苦しみと悲しみから新しい一歩を踏み出す日
しばらく沈黙が続いた。フェリシアはそっと涙を拭いながら、側に誰かがいてくれることの安心感を感じていた。
「君は悪くない。気にすることはない。見る目の無い婚約者と友人との間に少しの時間、縁が結ばれてしまっただけだ。今は縁が切れたんだ。安心して過ごすと良い」
テオドールの硬質でありながら優しく響く声が心地よい。
「はい。はい。ありがとうございます」
零れる涙をハンカチで拭いながらテオドールの言葉一つ一つを反芻した。そして言い聞かせる。私はあの二人と縁が切れて良かった。だけどこれまでの時間は無駄ではなかった。勉強になったと思おう。
それでも中々涙は止まらない。気になってテオドールに顔を向けるとテオドールもこちらを見ていた。
「君は不思議な人だな。普段も静かに話すが泣く時も静かだ。嗚咽すら聞こえない」
「申し訳ありません」
フェリシアは何とか謝罪した。
「謝ることじゃないんだ。不思議だと思っただけだ。私の事情は知っているだろ?」
急にテオドールが話し始めた。
「はい」
「私は愛する人を亡くした。目の前で。何もできなかった。私が油断し、手を離したからだと今も思っている。あの時は、葬儀の準備中も、葬儀の間ですらもずっと涙が出なかった。だが、数日後に墓の前で一人で立っていると涙が止まらず恥ずかしい話だが号泣した。助けられなかった自分を呪い、犯人を呪った。
自分たちが一体何をしたのかと思った。こんな形で失うことになるなんてと。自分だけではなくアリスもディオーナも苦しんだ。
それなのに犯人は処刑されなかった。今も生きている。カーリンは死んだのに。そんなことを毎日考えるようになった。
夜一人きりになると、思い出してはいけないと思いながらも思い出し涙を流す。そんな日々が続いた。だからあの頃は殿下に声をかけられて宮に飲みに行くのは助かっていた。今もそうだ。自分は一人ではないと思えるから殿下には感謝している。
誰かが側にいてくれるのは安心する。だからここに残った。一人にすると君はきっと苦しむだろうと思ったから」
「ありがとうございます。そうですね。今一人にされたら良くない考えばかり浮かんできそうです」
「コンラードたちが心配しているのはわかっているんだ。アリスにも負担をかけていることも。でも一歩が踏み出せない。
この前も今日も、本当は私の為に計画したお茶会なんだろ?あいつら気づいてないと思っているのだろうな。それくらいすぐ気づくんだが。まあ、それだけ心配をかけているんだろうな私は」
そよそよと風が吹き薔薇の香りが漂って来る。フェリシアの受けた傷など、テオドールに比べたら何でもないことだ。大切な人は生きている。そして一緒に笑って怒って泣いてくれる。
でもテオドールは愛する人を失い今も一人苦しんでいる。
きっと犯人が生きているのも引っかかるものがあるのだろう。この国での最高刑は処刑だから。
愛する人を殺されたのに犯人は最高刑にならなかった。犯人をそんな風にしたその家族も国外に逃げてしまった。
一生出られない修道院で生活しなければならないのと、処刑で一瞬で己の世界が終わるのとどちらが楽だろうか?ふとフェリシアは考えた。何もかも忘れて考えることを放棄できる処刑と、いつまでもテオドールに恋焦がれ続けるだけの人生。
フェリシアはどちらにもなりたくないと思った。ただ穏やかに幸せになりたかっただけなのだ。もうそれをどうやって望んだらいいのかさえわからなくなったが。
父親の仕事の関係で新しい縁は結ばれるかもしれないが、また同じことを繰り返すことになるかもしれない。これはとても贅沢な悩みだとわかっているが、考えずにはいられなかった。
「少しだけ待ってもらえないだろうか?」
テオドールが話しかけてきた。
「え?」
「わかっているんだ。このままではいけないのは。始めは自分が考えたことが一番正しい方法だと思った。それしか方法がないとさえ思った。だがそれを押し付けられたアリスだって悲しんだ一人だし、重圧を与えてしまっているのはわかっているんだ。
見ているしかない友人たちに心配をかけていることにも、前回のお茶会で君に会って再認識した。
私は自分本位な逃げ方をしたに過ぎないと。
気づくのが遅いな、私は。私がしていることは間違った方法だと思ったんだ。そう思わせてくれたのはフェリシア嬢の存在だ。普段穏やかに話す君が、あの男の酷い裏切りに遭って、更にあんな酷いことを言われ叩かれても、自分の足で立って戦っていた。凛とした声で反論もしていた。
私はあの裁判の時、判決に異議申し立てをしようとコンラードに言われたが、情けないことに私はそれを受け入れなかった。きっとやっても判決は覆らないと思ったんだ。それなら裁判が長引いて法廷で犯人の顔を何度も見るくらいならさっさと目の前から消えてくれと思った。
だが違ったな。最後まで戦うべきだった。その方がやり切ったと全員が区切りをつけられたんだ。
悲しみ涙を流すだけが弔うことではない。区切りをつけるのも弔いの一つだ」
テオドールが前を向こうとしているのかもしれない。ちゃんと理解していたのだ。心の中では。このままではいけないと。誰も幸せになれないと。それでも一歩を踏み出せないのはそれだけ愛していたからだろう。フェリシアにはそんな深い愛はわからない。だがとても尊いものに感じた。
