第55章「音の余白に月がある」
夜の〈Arco〉。静かに低く流れるベースの音、グラスを拭くママの手、常連たちのくぐもった笑い声──その空間を、櫻井由奈の指先が震わせた。
ピアノの上で躍る旋律は、ビル・エヴァンスの「Waltz for Debby」。可憐なメロディが印象的で、はじめて聴く人も魅了するものがあり、三拍子のワルツに感情を揺さぶらせる。
「……ありがとう」
最後の音が消えると同時に、店内から拍手が湧いた。年配の客たちも、若いカップルも、しばし余韻に身を預けていた。
「由奈のジャズピアノ、流石ね」
カウンターでグラスを傾けていた片寄結衣が言った。
「ありがとう、結衣ちゃん!」
「腕上げたんじゃない、由奈! すごく良かったわよ!」
ママがウィンクしながら声をかける。
「滋賀で修行してきたからね!」
由奈はちょっと得意げに笑った。
「音と自分が、繋がってきたのかもね」
「……音と、自分?」
「そうよ」ママがカウンター越しに微笑む。「“巨人”って呼ばれるジャズプレイヤーは、みんな音と自分が繋がってるのよ」
「へー……なんかよく分かんないけど、面白いかも」
「そういえば、結衣はオーディションで東京に来たのよね?」
「はい。一応……辞退したんですけど」
片寄は少し間を置き、続ける。
「友人も出てて、今はまた東京でバンドやってます」
「美月と、決勝まで行ったんでしょ? 二人ともめっちゃ歌うまいんだよ、ママ!」
「まぁ! それはぜひ聞きたいわねぇ」
「……昨日、由奈が練習してたやつ。やってみようか?」
片寄がぽつりと言う。
「え? もう覚えたの?」
「ええ。いい曲だったから」
櫻井は、ふっと笑みを浮かべた。
「よし、やりますか! 結衣ちゃんとの初セッションだね」
──ピアノの椅子に座り直す櫻井。マイクスタンドの前に立つ片寄。ママが照明を少しだけ落とすと、店内の空気がぐっと深くなる。
曲は「East of the Sun(and West of the Moon)」。
カーメン・マクレエの演奏を参考に、片寄はこの曲を自分のものにしていた。
東の太陽、西の月──
幻想的なモチーフと、軽やかでスウィンギーなコード進行。
ジャズボーカルの本質とは、“差し引き勘定”にある。
譜面のとおりに歌えばそれはそれで美しいが、ジャズではむしろ“個性”が求められる。
構造を崩すことで個性を際立たせ、その“余白”に魂を差し込む。
片寄は、そのセオリーをほんの少しだけ取り入れる。
大胆には崩さない。だが、語尾のタイミング、ブレスの長さ、ほんのわずかなメロディラインのずらし──まるでスパイスを一滴たらすように。
♪ East of the sun and west of the moon ♪
その歌は、静かに、そして確かに空気を震わせた。
“歌唱力では、誰にも負けない”という自負が、そこにはあった。
曲が終わると、まるで舞台が終わったかのような拍手が起こった。
「さすが!! カーメンかと思ったよ!!」
「落ち着いたタッチで、歌いやすかったよ、由奈」
「やー! すごいわ!! 二人とも最高よ!」
ママは手を叩きながら言った。
──そのとき。
扉が開き、風が店内に入り込む。
振り向いた客たちの視線の先に立っていたのは──
外国人の男性。スーツ姿だが、ネクタイは緩み、髪も乱れている。顔は赤く、明らかに酔っていた。
「……オーマイガ……ピアノ……ここ、ピアノ?」
ママが、少しだけ声を落とす。
「ちょっと、面倒なの来たかもね……」
酔った外国人客がふらつく足で近づく中、店内に残っていた音の余韻は、ゆっくりと宙に溶けていった。
──セッションの幕は、一度、静かに下りる。




