序 それは全滅へのオーバーチュア
<序章、よりも数週間前──サッポロ市>
また、誰も死なせなかった。
Difficulty level 50++++と表示された、戦術AIシミュレータのモニター。
先程までは冷却ファンを唸らせ、地獄の演算を繰り返していた機器類が沈黙しているのを見て、自分もまた沈黙している。
まさか、シミュレータを機能停止に追い込んでしまうとは思わなかったから。
「うわー、やったねぇ、ハヤブサ訓練生」
かつん。
足音を響かせながら女性が歩み寄ってきて、ハヤブサ、と呼ばれた男はハッと顔を上げた。
やったねえ、という言葉の響きに、やりやがったなお前、という棘を感じ取ったから。
皇国陸軍の濃紺の制服に身を包み、長くはない茶髪をポニーテールで結んだ彼女は、半ば呆れたような、それでいて驚愕を隠しきれないような表情で。
「この試験はね、実を言うと絶対負けるようにできてるんだよね。そういう風に、この私が作ったからね」
ハヤブサの座るグレーの事務机、その縁に腰掛けて、ポニーテールはそう言った。
長い足が目の前で組まれる。濃紺の袖から伸ばされた銀細工のような指が、黙りこくった真っ黒な筐体を弾いた。
ハヤブサの正面に置かれた湾曲モニターの中心には、自身が指揮している部隊を示す白色の凸マーク。その周りには敵を示す赤色の凸マークが──数分前までは画面を埋め尽くしていたそれが、今はぽつりぽつりと染みのように残っていた。
ハヤブサ率いる部隊全員を殺すために投入された、数えきれないほどの敵。それを、数えきれないほど、殺し返したから。
「……5時間戦闘して、耐え続けて、しかも全員生き残らせる人がいるなんて、まだまだ私の想定も甘いねぇ」
へへ、と苦笑いをされて、つられて口の端を上げる。笑っているように映ったかは、わからないけれど。
西陽の差す教室に、このふたり以外は誰もいない。ほかにもたくさんいた訓練生達は、誰も守りきれなかったから。
何重にも襲いくる敵の猛攻に次ぐ猛攻に、全員が冷静さと正気を保てず、2時間と経たず部隊を全滅させてしまい、数時間前にシミュレータ室を出ていった。
そもそも生き残るのではなく全滅の絶望を敢えて味合わせることで責任感を持たせるとかなんとか。そんな趣旨のものであり──まさか生き残ってしまうなどと。彼女の言う通り、もとから想定すらされていないものである。
「特にここ。ハヤブサ訓練生、0.07メートル後退って指示、出したよね」
「……はい」
「0.07メートルって何センチ?」
「……7センチです」
「それ、スマホいっこぶんより短い距離だよねぇ?」
「この位置で撃てば最終的に優位かと……あまり、場所を動かしたくありませんでしたから」
裏で高精度の物理演算エンジンをフル稼働させているシミュレータ。敵の攻撃で崩壊した建物が、自軍に与える損害範囲まで計算されている。
燃えながら転がってきたプロパンガスのボンベを、ハヤブサは7センチの後退で回避した。
んっはは、と変に乾いた笑いを溢される。その意図が掴めないまま、ハヤブサは口を閉じた。
「ねえ、これは褒め言葉だよ」
そう前置きして、究極難易度のシミュレータ作者は、その細い指をハヤブサの頬に沿わせた。思わず目を閉じたハヤブサの眼球を、瞼の上から優しく撫でて、告げる。
「ハヤブサ訓練生は、なんかねぇ、変異体だよねぇ」
──オカシイ奴、とは。褒め言葉と本当に受け取っていいのかな。
自分なりに真面目に真剣に、ただ全ての攻撃とその影響を、正確に予見しただけだから。特別なことなんてなにもないと思っていたから。
微かに香る女性らしいシャンプーの甘い香りと、銀食器のようにひんやりとした指の感触に、ハヤブサの胸はしかし、高鳴ることを知らない。
顔色ひとつ変えずに硬直するハヤブサの姿を見て、彼女はそっと指を離し、とんっと軽い足音を立てて立ち上がった。
「ま、そういう訳でね。この成績じゃ、首席卒業は決定だね。訓練期間も繰り上げて実戦に出てもらおうか、"帝都"の方じゃ猫の手すら足りてない有様みたいだしね」
言いながら窓の外を向くので、つられてハヤブサも視線をそちらに向ける。
ここからはるか遠く、海峡を越えた更に向こう。帝都の愛称で呼ばれるこの国の首都、トーキョー特別市の防衛作戦が来月に迫っていると、サッポロで訓練を受ける指揮官候補生達も聞き及んでいる。
皇国中の人手をかき集め、戦える若者は兵士にし、短期間の訓練で必要最低限度の技術だけ叩き込んで、前線に放り込んでは使い潰す。
そうして、なんとか敵の猛攻の前に膝を折らず、ギリギリ国土の半分程度は死守できている状態だ。
敵に奪われた残りの半分が今どうなっているかは、もはや誰にもわからないが。
「どこに行っても戦えると思うけど、シュミレータと実戦は違うからね。ハヤブサ訓練生に足りないもの、ひとつでも戦場で見つけられるといいねぇ」
そう言って彼女は、教室のカーテンをはらりと捲った。
燃えるような夕陽だった。空一面が橙に近い赤に染まっている。空爆に晒された街のように、サッポロ市の空は赤々と燃え上がっていた。
火は文明の象徴だという。ならば、街を焼く戦争の業火は、一体なにを表しているのか──そんなもの、ハヤブサにはわからないし、考えたこともない。
「あれが、獅子舞だよ。本物を見るのは初めてかな?」
「…………あれが」
夕陽のなか一瞬見えたのは、これから自分が、シミュレータではなく実戦で指揮を執る有人戦闘車両、五八式三軸強襲戦車。通常、"獅子舞"。
120ミリ戦車砲を車体に直接マウントした、前輪ひとつ、後輪ふたつの三輪車。高機動・高火力で、獅子のように荒々しく死地を舞う、皇国陸軍の切り札だ。
燃える緋に背中を照らされた彼女は、その戦闘車両を従える戦の女神のように見えた。
「頑張ってね、ハヤブサ訓練生」
女神が微笑む。その顔は軍人としてではなく──高校の先輩後輩の関係だった頃と同じ、優しい表情だった。
放課後の教室、そのワンシーンのような。遠い記憶のようにも思える、青春の一ページにも似た光景。
「……ありがとうございます、アスカ先輩」
できるだけ、口角を上げて。笑いかけるような表情を作りながらそう返すと、彼女の瞳が微かに揺れた。
直後、アスカ先輩と呼ばれた皇国軍人は、踵を鳴らして直立不動の体勢をとった。
空気が変わる。
ハヤブサもまた、座ったまま姿勢を正し、その視線をロックする。
その真正面で、アスカ──北方軍北鎮師団長代行、アスカ上級大尉は、カーテンの隙間から僅かに差し込む夕陽に階級章を輝かせながら、凛とした声で言い放った。
「──凍咏ハヤブサ訓練生。君を、北方軍幹部候補生学校の最優秀学生と認定し、卒業後の階級は少尉に推薦する」
<序:それは全滅へのオーバーチュア>
はじめまして池田です!
本日から書き始めます、バターナイフヴァリアント。カクヨム様でも同時投稿させていただいています。
よろしくお願いします!
※※2025/6/28
ほんのちょっと読みやすく修正しました!