第26章「心の調律」
滋賀の静かな住宅街。櫻井由奈は、Googleマップを頼りに、ある一軒家の前に立っていた。
「ここか……」
インターホンを押すと、すぐに扉が開く。現れたのは、自分と同い年くらいの女性だった。すっぴんに近い顔に、落ち着いたブラウンの髪。少し驚いたような表情を浮かべながらも、彼女はやわらかく微笑んだ。
「……ピアノの調律の方?」
「はい、櫻井です。よろしくお願いします」
案内されたリビングの一角には、少し埃をかぶったアップライトピアノが置かれていた。
「弾いてたんですね?」
「うん、昔はね。いまはたまに触るくらい」
櫻井は無言で作業を始める。蓋を開け、内部を覗き込みながら、少しずつ音を整えていく。
「あのさ、ジャズって聴く?」
櫻井がふと話しかける。
「たまに。でも、私はどっちかっていうとR&Bかな。エリカ・バドゥとか、」
「……知らないなぁ。私はビル・エヴァンスとかアート・テイタムとか。……古い?」
「うん、ちょっとね」
二人は顔を見合わせて、ふっと笑った。
「なんか、音楽って、近いようで遠いね」
「うん。でも、だからこそ面白いんじゃない?」
彼女は頷き、ピアノの上に視線を落とした。
「私さ、プロの歌手を目指してたんだ。東京の事務所で、レッスンもして、ライブもして……でもうまくいかなくて、最近帰ってきた」
「……そうなんだ」
「地元の友達がさ、またバンドやろうって言ってくれて。嬉しいんだけど、私がやっていいのかなって迷ってる」
調律を終えた櫻井が、工具をしまいながら顔を上げた。
「やればいいよ。……誰かが背中押してくれるのって、すごく大事なことだよ」
櫻井はふと思い出す。
──かつて、田村が自分の音に向き合ってくれた日のこと。
「……君が自分の音を信じてるなら、俺はその“間”を埋める音を作る。」
あの言葉が、ずっと彼女を支えてきた。
「私も昔、自分の音が分からなくて、苦しかった。でも──信じてくれる人がいるなら、やるしかないよ」
彼女は目を丸くし、そしてゆっくりと笑った。
「……そっか。そうだよね。ありがとう。やってみるよ」
「それなら──よかったら、うちのライブに出てみない?」
彼女は戸惑いながらも
「……ありがとう。今すぐ友達に連絡してみる!」
スマホを取り出して慌ててメッセージを打ち始める彼女。
櫻井はその様子を見て、ふと口にした。
「……名前、聞いてもいい?」
彼女は顔を上げ、少し照れたように笑う。
「山崎美月。よろしくね、櫻井由奈さん」




