食いしん坊悪女
はっ、わ、私転生している……!?
そんな風に前世の記憶が蘇ったのは、本人も意図しないタイミングでの事だった。
時間帯は日が沈んで間もなく。
ディナータイムと呼ばれる頃である。
ロザリア・ヴェルトムンド侯爵令嬢は、仔牛のフィレ肉にシェフ渾身のスペシャルソースがかけられたステーキをナイフで切り分けている真っ最中に前世の記憶を思い出したのであった。
美味しい物を食べて感動した衝撃で、とかではない。
いや、ご飯は普通に美味しいのだけれども。
ただ、ロザリアは若干食事にマンネリ感を覚え始めていた。
お肉は美味しいけどまたこれかぁ……みたいな印象がどうしても消えなかったのである。
今までそんな風に文句なんて出なかったはずなのに、けれどもふと、食べたいのはこれじゃない、と漠然と思ってしまったがゆえに。
そして、では自分は何が食べたくてこんな愚痴めいた思考を……? と思案しているその時だ。
炊き込みご飯食べたいな。
そんな風にして、前世の記憶がログインしてきたのである。
おめでとう! ログインボーナスで今現在食べる事のない料理名を思い出したよ! セルフ飯テロである。
ステーキと一緒に出されたのが白米であったなら、まだマシだったかもしれない。
けれども一緒に出ているのは焼き立てふかふかのパンだ。
これも美味しい。美味しいけれど、パンとお米は別物である。
スープだって野菜の甘みと旨味がたっぷり詰まったものではあったけれど、みそ汁の出汁の香りとは異なる。
サラダにかけられたドレッシングは……まぁ、これは別に。ただちょっと味が濃い目でくどいので気持ちもうちょっとあっさりさっぱりしたのが恋しくはあるけれど。
なるほどね、とロザリアは納得した。
つまり、心は無意識に前世の故郷の味を求めていた。この身体はこの世界のものだけど、しかし胃袋は毎日のこってりした食事に密かに悲鳴を上げていたのだ。
いい家のお嬢さんだからこそ、食べる事に関して困る事はない。
だがしかし、和食が食べたいとのたまったところで料理人が対応などできるはずもない。
何故ってこの国やその周辺の国に和食というものが存在しないからである。
ないモノをいきなり作れと言われてもシェフだってお困りだろう。
かといって自分で作るにしても、問題がある。
材料が……ないのだ。
まず米。
ピラフやパエリアに使うようなパラッとしたのはあるけれど、もっちり甘い米はない。
いやそれでも……と諦めずにチャレンジしようとしたとしてもだ。
味噌と醤油がない。カツオも昆布もない。出汁がとれない……!
醤油がないし出汁がないとくれば、当然自作でめんつゆを作るなんてのも無理だ。
醤油があればポン酢しょうゆとかそこら辺どうにかできたけれど、生憎醤油の作り方なんぞ麹を何かどうこうする、くらいの知識しかない。つまり全く持ち合わせていない。
おかしい、普通この手の転生ものってなんかこう、転生特典で都合よくそういうのそろってたり、はたまた前世の知識でそういう醤油とか味噌の作り方とかしれっと知ってるものでは……!?
と思ってみたところで、ロザリアの脳内はいくら検索しても味噌の正しい作り方も醤油の製造工程も、はたまた麹ってどうやって用意するんだったっけ? っていう方法すらわからなかったのである。
御冗談でしょう? 折角バターはあっても醤油がないとか、あのバター醤油の香ばしくも甘い食欲をそそる香りをこの国の連中はご存じないって……こと!?
