第20章「オーディションの夜 - 第2幕」
寝癖だらけの男が「Vaundyの『風神』」のイントロに合わせてマイクを握る。
宮下が隣で鼻で笑った。
「……おいおい、それムズすぎだろ。あんなネオソウル、簡単に歌えるわけないよ」
しかし田村は心の中で静かに呟いた。
(この曲は、ネオソウル特有のグルーヴ感と、広い音域を見せるいい選曲だ。ここで歌いこなせるなら、本物だ)
男は軽く頷き、「おっけー」と言って、ゆるやかに歌い出した。
その声は驚くほど滑らかで、しかもピッチがぶれることなく安定している。
有村は思わず息を呑んだ。
「え? めちゃくちゃ上手いじゃん……」
田村も目を見開いた。
(この曲の難しいグルーヴ感も正確に捉えている。しかもフェイクも見事だ……)
宮下は汗をぬぐいながらつぶやく。
「やべぇ……マジでやばすぎる」
矢吹も、櫻井も顔をこわばらせて真剣に聴き入っていた。
歌い終えた男は、涼しい顔で一言。
「こんな感じ?」
その瞬間、入口の扉がバタンと大きな音を立てて開いた。
慌てて駆け込んできたのは、以前有村が会ったプロのスカウトマンだった。
「橘くん! 困るよ、急にいなくなって……最終審査の途中だろ?」
店内の空気が凍ったように静まる。
だがその中心で、当の本人──橘は、マイクを持ったまま無造作に答えた。
「……ああ、あのオーディション?」
軽く頭をかきながら、口元に笑みを浮かべて言った。
「……あれあの子で決まりっしょ?ユイだっけ?」
──その瞬間、店内の全員が息を呑んだ。
「……は?」有村が思わず声を漏らす。
田村も驚いて立ち上がる。「ユイを知ってるのか?」
スカウトマンが慌てて声をかける。
「おい、なに勝手に──君、いまトップ3に入ってんだぞ。下手すりゃ契約即決だったのに……!」
橘は涼しい顔で振り返った。
「……だから、辞退したんですよ。俺より歌える奴がいるなら、そっちの方が正しいでしょ」
沈黙。
誰もが言葉を失った。
橘が最後にぽつりと呟いた。
「──あの子の声には、届かないんで。少なくとも今の俺じゃ」
そう言って、マイクを戻し、ステージを降りた。
その後ろ姿を、宮下も矢吹も櫻井も、そして田村も、有村も、ただ黙って見つめていた。
田村はゆっくりと視線を落とした。
(やっぱり……君しかいない。“この音を繋ぐボーカル”は──)
静まり返った〈楽屋口〉に、新たな確信だけが残された。
──そして、まだ見ぬユイの姿を探す物語が、さらに加速していく。




