第73章「夜のリクエスト」
静かな夕方の街角。
通りを一本入った先、ほのかな灯りのともる小さな店がある。
──ジャズバー〈Arco〉。
ドアを開けると、やわらかなピアノのBGMと、コーヒーの香りがふわりと迎えてくれた。
「あら、お疲れ様。二人とも、良かったわねぇ……いいマネージャーがついて」
「ほんと、高木さんすごいんだよ!」
櫻井由奈が弾む声で言った。
「今度、ライブも決まったの!」
「へぇ、それは楽しみね。……今日のお客さんってリクエストだけど、いける?」
「うん。ママ、曲って……《All of Me》だったよね?」
「ええ、そう。還暦のお祝いでね」
「大丈夫」
片寄結衣は微笑みながら頷いた。
「少しだけ、練習させてくれる?」
「もちろんよ。今、お客さんまだ来てないから、音出して大丈夫」
「やりますか!」
櫻井が笑って、スタンド横の椅子に腰を下ろす。
片寄はグランドピアノのフタをそっと開けると、鍵盤に手を置き、軽くスケールを鳴らして音を確かめた。
「頼もしいわねぇ、二人とも……ほんと、うちの誇りだわ」
ママの言葉に、二人は目を合わせて、照れくさそうに笑った。
──♪ All of me, why not take all of me……
片寄の歌声が、穏やかなテンポに乗って店内に広がっていく。
櫻井は隣で、丁寧に和音を重ねながら、その歌を支えていた。
「テンポ、これくらいで大丈夫?」
櫻井がそっと問いかける。
「うん。ちょっとスローだけど、それがいいかも。……この歌、優しいから」
結衣はマイクを持ったまま、リズムに身を委ねる。音楽が肌にしみ込むように、ゆったりとした空気が〈Arco〉に流れていた。
そのとき、店のドアがカラン……と音を立てて開く。
「こんばんは〜」
「いらっしゃいませ」
ママがカウンターから出てきて迎える。
入ってきたのは、白髪交じりの老人と、その隣に優しく寄り添う女性。そして、鋲ジャンにモヒカンという風貌の若者。
「じいちゃん、今日は俺のお祝いだ!楽しんでくれよ!」
「あぁ、ありがとな……」
「嬉しいねぇ、あなた……」
おばあちゃんが目を細めて微笑む。
「うわぁ、すごい頭だね」
櫻井が思わずつぶやく。
「なんか……意外ね」
片寄も驚いたように笑う。
「嬉しいわぁ、うちの店を選んでくれて……あんた、自分のバンドは順調なの?」
「おう! 今度のイベントに向けて順調にやってるよ!」
モヒカンの青年が胸を張る。
「ママも出たら? 元々ジャズマンだろ?」
「ジャズウーマンと言いなさい!」
「えっ、ママってジャズやってたの?」
片寄が目を丸くする。
「うん、詳しくは知らないけど、ジャズピアノやってたんだって」
櫻井が嬉しそうに言う。
「私、ママに教わってたんだー」
「そうだったんだ……」
「じゃあ、早速始めてくれよ!」
二人は改めて演奏を始めた。
穏やかなバラードが流れ出し、モヒカンの祖父母は、目に涙を浮かべながら聴き入っていた。
演奏が終わると、店内に拍手が起きる。
「姉ちゃんたち、うめぇーな! どうだ、じいちゃん? 良かったろ?」
「あぁ、ありがとう。この曲はな、思い入れがあってな……」
「ほんとに良かったわ。ありがとうね」
おばあちゃんも、深く頭を下げる。
「いいってことよ! じゃあまた来るよ、ママ! 姉ちゃん達も、イベント出た方がいいぞ! またなー!」
そう言い残して、モヒカンは祖父母を連れて帰っていった。
「なんのイベントだろ?」
櫻井が首を傾げる。
「さぁ? なんだろうね」
片寄も同じように不思議そうだ。
「二人とも、今日はありがとうね。……イベントのこと、知らないの?」
「ママ、知ってるの?」
「ええ。なんか、プロダクションが開催するオーディションらしんだけど……」
そのとき、新たなお客が入ってくる。
「いらっしゃい、あ、ごめんね、今日は本当にありがとうね」
ママがそう声をかけると、櫻井と片寄は一礼して、〈Arco〉を後にした。
店の外に出た後、ふと結衣が言った。
「そういえば聞いた? オフィスの話」
「あっ、やばい! 準備してない!」
櫻井が顔を覆う。
「私は先に行くね?」
「うん! 私もすぐ準備する! またシェアハウスできるの楽しみ!」
「そうね。また後でね」
二人は、それぞれの足取りで歩き出す。
──夜のリクエストを終えて、次の一歩へと向かっていた。