とロザリアは内心でとんでもねぇところに転生しちまっただ、なんて思いながらも食事を終えた。
ぶっちゃけご令嬢の一日の運動量とか考えたら明らかにカロリーオーバーな気がするが、現在ロザリアの体型はむしろモデルのようである。
ははーん、これは若い頃は妖精みたいな美貌をもっててもある程度の年齢になったら一気に太ってまるくなるやつね……とロザリアは察してしまった。
そういう理解をした上でこの世界での自分の母を見れば、確かにちょっとふくよかである。
まぁるいお月様みたいにはなっていないけれど、ふくふくとしてはいる。
とはいえ、母はそれなりに美容に気を使ってエクササイズみたいなのをしているから、これで済んでいるのかもしれない。もっと年を取って運動もおっくうだわ、なんて事になったらまんまる一直線なのは間違いなかった。
食事を済ませ自室に戻ったロザリアは、一度ちょっと気持ちを落ち着けてからお屋敷の書斎に突撃した。
生憎自分の部屋にあった本はお勉強に関するものと娯楽の小説が半々で、今求めてるものではなかったのだ。
書斎で、とにかく世界中の国に関して書かれてそうなものを探す。隣国とかそのもう一つ隣の国にお求めの物がないのはわかっている。では、海を越えたその先の大陸は?
海外の貿易関連が記された本を目を皿のようにして見まわして、他にも何かないかと漁りに漁った結果。
遠く離れた海の向こうの国に、ロザリアの前世、日本に似たテイストの国があるというのを発見したのであった。
っしゃおら!
令嬢にあるまじき渾身のガッツポーズをしたのは、何と夜も明けて朝日が昇ってきた頃である。夜更かし通り越して徹夜していた。
次にその日本に似た国――シャンパルティ共和国に関して詳しく調べる事にする。
王政が廃止された共和国。海に囲まれた、ある意味で大きな島国。一時期他国との交流を拒んでいたが、今ではそれらも廃止されている。
うーん、所々に日本と似たスメルを感じる……と思いながらも、残念ながらそれ以上の情報は書斎では得られなかった。
知りたいのはその国での食生活である。
ともあれ、ここでこれ以上の情報が手に入らないなら、もっと多くの蔵書を抱えているところへ行くしかない。
ロザリアは徹夜明けだというのにそれらを感じさせない溌剌さでもって、学園へ登校した。
授業を済ませて放課後、ロザリアは図書室で再びお探しの国に関しての情報が載っている本を探した。
そうして見つけたのは、異国グルメとかいう本だ。
迷わず手に取る。求めてたのはきっとこれに違いない!
そしてパラパラとお求めの国に関する部分を見てみれば。
おにぎりという料理名がちらりと見えた。
中身に関してあれこれ詳細が連ねられているが、ロザリアからすればそんなのはいちいち見なくてもわかる事だ。おにぎりには具の数だけ無限の可能性が秘められている……!
ついでにミソスープだとか、合わせみそとかいう単語を見て間違いなくこれが自分の求めているものだと確信する。
白米とお味噌汁。焼き魚に卵焼き。肉料理として紹介されていたのは生姜焼きだ。あと日の丸弁当という言葉も見つけて梅干しもあるのね、とテンションが上がる。
他に書かれていた文章から、豆を加工したものが多く使われているというのを見て、味噌があるなら醤油もあるだろうし――生姜焼きの時点で確定している――それ以外となると、豆腐とか豆乳とか黄な粉だとかだろうか。日本人って大豆と結婚してる節あるもんな……とロザリアはしたり顔で頷いて、本をそっと元の場所に戻した。
さて、お求めの料理が決してこの世界に存在しない幻などではない、と判明したので。
次にロザリアがやるべきは、いかにしてシャンパルティ共和国の料理を食べるかである。
輸入――と思い浮かんだが、しかし困ったことにこの国とシャンパルティ共和国との距離はとんでもなく離れている。
そしてこの世界には魔法がないわけじゃないが、前世の日本のサブカルチャーなどで見たような何でもできる万能性を持っているわけでもない。魔法で一瞬で向こうの国に行くなんて無理だし、食品の時間を停めて輸入や輸出するなんてのもできない。
