第38章「歌う低音」
「──本日の注意事項を伝える。お客様との不要な接触は避けること。荷物は床に置かない。規制退場の案内は焦らず明確に──」
早朝の東京ドーム裏手。警備スタッフたちの朝礼が行われていた。
「……ダンボールって、あったかいんですね」
ポツリと隣の先輩に漏らすと、訝しげな顔で振り返られた。
「なにが?」
「いえ、なんでもないです」
はにかんで誤魔化すと、朝の空に掛け声が響いた。
「──それじゃあ、各自持ち場へ!」
開演数十分前。東京ドームのスタンドに波のような観客が押し寄せ、客席がざわめきで満たされていく。
有村の担当は、まさかの最前列──ステージ真下の警備。
「……一番の特等席じゃん……」
つぶやいたその瞬間、照明が落ち、爆発のような歓声が上がった。
ドラムロールと共に、照明がステージを染め上げる。
「──L’Arc〜en〜Ciel!」
スクリーンに文字が現れた。
1曲目は〈ミライ〉。
「……なんだ、このベースライン……」
有村は息を呑んだ。
tetsuyaのベースが、唸るように、しかしメロディのように会場を駆ける。
リズムの土台を作りながらも、音符一つ一つが“言葉”のように歌っている。
(めちゃくちゃ歌ってる……!)
驚きと、羨望と、興奮とが一気に押し寄せる。
(支えるところはしっかり支えながら……ちゃんと歌ってる。それなのに、ぜんっぜん邪魔にならない。hydeの歌とぶつからない……)
(……このバランス、ヤバい……)
観客の大合唱がステージを包む頃には、有村の目は一点を見据えていた。
──自分の“理想の低音”が、そこにあった。
ライブが終わったあとも、有村の胸は高鳴ったままだった。
感動も、衝動も、まだ冷めない。
そのまま、スタッフカーで滋賀へ向かう帰路。
隣に座った先輩が口を開いた。
「すげぇライブだったなぁ。お前も見とれてたな」
「はい! 特にベースが……ほんと、すごくて!」
「ん?ベース?……あー、なんかいっぱい鳴ってたな」
「……それだけですか?」
有村は絶句し、思わず目を伏せる。
「話す相手、間違えました……」
「なんだよ、つれねぇな。……歌は俺のがうまいぞ?」
先輩はそう言って、なぜか鼻歌交じりに〈HONEY〉を歌い出す。
「♪ずっと〜眺めていた〜♪」
「やめてください……せっかくの思い出が台無しになる……」
心の中でうんざりしながら、有村はそれでも前を向く。
──俺も、あの技術、絶対手にしてやる。
滋賀へ戻る車窓の向こう、朝日が少しずつ昇っていく。
音楽人生の、次のフェーズが始まろうとしていた。




