第五十二話 オラトリオの叛攻-05
ハヤブサの長くサラサラの前髪の奥から、潤いのある黒目がこちらを静かに見ている。
特に理由もなくハヤブサの椅子を蹴り飛ばしたアラセは、顔ごと目を逸らして次の言葉を考えた。
――いや、避けるみてえにどこか行こうとしたお前が悪いんじゃ。なんて、脳内で愚痴りながら。
「……食い、終わったら、言うことあんだろ」
「………………ごちそうさまでした……?」
「あとお腹も休ませろ」
「はい」
素直に従って、ハヤブサは立とうとしていた椅子に座り直した。
またも、無言。
雨が窓を叩く音と、誰かのスプーンの乾いた音だけが、教室内に静かに響く。
しかし、空調のない蒸し暑い部屋。ほかほかの白米に煮込まれた豚肉を乗せた丼を食べていれば、当然汗がじんわり滲み出てくる。
額の、前髪の生え際あたりにできた汗の粒を手の甲で拭い、そろそろ風呂にも入りてえななんて思いながら。
隣に座るハヤブサが、汗をかいていないことに気付いた。
放棄された蒸し暑い前進基地でも、まとわりつくような暑さのイチガヤでも、そしてここでも。ハヤブサが汗をかいている姿を見た記憶がない。
「お前、暑くねーの?」
今度は世間話っぽく、声を掛けた。視界の端で、ハヤブサはこちらを見ずに、窓の方を向いたのが見えた。
「暑さは感じますよ。汗をかけないだけで」
「……かけない?」
かかない体質、とかではなく?
顔を上げて訊き返したアラセに、ハヤブサはしかし、少しもこちらを見ず。
「病気、だったので。6年ほど前に、心臓の神経を一部、切断しています。なので汗をあまりかきませんし、緊張も興奮もしないんです」
そう、静かに言い切った。
「……」
機械みたいだ。アンドロイド、作戦立案ロボット。
常に冷静で、時に早口で、冷たく感情のない口調で繰り出される指示に、自分を含め多くの――少なくともヒテンとダイチは、ハヤブサが人間じゃないと思っていた。
それはほんの冗談で、揶揄した言い方で、いわゆる陰口のようなもののつもりで。
まさか本当に、心臓の神経が切られているなんて。
聞き耳を立てていたであろう、教室内にいるアジサイやタイヨウ達全員が、息を呑むように沈黙している。ぴん、と張り詰めた沈黙。
「皿を片付けてきます」
そう言って、ハヤブサは今度こそ立ち上がって教室を出て行って、それから――戻ってくることはなかった。
⬛︎⬛︎⬛︎
トーキョーと比べると、シラカワの早朝は涼しい。
シラカワに到着して3日。
雨は上がり、からりとした風が夏の終わりを感じさせる。気温は22度ジャストだそうだ。
気温と湿度が表示されている電光掲示板、その下に貼られた、やけに眉の太い犬のマスコットキャラクターが描かれたポスターが、風に吹かれて音を立てていた。
空は晴れた。だからって、心まで晴れるはずもなく。
一部の部隊が敵の北上を食い止めているとか、ニイガタはもうすぐ陥ちそうだとか、細々とした情報はアジサイが教えてくれた。だが、一向にトーキョー奪還に関する話題はない。
食って寝るだけの生活に嫌気がさして、アラセは早朝ランニングを始めた。
どうやら同じ気持ちの者も多いようで、常任軍籍も戦時入隊生も一緒になって、市内あちこちをせっせと走っていた。半長靴の無数の足音が、民間人の絶えた静かな中心街にこだまする。
――あれからハヤブサに会っていない。
心臓の神経を一部切ってます、なんて衝撃的なことを言ったのを最後に、丸2日以上ハヤブサの顔を見ていない。
見たい訳では決してない。
ただ、ハヤブサの過去の、文字通り古傷に土足で踏み入り抉ってしまったような感じがして、嫌だった。
まるで自分が無理やり、言いたくなかった過去を暴かせてしまったような。それを苦に、ハヤブサは塞ぎ込んでしまったのではないかと。
見た目的に、繊細そうである。白く着色されたガラス細工のような造形をした人間だ。細くて、薄くて、綺麗で、脆そう。もしかしたら、心も。
そんな彼を丸2日と見ていない以上、なにか自分が悪いことをしてしまったような感覚が膨らんで、じっとしていられない。
トーキョーを奪い返す話もない。このままひたすら逃げて隠れて、二度とトーキョーも、地元の土も踏むことができないかもしれないという焦りと苛立ちもまた、心と頭の半分以上を占めていて。
「……クッソがよぉッ」
じっとしていられない。
悶々、ぐるぐると同じことを考えながら走り続け、結局無心になることもできず、ただ太ももとふくらはぎに疲労が溜まってきた。
息も上がり、背中を大粒の汗が伝うようになってきたので、アラセはランニングを終了する。
時間制限はあれど、シャワールームが開放されたとアジサイから聞いていた。
中学校のプールの、授業前後に浴びる冷水シャワーの配管を改造した、複数人が仕切りもなく同時に浴びる仕様だが。
プライバシーより清潔感。朝のシャワーでさっぱりしようと、アラセの足は中学校のグラウンドへ向いた。
獅子舞の、もとは搭乗員の自衛用火器を入れるスペースに押し込んだ、予備の下着類と大判のハンドタオルを手に取る。前進基地に置いてきたわずかな私物類は、業務隊が全部持ってきてくれたらしいが仕分けに時間がかかっているとかで、一向に手元には届かない。
本当は、ここ数日サボりまくっているムダ毛の処理もしておきたい。誰に見せる訳でもないが、腕も脇もムダ毛がもさもさした状態で半袖を着たくない。
アジサイかミドリ姉さんに言えば、カミソリの一本くらいあるかな。
そんなことを考えながら、グラウンドに並んだ獅子舞や軍用トラックの隙間を縫うように歩いていたとき。
「やっぱぁ頭おかしいよねぇ、ハヤブサってさぁ」
そんな声が聞こえてきて、思わず足を止めた。
――ハヤブサ?
ここ最近、一切姿を見せなくなった、ウチの副指揮官と同じ名だ。
トラックの隙間から、覗くようにして声の主を探る。
案外それは、近くにいた。
軍用トラックと偵察用バイクを挟んだ先。
指揮官が着用する白いシャツに濃紺のズボン、戦術情報が絶えず表示されるタブレットを持った人影が、ふたつ。指揮用トラックの脇に立っていた。