そして飛行機なんて便利な空輸できるものもないのである。
移動は陸路なら馬車が主流で、海は船。船だってエンジンが搭載されて凄い速度が出るとかでもないので、あまり遠い国まで船で行くという事は滅多にない。途中で補給するためにどこかの大陸に停泊したりしないといけないし、遠い国に行くとなれば数か月は確実にかかるのだ。
気軽に旅行に行ける距離ですらない。
しかしロザリアはもう口の中も胃もすっかり日本食を待ち望んでいた。あると知ってしまった以上、諦めるなんて事はしたくない。
けれども、向こうから食料を入手しようにも、こちらが赴こうにもどう頑張ってもかなりの時間がかかるのは言うまでもなく。
行って帰ってくるだけで一年くらいかかりそう……となれば、気軽に両親に行ってみたいですわ、なんて言うのも憚られる。向こうでの滞在期間なども考えたら一年以上かかるだろう。
二泊三日の旅行くらいなら簡単にオッケー出されても、流石に行きだけで数か月、帰りも同じく数か月、とくればいいよいってら、と気軽に送り出してくれるはずもない。
いっそ向こうの国と外交とかして政略結婚とかで向こうに嫁ぐ……だとかの方法を考えてもみたけれど、シャンパルティ共和国は王政を廃止している。貴族も何もあったものじゃない。
共和国になったのは比較的近年の話らしいので、向こうの国には元貴族だった、なんて人もそれなりにいるとは思うけれど。けれども今はもうそんな身分などないようなものなので、政略結婚も何も……といった話だ。
愛しい人と一緒になるために向こうの国へ行きますわ! と言ったところで誰だよ愛しい人となってしまう。
愛しい愛しいお米様! とかのたまったとして、多分両親に頭の心配をされてしまう。
というかだ。
ロザリアには婚約者がいる。この国の王子だ。
そんな状況で、隣国くらいならまだしもそれよりももっとずっと遠い国に行ける機会などあるだろうか? いやない。
折角の和食。夢にまでみて前世の記憶すら思い出してしまった和食。
諦めるなんてできっこない。
しかし、ここで王子との結婚やめて海外に移住しますと言ったところでそう簡単にオッケーはされないだろう。それくらいは流石にわかる。
どうしたら……とロザリアはこの一件で頭を悩ませる事になったのであった。
だがしかし、転機は思わぬ形でやってきた。
学園で進級し、二年生になったのだが。
途中編入という形で、一人の少女が学園にやって来た。
淡いピンクの髪は光の加減でちょっとだけ金色も混じっているような感じでキラキラしていて、春先の空の色のような瞳はぱっちりと大きく。
桜のような色合いの唇に、すらりと健康的な四肢。
私、乙女ゲーのヒロインです! と見た目からして豪語しているような外見の少女であった。
彼女は色々あって平民であったものの実は親が貴族であると発覚し家に引き取られ、ある程度の礼儀作法などを覚えてから学園に編入という形となったのだ、という説明がなされた。
ロザリアとはクラスが異なるけれど、一応そういう事情だから、軽くでいいので気にかけてやってくれ……なんて教師から言われ、大抵の生徒は物珍しさからか興味津々といったところであった。
だがしかし、この女生徒。今まで平民だったから貴族のマナーがまだよくわからなくて……と不作法晒すのは仕方がないが、それを正そうとして教えてあげようとした生徒を何故か目の敵にしはじめた。
私が元平民だからってバカにしてるんですね!? とか言い出す始末。
いや、事情はわかってるからこうして教えようとしていただろう、と周囲にいた誰かの突っ込みも耳に入っていないようだった。
悲劇のヒロインぶった様子に、早々に見切りをつけた生徒は正しい判断をしたと思う。
親切にした結果がこれとか、流石にないわ。お前何しに学園に来たの、と言いたくなる。
わからないからこそ学びに来たのではないのか。
女性に対してはあまりいい態度ではなく、男の時と圧倒的に異なる態度。
ご令嬢たちから距離を置かれるのはあっという間だった。
それを自分が平民だから仲良くしたくないのだと決めつけて、更に悲劇のヒロイン化。
いや、平民以前の問題では……?
