第三十九話 死神姫とアッラ・マルチャ-22
「姫アリが出てきたらどうなるか、ヒメジ城の戦いの顛末は知っているだろう」
諭すような口調に、しかしアジサイは怯まない。
「はい。避難民を庇いながらの撤退戦で、西方軍主力が既に半壊状態での戦いだと理解しています。しかしトーキョー市民はそのほとんどが避難済みで、中央軍と東北軍の主力がまだいます。例えトーキョーの半分を捨てても、態勢を立て直し逆侵攻する力はまだ残っています!」
「ではその作戦、失敗したら誰が責任を負うんだ?また主たる兵力を失うリスクがあるんだぞ」
「トーキョーを捨てる責任はどなたが負われるおつもりでしょうか?!」
「捨てはしない。東北で再結集ののち、トーキョーへ逆襲し奪い返す予定だ」
「フクオカでもオオサカでもナゴヤでも、同じことを聞きました!必ず奪い返すと!」
「冷静になりなさい、アジサイ中尉」
冷たく返され、ハヤブサの隣に座るアジサイの固く結んだ口から、およそ聞こえてはならないレベルの歯軋りの音が聞こえてきた。
そろそろ奥歯が欠けてもおかしくないな、と思った。
総隊指揮官たる大将補の言い分は、理解はできる。これ以上いたずらに兵を失うわけにはいかないと。
アジサイの反論も理解できた。生まれ育った街を簡単に捨てるなどというな、と。
顔を耳まで赤くして、アジサイはなおも総隊指揮官に食ってかかっているが、結論は変わらなさそうだ。
――残念だけど。
きっと自分の出身が北方だから、ここまでトーキョー防衛に固執するアジサイの気持ちが理解しきれないのだと思う。
カナガワの、ツルミ駅周辺やアヤセ市内へ砲弾の雨を降らせることに、アジサイは一切反対しなかったのと同じように。
かといって、トーキョーを捨てる判断を全肯定する気にはなれない。仮にも首都で、大勢の人の暮らしがここにはある。いつか帰れるはずと信じて、帝都の市民達は近隣市へ渋々避難してくれたのに。
しばらく拳を握っていたアジサイは、ちらりとハヤブサを見た。
一瞬の沈黙。
アジサイは、ふうっと息を吐いてから、意を決したように総隊指揮官へ向き直った。
「父は、了解しているのですか」
短く、冷たい、詰問。
ハヤブサはそのワードを聞いて、ほんの数ミリ首を傾げた。父、とは?
総隊指揮官はさも当然のように頷く。
「君のお父上、トーキョー特別市市長、陽菊アカツキ氏も撤退を了解している。ここへ呼ぼうか?陽菊アジサイ中尉」
「――っ!」
アジサイは声にならない呼吸を感嘆に代えて、深く椅子に沈み込んだ。安物のオフィスチェアだ、背面のメッシュを支える細い支柱が、乾いた悲鳴みたいな軋んだ音を立てた。
"菊"の苗字は、代々皇国の中枢を担い、政に関わる要職に就く家系が名乗ることのできる選ばれた名だ。
菊の紋章を戴く、皇国を治めるお方の側近、という意味がある。
その程度の一般知識はハヤブサも理解していて、そういえばフルネームをきちんと聞いていなかったな、と思い返す。
アジサイ中尉は、トーキョー市長の娘なんだ。
それならば当然生まれも育ちもトーキョーであろうし、トーキョーから逃げ出すことに対する抵抗感は、計り知れない。
帰る家を、捨てるなんて。
「貴隊、トゥースブラッシュ中隊は、陽菊アカツキ市長を護衛しながらトーキョー特別市を脱出。一度、ウツノミヤ駐屯地で補給後、シラカワ市まで撤退しろ」
そう言い放ち、総隊指揮官は抜け殻のようになったアジサイを横目に、部屋を出ていった。
再び、沈黙。
飽きるほど聞いた雨音も、砲撃音も聞こえない。
身体にまとわりつくような蒸し暑さもない。
静かで、涼しくて、快適な室内の静寂が痛い。
「……ァジサイ中尉」
声を掛けたが、そのあとどんな言葉を掛ければ良いかわからなくて、ハヤブサは口をつぐんだ。
ずっと洟をすする音がして、アジサイはゆっくりとハヤブサに向き直る。
「ごめんねえ、言ってなかったよね。私、トーキョー市長の一人娘なんだ」
その顔を一言で表すなら、憔悴。
血の気立っていた顔はすっかり落ち着きを通り越し、土気色になっていて。
ため息混じりのその唇は、乾燥でひび割れていた。
「お父さんの……親の言うことは、聞かなくちゃいけないし」
親の言うことは聞かなくちゃいけないし。
親の言うことは聞かなくちゃいけないし。
親の言うことは聞かなくちゃいけないし。
アジサイの言葉が、ハヤブサの脳内で反響する。
ここでも、その言葉を聞くなんて。
「みんなには私から伝えるよ。一時撤退だって。たぶんほんとに、姫が出てきてから戦況も悪いし」
絞り出すようにアジサイが告げたので、ハヤブサも重い空気を吐き出した。
当然大反発を喰らうだろう。アラセあたりは殴りかかってくるかもしれない。猪のようにまっすぐで熱い女の子だから。
そんな役目を、アジサイにさせるのは酷だ。
「指示は、俺が」
「これは私の仕事だよハヤブサ君」
しかしアジサイは、即答でハヤブサの申し出を断った。
「アラセちゃんにはぶん殴られるかもしれないけどね」
……同じことを思っていたようだ。
「でも、私がこの部隊の指揮官。責任者。私だって受け入れた訳じゃないけど、撤退は上や、お父さんが決めたことだから。それにね」
そっと椅子から立ち上がり、それを礼儀正しくデスクの下に仕舞って。
アジサイは、黒く光を放つ制服用の短靴で、傷ひとつない純白の壁を思いっきり蹴り上げた。
「トーキョー奪還、諦めてないから!!」
黒い靴の跡のこびりついた壁を一瞥して、アジサイはハヤブサに笑いかけた。




