第62章「音を断つ2コード」
「……はぁ、何やってんだよ、俺」
昼過ぎのアパートの一室で、田村奏真はベッドに寝転びながら天井を見上げていた。昨日のリハーサル、そして有村とのあの喧嘩が、頭の奥で何度もリピートされている。
「……クソッ」
バイトも今日は休みにしてあった。何かが限界だった。音も、人間関係も、自分自身も。
「今日は飲もう……バカみたいに」
そう呟くと、田村は服を着替え、財布とスマホだけをポケットに突っ込んで部屋を出た。
夜、渋谷のクラブ〈ZION〉。
爆音のヒップホップが、床と壁を振動させていた。ビートに合わせて人々が身体を揺らし、テキーラショットが次々に交わされていく。
田村はカウンターで、苦い顔をしながら一杯目を煽った。
「クゥ……」
汗ばんだクラブの空気の中、DJがターンテーブルを回し始める。次の瞬間、スピーカーから重たいビートが鳴り響いた。
──Bling-Bang-Bang-Born。
Creepy Nutsのあの曲だ。
田村の耳が、思わず音に引き寄せられる。
「……AmとE7だけ……たった2つのコードで、ここまでのグルーヴ作ってんのかよ」
体は酔いに任せて揺れていたが、頭のどこかで冷静に構成を聴いている自分がいた。日本語ラップ。ヒップホップの波が、ようやく日本の音楽シーンを飲み込み始めた。
──だが。
「……いやいや、今日はそんなこと考えたくねぇ……!」
頭を振って思考を追い出す。音楽のことなんか、今日は置いておきたい。ただ、騒がしくしていたかった。ただ、何もかも忘れたかった。
──その時。
「おい、やめろって!」「何だテメェ……うるせぇんだよ!」
近くから怒号が聞こえる。複数の男たちが揉み合っている。クラブの照明がチカチカと点滅し、誰が誰だか一瞬わからなかったが──
「……あれ?」
田村は一瞬、酔いが引いた気がした。
「……あの人……オーディションの時にいた……スカウトの……」
顔を覚えていた。確かに、あの時いた。プロダクションの関係者だ。今は完全に酔っていて、絡まれて、怒鳴り散らしている。足元もおぼつかない。明らかにトラブルになっていた。
「うるせぇんだよ!絡んで来てんじゃねぇぞ、オイ!!」
スカウトマンが手当たり次第にグラスを弾き飛ばし、周囲を威嚇する。クラブのボディーガードが2人、ゆっくりとこちらに近づいてくるのが見えた。
「……チッ、マジかよ……」
男たちは空気を察し、散り散りに逃げ出した。スカウトマンだけがその場に残される。
田村は迷わなかった。酔いの残る足取りでそっと近づき、彼の腕を取りながら小声で言った。
「──こっちですよ。今のうちに」
スカウトマンは一瞬、きょとんとした表情を浮かべたが、田村の顔を見るなり、何かを思い出したように小さく頷いた。
──爆音の中。クラブの奥の非常口へと、2人は消えていった。