圧倒的面倒の予感しかしない相手とお近づきになりたい相手って、何らかの理由がない限りはないだろうに。
ロザリアも関わろうとは思っていなかった。
ただ、放課後の廊下で、
「ここがラピュひかの世界なら、狙うは断然王子ルートよね」
なんて呟いていたのを聞いて、あっ、彼女転生者か! と知って何となく察した。
ヒロイン転生したと思ってるのか、そっか。
というか、もしかしてこの世界何かの乙女ゲームの世界なんです?
ラピュひか……? 略さず正式名称で言ってよせめて、と思ったけれど、しかしそこで突っ込むつもりはなかった。関わるとろくな事がなさそうなので。
しかし……王子ルートを狙う、という言葉に。
ロザリアは「あっ、これは使える」と思ったのだ。
学園に通っている王子はロザリアの婚約者であるギルバートだけ。
この学園が乙女ゲームとやらの舞台であるなら、今言った王子ルートとはギルバートの事だろう。
えっ、あの女が王子と接近して恋に落ちるの……? ってか、落ちるの??
既に本性を知ってるロザリアならば引っかからないと断言できるが、まぁ男の前では態度がコロッと変わる典型的な女に嫌われて女とあまり接点のない男が引っかかりやすいタイプの女なので、引っかかる馬鹿はいるんだろうな。
王子引っかかってくれるかしら……正直引っかかってくれた方が好都合なんだけど。
自分本位にそんな風に考えて、ロザリアは心の中でヒロイン気取りの転生者――リグレットを応援した。決して自分から協力を申し出たりはしない。面倒なので。
その結果、なんと恐ろしい事にあの女にあっさりとギルバートは引っかかったのである。
最初は物珍しい珍獣でも見るようなつもりだったのだろう。
だがしかし、その珍獣は狙った獲物は逃す気ゼロの肉食女子。
顔も身分もよろしくて、一緒になったら将来安泰とばかりな王子は狼の口に自分から飛び込む哀れな子羊だった。
可哀そうと言う意味での哀れではない。見えてる地雷に自分から飛び込む頭の中身が哀れという意味である。内心でロザリアがそんな風に思ってるとか知ったら、多分ギルバートは女性不信に陥っていたかもしれない。婚約者から内心でこんな風に思われてるとは夢にも思うまいよ。
そうやって、リグレットとギルバートが学園の中で終始イチャイチャし始めていても、ロザリアは静観したままだった。ただし、証拠は色々と集めてある。
ここがリグレットの言うような乙女ゲームの世界だとして。
そうなると王子の婚約者である自分はまさしく悪役令嬢ポジションだ。
リグレットに対して一切何もしていないけれど。
けれど、まぁ女子に嫌われに嫌われているので地味な嫌がらせはされているらしい。
しかもそれを、王子の婚約者であるロザリアの仕業だと思っているようでもあった。
いや、あんなちゃちな嫌がらせするわけないでしょ。
私だったらもっと上手くやりますけど。前世の知識駆使してそりゃもう精神的にバッキバキにへし折って差し上げましてよ! くらいの気概でやるなら実行している。
この国にはない概念で、前世日本人であるからこそわかるような地味~な感じでじわじわやっていって、周囲にはあの女の精神がおかしい、っていう方向性に持ってく方面でやるだろうなとロザリアはいくつかの嫌がらせの方法を思い浮かべた。やらないけど。
でもやるとしたら最初は軽いジャブくらいのノリで、リグレットの机の上に怨って字でも書いてその近くに藁人形を釘で打ち付けておくあたりからスタートだろうか。
この国の文字ではない漢字でやられた事で、まずリグレットは自分以外の転生者の存在を疑うかもしれない。誰彼構わずあんたが転生者ね、と詰め寄っていけば、その時点でこいつ頭おかしい、と思われるのは確実ではなかろうか。
まぁそれやるとロザリアの計画に支障が出るのでやらないけど。
