第17章「もう一度だけ」
薄暗いステージに、ぽつんとギターの音が響いた。
音は単音だった。
ゆっくりと、コードを鳴らすわけでも、リフを刻むわけでもない。
けれど、その一音だけで空気が変わった。
──宮下辰馬のギターだった。
誰にも聴かせるつもりのない、ただのチューニングのような音。
しかし、そこに宿っていたのは、確かな“音楽の気配”だった。
高円寺〈楽屋口〉の夜。
照明の落ちた店内に、有村康太と矢吹慎二のふたりが入ってくる。
「……また来たのかよ、お前ら」
ギターを肩にかけたまま、宮下がうんざりしたように声をかけた。
「しつこいな。言ったろ、俺は──」
「ちょっとだけでいいんです。これ、聴いてもらえませんか」
有村が切り出し、スマホをスピーカーに繋ぐ。
流れ出したのは──Official髭男dism「Pretender」。
けれど、それはまるで別の曲のようだった。
ギターとピアノのテンションコードが浮遊感を生み出し、
ベースは重力を無視するように上下をさまよう。
そのアレンジの中には、“隙間”があった。
まるで、その隙間を埋めるために、宮下のギターを待っているかのように。
「……なんだ、これ……」
宮下の指が止まり、目が音に吸い込まれていく。
「前に話した、田村さんのアレンジです」
有村が静かに答える。
「あなたのギターに“響く”曲を、って頼んで──。
俺たち、この曲をあなたと演奏したいんです」
宮下は、目を伏せた。
「……無理だよ。無理なんだよ、そんなの」
「どうしてですか?」
「……もう音楽には戻れない。何もかも終わったんだ。
期待されて、踏み潰されて、捨てられて──それだけだよ」
その時、矢吹が立ち上がった。
「……おい。今の曲、聴いて何も感じなかったのかよ?」
宮下が睨み返す。
「感じたよ!……でも、だからこそ怖いんだ。
また本気になって、また潰されるのが」
「……宮下さん」
有村の声は静かだった。
「あなたの演奏、ずっと覚えてました。
空間に“間”を作って、他の音が自然と活きるようなギター。
誰かと音を合わせるためじゃなく、“全体を鳴らす”ために弾いてた。
……あの演奏、忘れられるわけないじゃないですか」
宮下の目が揺れた。
有村の言葉は、音のように染み込んでいく。
「俺、ずっと信じてましたよ。
もう一回、“あなたのギター”が聴けるって」
沈黙。
宮下は少しのあいだ俯き、そしてぽつりと呟いた。
「……そうか、……分かってくれてるんだな」
その声は小さく、けれど確かだった。
「俺さ、ほんとは……もう一度だけ、バンドがやりたかったんだ」
矢吹がニヤリと笑い、有村がまっすぐうなずく。
「──なら、やりましょう。僕たちで、もう一度」
宮下はギターを構えたまま、深く息を吐いた。
「……一度だけだぞ。期待すんなよ」
それは、口先の照れ隠し。
音楽に背を向けていたギタリストの、静かな帰還だった。




