第15章「偏愛と白日」
ストリートピアノの脇のテーブルに座る田村奏真と櫻井由奈。
夕方の渋谷に、オレンジの光が差し始めていた。
「……ところでさ、由奈ちゃんはジャズ専門なの?」
田村が尋ねると、櫻井はまっすぐ前を向いたまま、はっきりと答えた。
「ジャズ以外は、音楽じゃないと思ってます」
「……ああ、なるほどね」
田村は眉を少しだけ上げ、ほんのわずかに困った笑みを浮かべた。
「クラシックとか、ロックとか、ポップスとか……」
「どれも、演奏する理由が“外”にある感じがして。
ジャズだけなんですよ、“音”と“人”で会話してるのは」
田村は黙って頷いた。
それがただの偏見ではなく、彼女なりの“信仰”なのだと分かったからだ。
「じゃあ……ちょっと、試してみようか」
田村はMacBookを開いて、イヤホンを片方だけ櫻井に渡す。
「何を?」
「アレンジ。今ここで作ってみる」
数分でDAWが立ち上がり、ピアノのバッキング、ウッドベースのライン、スナップのようなブラシドラムが重なっていく。
その上に乗ったのは──
切なくも真っ直ぐな旋律。**King Gnuの「白日」**だった。
だが、それは単なるカバーではなかった。
リズムは5拍と6拍が交錯するルバート・フィール。
コードはテンションを保ったまま、常に“解決”を避けるように配置されていた。
ヴォイシングはビル・エヴァンス×現代Lo-fiジャズのようで、原曲のコードを残しつつ、ほとんど“別の曲”になっていた。
再生が止まる。
櫻井はしばらく口を開けたまま、固まっていた。
「……すごい……」
ぽつりと、呟く。
「この曲……今、作ったんですか?」
田村は笑いながら首を振った。
「いや、違うよ。“King Gnu”ってバンドの曲。
俺は、ちょっとアレンジをかけただけ」
櫻井は、一瞬目を見開き──次の瞬間、視線を下げた。
「……私……全然、知らなかった」
言葉の端が少しだけ震えていた。
「ジャズしかやってないって、強がってただけかも……
本当は……誰とも、合わせられないんです。
アンサンブルになると、頭が真っ白になって……
怖くて……」
田村はそっと、言葉を待った。
「でも……夢なんです。
バンドがやりたくて、誰かと音楽がしたくて……
でも、私……無理かもしれない……」
涙をこらえるように、櫻井が目を伏せる。
──その肩に、そっと田村の声が触れた。
「……“誰とも合わせられない”ならさ」
「……え?」
「“合わせてもらえる音”を出せばいいんだよ」
櫻井が顔を上げた。
「音楽って、“合う人”を探すことじゃない。
“違う人同士で、どうすれば響けるか”を考えること。
それがバンドで、アンサンブルなんだ」
その声は、やさしくて、でも迷いがなかった。
「……君が自分の音を信じてるなら、俺はその“間”を埋める音を作る。
それが作曲家の役割だって、信じてるから」
櫻井の目が潤んだまま、何度も瞬きを繰り返す。
「私……」
「大丈夫だよ。君のピアノ、“誰かと重なる準備”はもうできてる」
風が、ピアノの蓋を少し鳴らす。
まだ誰のものでもない音が、ふたりの間に静かに残った。