周囲の目なんか気にしないぜ、とばかりに二人はイチャイチャし始めて、ついでに虐められてる悲劇のヒロインモードになってるリグレットを慰めて愛する人が傷つけられて心を痛めている可哀そうな僕ちゃん……状態になっているギルバートは、悪い意味での見世物だった。
そうこうしているうちに、恐らくはゲームでいうところの山場であろう日がやってきた。
卒業式がつつがなく終わり、その後のパーティーで王子は婚約破棄を突きつけてきたのである。
そこら辺はロザリアにとってこれっぽっちも重要ではないので割愛する。
大事なのはここからだ。
リグレットの事など虐めていないし、虐めがあったとされる日のアリバイは常に完璧であった。
王子が不貞をしていた証拠もロザリアが集めずとも学園であれだけ人目をはばからずにいちゃついてれば充分というもので、冤罪で断罪されかけていたロザリアが華麗にリグレットとギルバートを断罪返し……はしなかった。
「婚約破棄は承りました。細かい話し合いは不要ですわね。卒業式後のパーティーには国王陛下も学園を羽ばたいていく卒業生たちに言葉を送るべくこうしてこの場におられますし。
なんだったらうちの父もパーティーの裏方を請け負ってくれていましたから」
ロザリアの言う通りであった。
卒業式の方で国王が彼らの未来に幸あらん事を、みたいな感じで言った方が厳かに終わるのだが、その後のパーティーで羽目を外しすぎる生徒が毎年どうしても出てしまうので、いつしかパーティーの締めに国王が閉会の挨拶をするようになったのだ。これのおかげで学生気分が完全に抜けずやらかす者の数は若干減った。
なおロザリアの父は別にこんなパーティーの裏方をする必要はこれっぽっちもないのだが、学生たちや教師だけで準備したパーティーだ。完璧であればいいが、どこかに不備が生じた場合王族のみならず高位貴族の令嬢令息たちも危険な事に見舞われかねない。そうなった場合折角の門出にケチがついてしまうので、第三者的目線でもって確認作業などをしているのだ。
ちなみにこの部分に関しては毎年立候補制であり、誰も名乗らなければ宰相が引っ張り出される。
ロザリアの父は宰相であれど、今回は自分から立候補した。
と、まぁ余談はさておき。
「ところでこれは完全に王子側の有責になってしまうのですけれど、陛下、よろしいでしょうか?」
「……申してみよ」
バカ息子のやらかしに頭が痛いとこめかみをぴくつかせていた国王ではあったけれど、だからといって何も言わないままでいるわけにもいかない。
ロザリアがこの件について一体どのような事を言い出すのか、それを想像するだけでも更に頭痛がしてきそうであったが、聞かないわけにはいかなかった。
「お二人の事は認めてあげてほしいのです」
「なんと」
ロザリアの言葉に、周囲は思わずぽかんとした。
「そもそも、あれだけ学園で人目を憚らず乳繰り合っ……失礼、サカッて……あ、いえ、この場合どういう言葉が適切なのかしら、人前で恥ずかしげもなく醜態を晒していたお二人を引き離したとしても、もうマトモな結婚相手は出ないと思うのです」
令嬢の口から出るにはちょっとお下品な単語が出てきたりもしたけれど、言ってる事は間違いではなかった。
特にリグレットは完全に王子のお手付きみたいな認識だったのだから、まだ純潔だと言われてもマトモな結婚相手が出てくるとは思えない。
相手が平民ならともかく、貴族の家に養子となって迎え入れたのに婿が平民というのは余程の事があっても難しい問題になってしまう。リグレットの立場的に、という意味ではなく、引き取った家の立場的に。
養子という関係を解消させてリグレットを市井に放り出す、という手段が手っ取り早くはあるかもしれないが、それをやるのは家の名声を落とすだけなのでそちらもあまり現実的ではなかった。
「行き遅れ確定してしまったリグレットさんはもう縋る相手が王子しかいないのです。
そして王子もこれだけ大勢の前で恥をかいた以上、今更リグレットさんを捨てて他の女に走ろうとしても……マトモな相手は見込めないでしょう。私もごめんですし」
