第10章「別々の第一歩」
冬の気配が近づく下北沢。
〈ELM〉の片隅で、田村奏真はMacBookを開いたまま黙り込んでいた。
あの声が、頭から離れない。
──ネットに上がっていた、自作のオリジナル曲。
それを“歌ってみた”という形でカバーしていた、無名の女性ボーカル。
タグにあった名前は「ユイ」。
“音程”ではなく、“空気の厚み”で歌を構成するその声は、確かにプロの領域だった。
「……誰なんだ、彼女は」
田村はすぐに、音楽業界の知人にメッセージを送ってみた。
学生時代の音大仲間、アレンジャーの先輩、ライブハウスのブッキングマネージャー。
連絡先が残っている限り、数十人に聞き回った。
──だが、誰一人として「ユイ」を知らなかった。
活動名義が違うのか?
そもそもまだ本格的な活動をしていないのか?
「名前も顔も知られてないのに……なんで、あんなに完成してるんだよ」
田村は画面を睨みながら、無意識に手元のコーヒーを一口すする。
そのまなざしは、どこか焦りと興奮の入り混じったものだった。
そんなときだった。
横に座っていた有村康太が、おずおずと口を開いた。
「……あの、言いづらいんですけど」
「ん?」
田村が顔を向けると、有村はスマホを手にしていた。
「活動、本格化させるってなったら……資金、必要ですよね。
機材費も、スタジオ代も、録音やリハの交通費だってかかる。
……俺、今バイトもほとんど入れてなくて」
田村は何も言わず、うなずいた。
「で、これ──」
有村はスマホの画面を田村に向けた。
《バンドでカラオケができる店 ベーシスト募集!》
「……バンド形式でお客さんのカラオケ伴奏する仕事、らしいです。
ギャラも出るし、演奏の練習にもなる。
……正直ちょっと怪しいけど、今、できることはやらなきゃって思って」
田村は画面をじっと見つめたあと、ふっと息をついた。
「……有村」
「はい」
「その気持ちが、めっちゃありがたい」
田村の言葉に、有村は少しだけ目を丸くする。
「俺は、“声”を探す。
有村は“土台”を支える。やり方は違っても、向かってる先は一緒だろ?」
田村は笑みを浮かべ、パソコンをパタンと閉じる。
「よし、それぞれ行こうか。必要なのは“ピースを埋めること”だ。
……一歩ずつでいい。組み上げていこう、俺らのバンドを」
違う場所で、違う方法で──
だがふたりは、確かに同じ音へと近づいていた。




