第2章「低音の言葉」
午後2時
下北沢の静かな裏通り、雑居ビルの2階にあるカフェ〈ELM〉。
木の温もりとジャズが溶け合う店内に、田村奏真は一人で座っていた。窓際、エスプレッソの香りが鼻に抜ける。
──DMの文面は、妙に真っすぐだった。
ネットでのやりとりにしては、熱量があった。だからこそ「話してみたい」と思った。
「お待たせしました、田村さん、ですよね?」
声をかけてきたのは、黒のキャップにTシャツ、ベースケースを背負った男。目元が涼しげで、だが瞳には何かしらの火が灯っていた。
「有村康太、です。…はじめまして」
「田村奏真。…こっちこそ、ありがとう。よく来てくれたね」
二人は軽く頭を下げ合い、向かい合って座る。
コーヒーを注文し終えると、会話はすぐ本題に入った。
「まず……動画、マジでびびりました。
あんな綺麗にベースの帯域、整理してくれてる曲、最近あんま聴かなくて。ああ、こいつ分かってるなって」
「おお、いきなり褒められると照れるな…ありがと。
でも逆に、よくそこ気づいたね。普通、ベースの処理って一番“聴かれない”とこじゃん?」
「……俺、ベース以外やってこなかったんで。逆に、そこばっか聴いてきたんですよ」
有村はそう言って微笑んだが、その表情はどこか寂しげでもあった。
「ベースって、バンドの中で一番“気づかれない”じゃないですか。
でも、いないと成立しない。音の芯が消えるし、リズムもばらける。
俺、ずっとそのポジションが好きで……“支えてるのに気づかれない存在”って、ちょっとかっこいいと思ってた」
「それ、分かるわ……。
俺もベースラインいじるの好きで、低音のリズムがちょっとヨレてるだけで、曲が“気持ち悪く”なるじゃん」
「そう!テンポは合ってるのに、“ノレない”曲って、大体ベースのせいなんすよ。
逆に、ベースがちゃんと16分裏でハネてるだけで、全部“ノる”ように聴こえる」
「あと、グルーヴな。
ハイハットとキックが揃ってても、ベースがズレてると“バラけたバンド”に聴こえる。
逆に言えば、ベースが正しいと、ちょっとのズレも“味”に化ける」
「ベースはリズムでもあり、和音でもあり、雰囲気でもある──俺、それがたまらなくて」
有村の目が、言葉を追うたびに熱を帯びていく。
彼が語る“音”には確かな情熱があった。
「だから正直、今までのバンドでは物足りなかったんですよね。
みんな、コードとメロディだけで音楽作ろうとしてて、“土台”に無頓着だった」
「……それ、めっちゃ分かる」
田村は、少し身を乗り出していた。
「俺、曲作る時、一番最初に手をつけるのベースラインだもん。
“低音が気持ちいい”ってだけで、聴いてる人の体って自然に反応する。
それができるバンドって、もうそれだけで強い」
しばらく、二人はベース談義に没頭した。
名プレイヤーの話、使ってきた機材、フェンダー派かミュージックマン派か、ピックか指か──
まるで旧知の仲のように、話は尽きなかった。
「中学の頃にベース触って、ずっとこれ一本。高校でバンド組んだけど、途中で解散して。
大学でも何回かメンバー集めたけど、結局“音楽観が違う”ってやつでバラけたんです。」
「音楽観って、便利な言い訳だよな」
田村の声に、有村がふっと笑った。
「ですね。
でも俺、あれが言いたかったんです。
“俺が鳴らしたい音を、分かってくれるやつとやりたい”って」
少しの沈黙。だが、心地いい沈黙だった。
「俺もさ、バンド解散してから、何年もソロでやってみて分かったよ。
……音楽って、1人じゃ完結しないんだよな。どこかで“他人”の音に触れないと、進まない」
「じゃあ──俺と、やってみます?」
有村がまっすぐに尋ねる。
「まだ何ができるか分かんないけど。
あなたの音の“下”を、俺が支えるのは、たぶん悪くない」
田村奏真は、少しだけ目を細めて笑った。
「よし、じゃあ……試してみようか。
“土台”が固まらないと、何も建たないからな」
その瞬間、まだ名前のないバンドの第一歩が、カフェのテーブルの上で静かに踏み出された。