第61章「噛み合わない音」
ライブ前日のスタジオ練習。
有村康太のベースは、どこか力なく沈んでいた。音が薄い。リズムが微妙に後ろへとずれていく。
「──ベース、ちょっと後ろすぎる」矢吹がタイミングを見て言った。「俺が拾うから、もう少し前に出せよ」
「……はい」
矢吹のドラムが一歩前へ出る。タムの鳴りを強くして、ベースのラインを補強するように叩き込む。
セッションが終わると、誰ともなく空気が重くなる。
「……まだ、本調子じゃないね」
片寄が、有村に声をかけるようでいて、全体に言うようなトーンで呟いた。
有村は無言のまま、ケーブルを巻いていた。
そこへ、スタジオの扉が開く。
「おーっす! 宮下ー!今日よろしくな!」
宮下の大学時代の先輩であるライブ主催者が、快活な声で現れた。手には機材バッグを提げている。
「いろいろ準備してんだけどよ、今日のリハ、一応ミキサーは持ってきたから。……なんかバタついてんな?大丈夫か?」
「……まぁ、いろいろあって。すいません、ちょっとコンディション悪いかもしれないです」
「だよなぁ。でも安心しろ。ライブは生き物だ、何とかなる。任せとけ」
リハを終え、夜。会場にお客が入り始める。
ライブハウスの照明が落ち、〈レゾナンス〉のステージが始まった。
──1曲目。
有村は、序盤からベースの音を無理やり強く出そうとしていた。抑えていたはずの緊張が、一気に音に乗ってしまっている。
そのせいで、櫻井のキーボードも、気づかぬうちに強くなっていく。
宮下も、有村の勢いに巻き込まれるようにギターのストロークを強めた。
「……っ!」
矢吹はすぐにバランスを察知し、ドラムで必死に制御をかける。だが、サビに差しかかったところで──
片寄のボーカルにも、その乱れが伝染していた。
「(……入れられない)」
いつもなら自然に乗れるはずの感情が、どこにも収まらず、声が“届かない”。
──1曲目、終演。
拍手はある。だが、それは「温かさ」ではなく、「とりあえずの礼儀」に近かった。
「……落ち着けよ、有村」矢吹が小声で言う。
「……すいません……」
──2曲目。
さっきよりは、音がまとまり始める。矢吹のリズムが全体を支え、有村も少しずつ冷静さを取り戻す。
盛り上がりの最終サビ──
「キーン……!」
スピーカーから、甲高いハウリングが鳴り響いた。
観客が一斉に耳を押さえる。演奏は一瞬止まりそうになるも、流れで続けた。
──2曲目、終了。
ライブはそのまま、なんとか予定のセットリストを終えた。
だが、その場にいた全員が分かっていた。
「今までで一番、出来の悪いライブだった」と。
ライブ終了後、ミキサーのスタッフが、真っ先に駆け寄ってきた。
「最後のハウリング、ごめんなさい!俺のミスだ!音が動きすぎてて、どこ拾っていいか分かんなくなっちゃって……!」
「いやいや、うちが悪かったんだよ」宮下が笑って肩を叩いた。「調子悪いのに、いろいろ音動かしちゃってごめん」
「次は……上手くやります。本当に、すみません」片寄が深く頭を下げた。
有村は、端の機材スペースで、ただ黙って俯いていた。
「有村くん……大丈夫だよ。今日だけじゃない。次、また頑張ろ?」櫻井がそっと声をかける。
「……すいません……」
矢吹が横から声を投げる。
「おい、いつまで落ち込んでんだよ」
有村は何も言わず、そのまま立ち去っていった。
ステージ袖に残された4人が、しばし無言になる。
「……はぁ。久々だな、こういうの」櫻井がぽつりと呟いた。
「少し急ぎすぎたかもね……」片寄が同意するように言う。
「有村と田村、仲直りさせる方が先かもな」矢吹が口を開く。
「リーダーが、ミキサーやってれば……もうちょいマシだったかもな」宮下が自嘲気味に笑った。
何かが欠けていた。でも、それが“誰”とか“何”とかだけじゃなくて、“全員の間”にあったと、誰もが気づき始めていた。
──その夜、有村は一人、部屋にいた。
アンプもスピーカーもない。ヘッドフォンをつけて、ベースを抱えながら、ただ指を弦に落とす。
「……俺……」
声にならない。
音は鳴る。だが、心に届かない。
「田村さんに、頼りすぎてたのかもな……」
ぽつりと零れた言葉は、誰に届くこともなく、夜の静けさに吸い込まれていった。