「優しい君に頼って申し訳ないが、私が一歩踏み出す手助けをしてくれないか?直ぐにとはいかないかもしれないが、君に私の側にいて欲しい。そう思った。
こんな短期間で考えが変わるなんておかしいだろ?だがさっきの君を見てそう思ったんだ。君の側なら強くいられると。情けない話、一人では一歩が踏み出せない。そして私を前に踏み出させてくれるのは君しかいないと思った。ダメだろうか?」
まさかテオドール自ら一歩を踏み出したいと言い出すとは思わなかった。フェリシアは驚き固まった。しかし、これでテオドールが踏み出すことができればアリスやディオーナたちも更に前に進むことができる。フェリシアを必要としてくれるなら喜んで受けようとテオドールを見た。
「私は強くありません。きっと感覚が他の人より鈍いだけなんです。感情を面に出すことも得意ではありません。気の利いたことも言えませんし。それでもかまいませんか?」
「君は自分を卑下し過ぎるところが良くないな。
君は美しくて強い。そして両親の深い愛情を知っている。マレーナ王女殿下が君を好きなのは君がマレーナ王女殿下のことが大好きだと目で言っているからだ。見ていてわかるよ。だからマレーナ王女殿下は君を信頼しずっと友人でいるんだ。損得関係なく付き合える二人だから長く続いているんだと思う。
普通王女と友人なんてどこかに損得勘定が出てくるものだ。幼い時は別として。だが君にはそれがない。それがマレーナ王女殿下が君の側に居続ける理由だな。
そんな私もそうだ。君の穏やかな声を聞きながら話すのは心地よい」
「そう言っていただけると少し恥ずかしいですが嬉しいです」
そのまま二人で何も言わず座っていた。そよ風が薔薇の香りを運んでくるのを感じながら、そっと冷めたお茶を飲む。
あんなことがあったというのに不思議と凪いだ心でいられる。じんじんと痛む頬も気にならなかった。
悩んでいたことも不安に思っていたことも、今はどうでもいい。順番になるようになっていくだろうと思えてきた。
一人でいるから考えてしまう。こうやって言葉はなくとも、気にかけてくれる人が側にいてくれる。それだけで安心できるのだなと思った。
できることなら、テオドールもそうであって欲しい。フェリシアは気の利いたことなど言える性格ではない。ただ側にいることはできる。会話をすることもできる。
それでテオドールが前に進めるなら、フェリシアは喜んで側にいよう。
マレーナもコンラードもディオーナも、きっとテオドールが前に進むことを喜ぶだろう。その手伝いができたなら、フェリシアも前に進める。
ただただ静かな時間が流れ、少し風が冷たくなってきたなと思った時にテオドールが話しかけてきた。
「長い時間付き合わせて悪かった。風が冷たくなってきた。それに君は打たれて頬も腫れているのに私に付き合わせてしまった。申し訳ない」
なんだ、そんなことか。
「いいえ。とても心地良い時間でした。ありがとうございました」
「そう言ってもらえると助かる。君の横にいると、久しぶりに何も考えずにいられた。落ち着いた気分だ。感謝する。
さあ、これ以上付き合わせるのは悪い。私は帰るから君はもっとちゃんと頬を冷やした方が良い」
そう言ってテオドールが立ち上がる。それにフェリシアは少し寂しさを感じたが、確かにそろそろ夕方になる。
「また連絡するから会ってほしい」
「はい。喜んで」
フェリシアはそう言って笑いかけた。
テオドールを見送り邸に入るとライラとアンネに引きずられて自室に連れて行かれ、急いで頬の腫れを癒すために代わる代わる冷たい水に浸けて絞ったタオルを頬に当ててくる。
「こんなに腫れるほどの力で叩くなんて許せません。酷いことをしたのはあの人たちなのに」
アンネの声が震えている。怒りというより、涙を堪えているようだ。
「本当ですよ。お体が傾ぐほどの力でした。暴行罪で訴えてはいかがですか?」
ライラは怒っているようだ。
「良いのよ。もう縁が切れたんだし。それに既にヌールマン侯爵家には連絡が行っているでしょうからもう来ないわ」
「それはそうですが。でも公爵様は素敵な方でしたね。お二人で並んで座ってらっしゃるお姿は絵画のようでした」
「そうです。フェリシア様が打たれた瞬間立ち上がって走ってフェリシア様のお側まで行かれましたからね」
それは気付かなかった。
「そうなの?」
「ええ。冷え冷えとしたオーラがバンバン伝わってくるほどお怒りのようでした」
「他の皆様も立ち上がられたんですが、一番早くに公爵様が反応されて走って行かれたので、皆様は座ってその様子を見守ってらっしゃるようでしたね」
そうか。テオドールは心配して駆け付けてくれたのか。そう思うとじわじわと嬉しさが込み上げてきて笑みが浮かんだ。
いつかテオドールが一歩進むことができて、その先で誰を選んでも構わない。
進むことが大切なのだ。その手伝いができればそれで良い。フェリシア自身のことはその後だ。
テオドールが前に進めば関わった人たちの止まった時間も動き出す。
新しく増えた大切な人たちが少しでも癒されるよう、フェリシアはテオドールを優先して過ごすことを決めた。