第五十三話 オラトリオの叛攻-06
「確実に削り切るには、これを繰り返すしかないかと」
「理論上はねぇぇ。でもそれぇ、誤差10メートルとかぁ、5メートルとかっしょぉ?」
「8メートル20センチです。それ以上ズレると致命的です」
軍用トラックの陰に隠れて会話を盗み聞く。
抑揚のない冷たい口調に、細かすぎる数値。顔はよく見えないが、この話し方は間違いなくハヤブサだった。
話の内容から、一人でうじうじ、己の過去を恨んでいた訳ではなさそうな様子である。
そっと顔を覗かせて、その姿を見た。
すらりと伸びた高身長、細身の体躯。ハヤブサと、その正面にもうひとり。見知らぬ顔。
「んんんまぁ、アスカモデルでそれならぁ、間違いないかぁ。頑張んなねぇ」
そう言って、ハヤブサの前に立っていた人影は、ひらひらと手を振りながら移動する。風が吹いて、その人影の髪を揺らした。
「ミオは、これから寝るんですか」
「寝ぇるよ、おやすみのチューしてくれんのぉ?」
「馬鹿ですか」
「つんめてぇー」
腰に届きそうなくらいの、濡れたカラスの羽と同じ、艶のある真っ黒な髪をなびかせて。ミオ、と呼ばれた女性は、へらへらと笑いながら歩き去っていった。
「……は?」
なんだ、いまの。
相変わらずの敬語だが、ハヤブサが他人を呼び捨てにしているのは初めて見た。当然だが、ミオという女性はトゥースブラッシュ中隊にはいない。
そしてやけに親密そうな距離感。おやすみのチュー、とは?
お や す み の チ ュ ー と は ?!
「見てたぁ?めんこいねぇ」
「ヒッ――」
不意に耳元で話しかけられ、震え上がって持っていたタオルを落としかけた。飛び退くように振り向くと、先ほどまでハヤブサと話していた、黒髪ロングの女性が至近距離に立っていた。
「んだッ」
いつものように噛みつきかけて、肩に縫われた階級章が目に入ったので口を閉じた。アラセよりも階級は五つ上だ。
「ハヤブサんとこの娘かぁい?」
真っ赤な唇が笑う。ハヤブサと同じくらい、肌が白い。眠たげな垂れ目がアラセの姿をぼんやりと捉えていた。
「……トゥースブラッシュ中隊、煌舞アラセ陸士長、です」
「はじめぇましてぇ。カーミラの狡明ミオ准尉ぃ、ハヤブサと同じ北方軍だよぉ」
「北方軍?」
ハヤブサと同じ?
カーミラ?
おやすみのチューの女?
え?何者?
疑問符が大量に出現して、アラセの脳内を埋め尽くす。
ミオがにっこり笑顔を崩さずにアラセをじっと見てくるので、なんとなく居心地が悪く目を逸らした。
「うちの2-1に絡まないでください」
ひやり、と冷たい声が刺さった。いつの間にかハヤブサが近くに来ていて、両手をポケットに突っ込んだ姿勢でミオを見下ろしている。
「作戦行動中でもないのにぃ、このコのこと、コールサインで呼んでんだぁ?」
ミオがからかうように言って、今度はハヤブサが目を逸らす。
「そぉいうとこだべさ、ハヤブサぁ」
言いながら、ミオは長い髪を風で遊ばせながら、今度こそ二人の前から颯爽と歩き去って行った。戦闘車両の迷路に紛れ、あっという間にその姿は見えなくなる。
「「…………」」
その場に残された二人は、言葉もなく立ち尽くして。
陸軍の偵察ドローンが一機、耳障りな音と共に上空を飛び去っていった。
「……色々説明してくれねーかな」
絞り出すように言った自分の声の低さに、自分で少し驚きながら。アラセは、ハヤブサの方を一切見ずに、ざりっと足元の砂を蹴った。