間違ってもまたこちらと婚約を結び直そうとしてくれるなよ、という言外の圧を感じて国王はむぅ、と呻く事しかできなかった。
ロザリアはいっそ穏やかな笑みを浮かべてすらいるが、まるで戦場にいる歴戦の兵のような雰囲気でもって佇んでいる。
そのせいで、誰もがこの場の空気に飲み込まれるかのようだった。
ロザリアがそういった圧を発しているのは言うまでもない。自分の今後がかかっているからだ。
「なので二人はこのまま添い遂げさせてあげて欲しいのです。
勿論、陛下がもう王子は次の王として相応しくないと思って継承権を剥奪するだとかはそちらの家の方針なので私が口を出す事ではありません。
ただ、もう一つ望むとするならば……このお二人がきちんと反省できるまでは、国から出さない方がよろしいかと。
お互いに視野を狭めてこうなってしまったようなものではありますけれど、この状態で下手に隣国やそれ以外の海外に出してしまっても、そこでまた都合のいい部分だけ受け取っておかしな方向に突き進まないとも限りませんから……」
「む、しかしだな……」
正直国王としてはこの馬鹿を国に、自分が治める国内に置いたままというのもイヤだった。
馬鹿の象徴として王家の恥がずっとある状態になってしまうからだ。
「もしそれを叶えていただけるのであれば、王子有責による婚約破棄の慰謝料などは辞退させていただこうかと思っているのですが」
にこーっといっそ不気味なくらい無邪気な笑みで言うロザリアに、国王は思わず目をかっ開いた。
慰謝料。それについても国王が頭が痛いと思っている一因であった。
王子の私財全てを渡したところでまだ足りないのは目に見えていた。だからこそ、この場合は身内の恥ということで両親――王と王妃の個人資産からも追加で支払う他ないと思っていたのだ。勿論その分は後からどんな仕事であれギルバートが稼いだところから徴収するつもりであったが。
しかし、当分はちょっとした贅沢などもできなくなりそうだと思っていたがゆえに、とても気が重かった。毎日国のために働いて、たまにちょっと美味しい物食べたり好きな趣味に没頭したりするのに私財を使う事はあったけれど、それらがなくなるとなると、どれだけ仕事で頑張ってもその後にまってるご褒美がないのだ。
張り合いがない。別に酒池肉林のような贅沢を望んでるわけでもないし、王としての贅沢といっても私財からなので本当にちょっとしたものだ。頑張ったご褒美に楽しみにしていたワイン開けるとか。
ちなみに王妃のちょっとした贅沢は育てるのにそこそこ苦労するとある品種の薔薇の花びらを湯船に浮かべて香りにうっとりしながら浸かる事である。
割と庶民的に聞こえるのは気のせいではない。
まぁワインの値段が庶民の手が出せる物よりもいいお値段であるのは確かだし、薔薇だって育てるのにそれなりに費用がかかる。だからこそのたまの贅沢なのだが。
そういった時々のちょっとしたご褒美によって頑張ろうと思えるのだが、それを年単位で諦めなければならないとなると、仕事に張りがでなかったり、いざという時のやる気が中々……となってしまうのも仕方のない事だった。手を抜こうとはこれっぽっちも思っていないが、やる気にブーストがかからないのだ。
そこら辺は仕事終わりの一杯のために生きてるとか言う平民の皆さんなら理解してくれるんじゃないかな……と国王は思っている。
ともあれ、慰謝料その他、侯爵家に支払わなければならないはずの費用を一切払わなくてもいい、というのは国王からすると、えっ本当にいいの!? と驚く以外の何物でもないのだ。
それに、と思い直す。
確かにこんなバカな事をしでかしてくれた息子だが、浮気だけで処分するとなると流石にやらかした事に対しての罰が重すぎる。
他にも複数の女性に手をだしていただとか、挙句孕ませた女性が既にいるだとか、既婚者にまで無理矢理言い寄っただとかのもっとどうしようもない事をしていたら、幽閉したり病気に臥せった事にして毒杯とかも有り得たのだが、浮気相手は一人で、真実の愛とかのたまっている。
