第14章「鍵盤の月へ」
週末の午後、渋谷の一角にあるオーディション会場。
田村奏真は、後方の見学席に腰を下ろしていた。
「……いないか」
周囲には、順番を待つ十数人のボーカリスト。
みな事務所やSNSでのスカウトを狙ってきている本気の連中だった。
「この中に、ユイがいる可能性も……と思ったけど、甘かったか」
田村の目は一人ひとりを慎重に見ていたが、あの“声”の気配はどこにもなかった。
その時だった。
「次の方、櫻井さん……櫻井由奈さん?」
「はーい!」
朗らかな返事とともに、小柄な女の子がふわふわと現れた。
彼女の手には、なぜかコンパクトなキーボードケース。
ざわめく控室。
審査員の一人が、眉をひそめて声をかける。
「えーと、ここはボーカルのオーディションなので、キーボードは……」
「えっ、あ、そうなんですか? てっきりセッション形式かと……」
笑顔を浮かべながら、櫻井は状況を飲み込めていないようだった。
「すみませんが、今回はご遠慮いただいて……」
「あ、はい! すみませんでした〜」
何でもなかったように会釈し、櫻井はそのまま退出する。
田村は思わず、口元を緩めてしまった。
「……なんだあれ」
場違いもここまでくると、むしろ清々しい。
オーディションはそのまま進んだが、田村の心はすでにどこか浮ついていた。
結局ユイは現れず、空しく会場を後にする。
──渋谷駅前。人波の中に、ふと浮かぶ音。
どこからか、ピアノの音が聞こえてきた。
ストリートピアノ。都が設置した“誰でも弾いていい”開かれた楽器。
「……?」
足が止まる。
奏でていたのは──あの、さっきの少女だった。
櫻井由奈。オーディション会場で“返された”彼女が、今は真剣な顔で鍵盤に向かっている。
流れるのは、「FLY ME TO THE MOON」。
古いジャズ・スタンダード。
だが、アレンジが違った。
右手のコードボイシングは、ラウンジジャズよりもビル・エヴァンス寄りのスプレッドヴォイシング。
左手はリズムセクションのように動き、メロディをリードする。
田村の目が見開かれる。
「……モードが崩れない。
代理コードを通してるのに、トニックの重心がまったく揺れてない……」
単に上手いだけではない。
“意味のあるズレ”を鳴らす理論と、それを成立させるフィーリングが共存していた。
耳慣れた曲なのに、まるで聴いたことのない解釈。
──ピアノが、“歌って”いる。
曲が終わると同時に、周囲から小さな拍手が起きる。
だが、田村はもう立ち止まれなかった。
「君……さっきの……オーディションで」
声をかけると、彼女はぱっと顔を上げて、はにかんだように笑った。
「あ、審査員の方ですよね!」
「えっ? いや、違うけど(笑)」
「え!? じゃあ、誰ですか?」
田村は笑いながら言った。
「ただの、音楽やってる人。でも──」
視線をまっすぐに櫻井の目へ向ける。
「……君の音、ちゃんと“音楽”になってた。」
「……そんなの初めてです」
その瞬間。
櫻井由奈の目がキラッと光り、軽く頭を下げると──
真剣な口調で、こう言った。
「……お願いします。
私を、プロのミュージシャンにしてください!」
田村は一瞬目を丸くしてから、吹き出して笑う。
「……いや、俺、スカウトマンじゃないって(笑)」
その笑い声は、今の東京でいちばん温かい音楽のはじまりだった。




