〉です」
しかし、その挨拶に反応する者はほとんどいなかった。
酒瓶を傾ける音、ガヤガヤと続く笑い声。ステージに視線を送る者は、ごく一部にすぎない。
「……なにあの子、若くね?」
「また女ボーカルかよ。もういいって……」
ヤジと、嘲るような笑い声すら聞こえる。
「っち……こいつら……」
矢吹慎二が舌打ちした。
だが、その隣で片寄は首を横に振る。
「ダメよ、矢吹くん。始めましょう」
矢吹は、少しだけ口角を上げて頷いた。
──ドラムスティックが空を切り、一拍、二拍。力強いスネアのリズムが場内に響き渡る。
その瞬間、空気がわずかに揺れた。
片寄結衣が、目を閉じてマイクに顔を寄せる。
「 Party girls don’t get hurt…」
──一瞬、場内のノイズが静まったように感じた。
「え……?」
「うま……」
最前列の男が思わず口にする。
片寄の芯のある低音が、狙いすましたように場内へ放たれる。
そして、櫻井由奈のキーボードが、息を呑むほどの美しいコードでそれを支える。
二人の相性は、完璧だった。
「1, 2, 3, 1, 2, 3, drink」
カウントが重なったその瞬間、有村康太のベースが低く、深く、腹の底に響く音を放つ。
そして──
「♪ I’m gonna swing from the chandelier, from the…!」
サビに入る刹那、宮下辰馬のギターが流麗なラインを描き、観客を挑発するように鳴り響いた。
「……ちょ、なにこれ……」
「やば、鳥肌立った……」
浮かれた表情をしていた客たちが、徐々に目の色を変える。グラスを置き、ステージに目を向ける者が現れる。中には体を揺らし始める若者も。
「──よし……!」
ミキサー席の田村奏真は、すぐにツマミを微調整する。
「リハより片寄、ノってる……! 音の圧は落としたくない。……ここだ!」
指先がスライダーを滑らせ、音の輪郭が一段階、くっきりと浮かび上がる。
〈レゾナンス〉の音が、場内の空気を完全に支配していく。
場内が──ざわめきから、驚きへ。そして、歓声へと変わっていった。
「やば、なにこれ……」
「え、普通に上手すぎるんだけど……」
「原曲キーじゃね? 信じられねぇ……!」
グラスがテーブルに置かれ、スマホを構える客が現れはじめる。さっきまで騒いでいた男たちも、言葉を失っていた。
ステージの熱は、明らかに上がっていた。
「──っしゃ、完璧だ……!」
ミキサー席、高木翔はカメラを構えながら、小さく呟いた。
「最高だ……あとは……」
視線の先、片寄結衣が次のフレーズに息を吸い込む。




