第16章「スイッチ」
高円寺〈HANGAR〉の事務所。
そのソファに、有村康太は腰を下ろしていた。
目の前には、相変わらずタバコを片手に気だるげな矢吹慎二。
「……さっきはごめんなさい。」
有村が先に口を開いた。
「俺、バンドって“音が合えば”どうにかなると思ってた。でも違った。……一緒にやるって、もっと深いんですね」
矢吹は何も答えず、煙を吐き出した。
「宮下さん、やっぱりただの人じゃない気がして……。でも、あの人、なんであんなに音楽に冷めてるんですか?」
そのとき、事務所のドアがガラリと開いた。
顔を出したのは、矢吹にかつて“やられた”バンドのメンバーたちだった。
3人は少し戸惑いながらも、中に入ってくる。
「……あんたら、宮下辰馬とセッションしたんだって?」
ひとりがそう口にした瞬間、矢吹が目を細めた。
有村も、食い入るように耳を傾ける。
「昔、宮下はプロになる寸前まで行ってたよ。
メジャーデビューの話も決まってた。ギタリストとしても、作編曲でも、もう注目されてたんだ」
「……でも、レコーディングの日、事務所の偉い人が現れてさ」
「“この曲、ちょっと難しすぎるから、もっとシンプルにしよう”とか言い出してさ」
「“売れるためには音を薄くする必要がある”とか言って、やたら口出ししてきたんだよ」
有村の表情が険しくなる。
矢吹は、無言のまま煙をくゆらせていた。
「そしたら宮下が、その偉い人に向かって──」
>「お前の音楽、終わってる」
「……って、言い切ったんだよ。マジで。そのまま契約も白紙、クビ。全部パー」
「でも、ちょっと……かっこよかったよ。まだ若かったけど、音楽に本気だった」
沈黙が落ちた。
「……なら、“仕掛けて”みるか」
矢吹が口を開いた。
「宮下が捨てたもの、まだ拾えるならさ。あいつの“本気”を引きずり出すだけでも、バンドやる価値ある」
「……どうやって?」
有村の問いに、矢吹がニヤリと笑う。
「田村に連絡する。1曲、俺らに合わせてアレンジしてもらう。……有名なやつを、ぶっ壊してもらおうぜ」
有村がスマホを取り出す。
>《田村さん、“Pretender”のアレンジ、お願いできますか?》
送信から間もなく、田村から返信が届いた。
>《どうして急に?何かあった?》
有村はすぐに電話をかけた。
「……田村さん。頼みたいのは、ちょっと特殊な“Pretender”なんです」
「ほう?」
「ギタリストがひとりいて……宮下辰馬って言うんですけど。天才です。だけど、音楽が嫌いになったって言ってて」
電話越しの田村が、少しだけ息を止めた気がした。
「……宮下辰馬。名前だけ聞いたことあるな。確か、スウィープもスキャットもこなすのに、本人がそれを隠してるタイプだろ」
「え?」
「ギターで“鳴らす”んじゃなくて、“引き算で構築する”タイプの変態。理論より感覚が先に走る。しかも、“無意識に難しいことを簡単そうに弾く”──そういう奴は、マジで厄介だよ」
有村が息をのむ。
「すごい……なんでそこまで」
「動画で一度だけ、セッションの音を聴いたことがある。途中で抜けたギタリストの代理って形で入ってたらしいけど──たった30秒で、“コードに何を足さないか”で空気を変えてた」
沈黙。
田村が、少しだけ声のトーンを落とす。
「そういうギタリストは、曲を“信用”しない限り絶対に弾かない。
だから逆に、そいつが本気で弾きたくなる曲を作れたら……とんでもないことになる」
「……じゃあ、やってもらえますか」
田村は短く笑った。
「──面白い。そういうことなら、任せろ」
通話が切れて、わずか数分後。
田村から届いたファイルには、信じられないほど精緻に組まれたアレンジが詰まっていた。
Official髭男dismの「Pretender」。
ベースラインは意図的に“重心”を浮遊させ、
ギターには「1弦解放Dmaj9→B7(♯9)」という“宮下専用の誘い”まで仕込まれていた。
そのアレンジは、まるで──
「宮下辰馬」という人間の“音楽のスイッチ”を押すためだけに存在しているかのようだった。
「……このピアノ、誰だろう?」
有村はつぶやいた
「ふーん……悪くねぇ」
矢吹が珍しくピアノを褒める
数日後。
矢吹と有村は、再び〈楽屋口〉へ向かっていた。
この曲を、あえてあの場所で演奏するために。
──“宮下辰馬”に火を点ける、その瞬間のために。




