第34章「変奏の始まり」
ピアノ教室の小さな防音室。
櫻井由奈が鍵盤の前に座り、深呼吸ひとつ。
目の前では、山崎麻耶が腕を組んで静かに見つめている。
──奏で始めたのは、いつものようにリズムが跳ねるジャズピアノ。
アドリブの入り口でポップス調のメロディが混じる。けれど、そこには少しのぎこちなさがあった。
麻耶の視線は真剣だった。
(……ジャズがベース。でも、ポップスがところどころ混ざってる。まだ身体に馴染んでないのね)
櫻井の指が最後の音を弾き、静かに手を下ろす。
「……どうですか、師匠?」
笑顔を浮かべて言った櫻井に、麻耶は軽く頷いて返す。
「なるほどね。あなた、今までジャズしか聴いてこなかったでしょ?」
「はい……。でも、ジャズバンドって難しくて、何度も失敗して……」
麻耶は頷いたまま、静かに続きを促す。
「それで、ジャズ以外もやることになったのね」
「はい。アレンジャーの田村さんって人に声をかけてもらって、彼の曲で練習してるんです。バンドも楽しいし、前より音楽が好きになったんですけど……どこかで、“これでいいのかな?”って」
「……ちょっと待ってね」
麻耶は席を立ち、棚から1枚のCDを取り出した。
再生ボタンを押す。
スピーカーから流れてきたのは、クラシックの旋律を大胆に崩した、けれど美しいジャズアレンジ。
「この曲……すごい……!」
櫻井の目が見開かれる。
「この人はね、山中千尋っていうピアニスト。クラシックをずっと勉強して、そこからジャズに転向して、バークリー音楽大学に入ったの」
「……えっ、クラシックから……?」
「そう。プロの道って、一本のジャンルで貫く人もいれば、いくつも越えていく人もいる。ピアノ人生って、何が起きるかわからないわよ」
麻耶が微笑む。
櫻井は、膝の上で手を握ったまま、ぽつりと呟いた。
「……そっか。私、ピアノの“楽しみ方”、まだ全然わかってなかったんですね」
「そう思えたなら、今がそのスタートかもね」
麻耶はにこやかに言ったあと、少しだけ真面目な口調で続けた。
「どうなるかはわからないけど……一度、クラシックやってみる? 今のあなたには、きっと良い刺激になると思う」
櫻井は、大きく頷いた。
「……はい!やってみます!」
その目は、昨日よりも少しだけ強くなっていた。
──音楽の扉は、一つだけじゃない。
そう思えた瞬間、櫻井由奈の中で、また一音、鍵盤が鳴った。