せめてロザリアとの婚約に関してこちらに相談してくれて穏便に解消してから、リグレットに関してはここから更に礼儀作法とか高位貴族に必要な物を教えていって、より格の見合う家に養子としていけば正式な婚約者として公表できただろうに……
醜態晒した後だと何をやっても嘲笑の原因である。
とはいえ、王位継承権に関してロザリアは口を挟む権利はないと言っていたしそれはそうだが、ギルバートをこのまま王にするのは抵抗がある。
王にはなれずとも、どこぞの領地で必死に盛り立ててもらえばまぁ……と国王の中では処分をしないのであればいかに有効に利用できるか、をあれこれ組み立て始めていた。
確かにこんな状態の二人を国外に追放したとして、下手に海外かぶれになっておかしな思想を持ったまま他国で自分と同じ思想の人間と集まって国を変えるのは我々だ、みたいな事をやらかされても困るし。
そう考えると目の届く範囲で監視して働かせた方が余程マシな気がしてきた。
恐らくこの二人の事だ、他にも迷惑をかけている者はいるだろうし、侯爵家に支払う予定だった慰謝料分からまずはそちらに迷惑をかけた事に関する謝罪はするべきだろう。
慰謝料とかいらないぜ、なんて言ってるロザリアに対して「えっ、ちょっと!?」という顔をしているロザリアの父はいたけれど、国王はあえてそれを見なかった事にした。
「して、そこまで言うのであれば次のそなたの婚約相手は」
「あぁ、それなんですけれど。私折角なので海外の国を見てこようかなと思っているんですよ、留学しようかなって。
でも留学すると中々戻ってこれないでしょう? だから、王妃になってからは無理だし、婚約中にしても……色々と難しいと思って諦めていたんです」
なんて、ちょっと控えめに言われてしまえば、他の婚約者をあてがうなんて言葉もこれ以上言えるわけがなかった。
まぁ、ロザリアの父が「えっ、留学!? 聞いてないよ!?」という顔をしていたけれど。
「ところで、どの国に留学とかは」
「あぁ、シャンパルティ共和国へ。調べていくうちにとても興味を持ちまして」
仮想敵国のような所でなかっただけ安心である。
とはいえ、そんな遠い国へ……と王はそりゃ婚約期間中もだが王妃になってもそんな気軽に行けるものではないなと納得した。
「聞いてないよぉ!?」
いよいよロザリアの父から悲鳴じみた声が上がる。
だがしかしロザリアは笑顔で黙殺した。何を言っても間違いなくこの娘、シャンパルティ共和国に行く気である。国王は覚悟を決めた目だ……! とロザリアの瞳に宿る決意を確かに見た。
何事もなく結婚していたなら、きっと諦めていたのだろう。
けれどもこうして、こんな事になってしまったとはいえ舞い込んできたチャンスを。
彼女は逃すまいとつかみ取ったのだな……
なんて国王は思ったのである。正直この展開になるのをロザリアは待ち望んでいたしむしろ婚約が破棄されるようにギルバートとリグレットの事はほぼ傍観していたくらいなのだが、そこまでは気付けなかった。
「それでは私は一足先に失礼させていただきますわ。
あぁ、そうだ。リグレットさん」
「な、なによ……!!」
断罪ざまぁショーを見事に返り討ちにされてしまった事もあって、とても気まずそうにしていたリグレットは、一体ここで何を言われるのかと咄嗟に身構えていた。周囲に人がいるからやらないけれど、そうじゃなかったらそのままシャドーボクシングが始まるような構えだ。
「貴方がこんな事をしなければ、一緒にどうかと誘うつもりだったのですけれど……
精々頑張って下さいね。貴方が選んだ王子様とお幸せに!」
「へ……?」
ぽかんとするのも無理はない。
だって満面の笑みで祝福されたのだ。
本人がしてもいない嫌がらせをさも彼女がやったに違いないと決め付けて王子の婚約者の座から引きずり降ろそうとしていたのに。
誘う?
