第39章「叩き直す」
昼下がりの整備工場。
エンジン音と工具の金属音が響く中、矢吹慎二は車体の下に潜り、手際よくオイルを抜いていた。
「……ふぅ」
顔に付いた汗を拭おうと身を起こしたそのとき、声がかかった。
「──よぉ、こないだはうちの孫が世話になったな」
声の主は、整備士歴40年のベテラン・田辺だった。
「……ああ。あの子、ドラム初めたのか?」
矢吹がタオルを首に巻きながら訊ねる。
「ああ。びっくりしたよ。あの後、すぐ東京行くって言い出してな。ドラム背負って新幹線だ」
「……へぇ〜。意外と行動力あるんだ」
油のついた手を拭きながら、矢吹は興味なさそうに言った。
「お前さんは、東京には戻らないのか?」
「……まだやり残してることがあるんで」
矢吹の顔に一瞬だけ影が差す。
──片寄の言葉がよぎる。
「“気を使わせてる”の、わかってますか?」
──知ってる。だけど、だからって俺の音は変えねぇ。
彼の中にある“芯”は、少しも揺らいでいなかった。
田辺はその表情を見て、ニッと笑う。
「……仕事終わったら、ちょっと付き合え」
「……ん?まぁ、いいけど」
そのとき、入口のシャッターが開いた。
所長の息子だった。金髪にピアスの高校生、そして連れの数人。制服のままタバコを咥え、平然と歩いてくる。
「でさ、昨日さ〜、軽音部のやつがムカついてさ。ドラムとかやってたんだけどよ、ガキのくせに粋がってんの」
「で、どうしたん?」
「ぶっ飛ばしてやった。腕、いったかもな。セットもぶっ壊したったわ。バカみてぇにドラムなんてやりやがって」
その瞬間だった。
「……おい、ちょっとツラ貸せや」
矢吹が、無言で歩み寄り、金髪の胸ぐらを掴む。
「えっ……は?なにお前──」
「お前、今なんつった?」
言葉よりも先に拳が出そうになる矢吹に、田辺が慌てて割って入る。
「や、やめとけ矢吹!ここは職場だ!」
「……すぐに終わらせるから」
その目は、怒りというより、確かな“正義”を灯していた。
「作業場の裏、行くぞ」
強引に連れ出す。連れたちは唖然として付いて来ない。
──乾いた風が吹く裏手の空きスペース。
矢吹は金髪の少年を睨みつけたまま、拳をゆっくり握りしめた。
「お前な……ドラム叩くヤツに、どんな思いがあるか、わかってねぇだろ」
「は?なに、説教?年寄りかよ」
少年が鼻で笑った、その瞬間だった。
腰の後ろから鉄パイプを引き抜き、いきなり矢吹に振りかぶる。
「──っ!」
矢吹は即座に一歩身を引いて避け、タイミングを見て腹部に鋭く一発入れた。
「ぐっ……!」
少年がたまらずうずくまる。
だが、パイプを握ったまま、再び立ち上がり矢吹の右手を狙ってくる。
(まずい……折る気だ……!)
矢吹は咄嗟に身を引こうとするが──
「──やめろ!!」
飛び込んできたのは、田辺だった。
その身を盾にするように、矢吹と少年の間に割って入る。
「おっさんっ!!」
鈍い音と共に、鉄パイプが田辺の肩を打った。
「……ッぐ……っ……」
田辺はその場で膝をつき、うずくまる。
「て、てめぇ……なにしてんだよッ!」
矢吹が怒りに震えて少年に詰め寄ろうとした、そのときだった。
「こらーーーッ!!」
怒鳴り声が響き、工場の奥から所長が駆け込んできた。
「何をしてる!! 仕事場でふざけた真似してんじゃねぇ!!」
目の前の光景に所長の顔が蒼ざめる。
「てめぇ、自分のしたことわかってんのか!? お前はもう、うちの人間じゃねぇ……今すぐ出てけ!!」
所長の一喝に、金髪の少年はバツの悪そうな顔で舌打ちし、連れとともにその場を去っていった。
矢吹は急いで田辺に駆け寄る。
「だ、大丈夫か!?」
「お、おう……骨は折れてねぇ……多分な……」
苦笑いしながら、田辺は肩を押さえて立ち上がった。
「なに、大したことねぇよ、お前さんの手が無事でよかった……」
その言葉に、矢吹は思わず目を伏せた。
「……自分の感情で手出して……結局、何も変わりゃしねぇ……」
──叩くということ。
それは、誰かを傷つけることじゃない。
夕陽が差し込む工場の裏。油と汗と、血の匂いが混じる中。
叩き直すべきものは──誰かの心じゃなく、自分自身だったのかもしれない。




