第76章「譲れない音」
──スタジオの空気が、異様なほどに張り詰めていた。
「……Chandelier、テイク5、いくよ」
田村奏真の声に応え、櫻井由奈がキーボードのコードを鳴らす。目を閉じ、片寄結衣は深く息を吸い込む。
高音への跳躍。喉に負荷がかかっているのは誰の耳にも明らかだった。
「I’m gonna swing──」
鋭く、そして力強く飛び出したその声は、確かに届いていた。だが、その代償もまた、大きい。
「……っ、ごめん!」
中途で音がかすれ、歌が止まる。しゃがみ込み、片寄は喉を押さえた。
「結衣ちゃん、だめ!これ以上地声に近づけたら──喉、壊しちゃうよ!」
椅子から立ち上がった櫻井が、すぐさま駆け寄る。その声には、音大でボイストレーニングを学んできた者としての危機感がにじんでいた。
「……ダメだ。あと、少し……なのに」
片寄は肩で息をしながら、唇をかみしめる。
「なぁ、片寄」
宮下辰馬がギターを置いて近づいてくる。
「キー、落とそう。誰も怒んねぇって」
「そうですよ、別の方法でやりましょう」有村康太も続く。「話題のために喉潰す必要なんてないです。今だけで終わるつもりじゃないんでしょう?」
「──とりあえず、休もう」
矢吹慎二がタオルを手に、片寄に差し出す。「片寄、吸入器使ってこい」
「……ええ。すぐ戻る」
片寄は絞り出すように返し、スタジオをあとにする。ドアが静かに閉まった。
しばしの沈黙。モニター越しに見ていた田村と高木も、顔を見合わせる。
「……止められないか?」
田村が、珍しく弱い声を漏らす。
高木翔は黙って、歯を食いしばっていた。そして、ぽつりとつぶやく。
「すいません。……自分が余計なことを言ってしまって」
「え?」
「『話題になる』なんて、あのとき言わなきゃ──彼女、無理はしなかったかもしれない」
モニタの向こう。背中を向けて去っていった片寄の姿が、まだ焼き付いている。
「……僕から、話します。ちゃんと」
高木翔は、重い扉を開けて控室へ入ると、片寄の背中に向かって声をかけた。
「──片寄さん、すいませんでした。……キーを落として、やりましょう」
ソファに座り、吸入器を口から外した片寄は、そっと顔を上げた。
「……いや。原曲キーでやる」
高木の目が、驚きに見開かれる。
「どうしてですか?」
「なにかあるんでしょ?」
「……え?」
片寄は水をひと口飲み、カップをテーブルに置いた。
「イベント。なにか聞いてるんでしょ?」
その静かな問いかけに、高木は言葉を失った。わずかに眉を下げ、息を吐く。
「……知ってたんですか? 次のライブが終わってから話そうと思ってたんですけど……」
「そのために、話題が必要なんだよね?」
静かだけど鋭い。そう言い切った片寄の声には、揺るがぬ確信があった。
「……そうですが……でも、そんなのどうでもいいんです。正直……プロダクションだったときの考え方が抜けてないんですよ、僕。恥ずかしいです」
「そんなことない」
片寄は立ち上がり、まっすぐに高木の目を見た。
「高木さんは、やるべきことをしてる。……あとは、私がやるだけ」
「ですが、ここで万が一のことがあれば……!」
「それぐらいやんないと、プロにはなれない」
その言葉に、高木は思わず目を伏せた。
「……」
「プロ目指すなら、こういうことはこの先も続く。今は、“やるべきこと”をちゃんとクリアしなきゃ」
「……でも、体があってこそですよ……」
「大丈夫」
片寄は、微笑んだ。
「──私、才能あるから」
その言葉に、高木は何も言い返せなかった。
やがて録音ブースの前、モニタールームで田村が静かに口を開いた。
「──田村、櫻井。今からキー落としてやれるか?」
「できる!」
櫻井はすぐさま頷く。
「結衣ちゃんに無理させたくない!」
その瞬間、片寄がブースに戻ってきた。
「──お待たせ。やろう」
櫻井は、手元の譜面を見て口を開いた。
「結衣ちゃん、一つ落とすよ?」
片寄は、首を横に振った。
「落とさなくていい。大丈夫よ、由奈。……みんなも、落とさずにして。お願い」
「おいおい……」と宮下が小さくつぶやく。
田村が隣の高木に耳打ちする。
「……ダメだったか?」
高木は、苦笑いを浮かべながら小さくうなずいた。
「……すいません。どうしても、やりたいそうです」
「……わかった。片寄がそういうなら、もう──変えない」
スタジオに、再び録音の準備が整っていく。
その中心には、少しだけ紅潮した頬で、それでもまっすぐ前を向く片寄結衣の姿があった。