シャンパルティ共和国とやらに……?
一体何の話だ? と思いながらも、思考が追い付かない。
だからこそ、軽やかに去っていくロザリアの後姿をリグレットはどこかぼうっとして見送るだけだったのだ。
去る時に王子に関しては一切触れていないあたり、本気で王子の事どうでもよかったんだなぁ……って気付いたのはそれからすぐであったけれど。
――さて、その後の話だ。
なんでそんな遠方の国に!? と渋る両親を説き伏せて、ロザリアは見事にシャンパルティ共和国へ行く事に成功した。念願の和食である。
前世の記憶を思い出して、この国に来るのだと決めてからすぐに行動に移れなかったけれど、それでも案外早い方ではなかっただろうか。それでも一年以上待ち焦がれていたので、お茶碗に盛られたお米を食べた時は思わず泣いてしまったほどだ。
明らかに海外から来たご令嬢に涙を流しながら「美味しいですぅ……!」と言われて料理を提供した料理人も驚きながらも照れた。お嬢ちゃんどこから来たんだい? 私ですか? チェルシリア王国です。チェ……? あぁ、地図でいうならここですここ。こんな遠くから!? といった会話が弾み、こっちの国に永住したいのですが、と相談すれば役所を案内されたし仕事の斡旋についても親切に教えてくれた。
留学って言って出てきたくせに永住するとか両親が知れば文句を言いそうではあるが、まぁなんだ。アナタたちの娘は結婚して嫁にいったものだと思って忘れてください、とかいう気持ちもあった。
私はこの国に骨を埋める覚悟だ……!
早速住む場所と仕事もどうにかしたし、ロザリアは毎日それはもう充実した和食ライフを送っていた。
っかー、やっぱ白米よな!
海外の人なのにお箸の使い方綺麗ね、とか言われた時は、そうですか? えへへ……と照れ笑いを浮かべておいた。そりゃ前世でしこたま使ってましたものお箸。とは流石に言えない。
ただ、たまに、それこそ本当にたまにではあるが、離れてからこの世界での故郷の味が恋しいと思う事も出てくるようになってきた。
あの頃は毎日こんな味付けの濃いこってりしたものばかりじゃうんざりだわ、なんて思っていたのに人間とはかくも現金なものである。
こちらではまだ和風と洋風の融合合体したようなメニューはなかったようなので、ロザリアは前世の記憶も引っ張り出して和風おろしハンバーグあたりからそれとなく周囲に広めていった。
何せこの国には味噌も醤油も出汁もあるので、作りたい料理は案外どうにでもなる。
あちらの国では手に入らなかった材料はここでは当たり前のように存在しているし、あちらの国で主流だった調味料はシャンパルティ共和国近隣の国でもそれなりに使われているので入手は困難でもない。
摂取カロリーに気をつけつつ食べたい物を好きなように作っていたら、いつしかロザリアは創作料理研究家のような立場になっていた。
とりあえず食べ過ぎに気を付けつつ、体重がこれ以上増加しないように運動を日々欠かさず、ロザリアは色んな美味しいを広めていくのであった。
――さて、こちらは蛇足とも言えるその後の話。
王位継承権を剥奪されて、爵位を与えられても一代限りとされたギルバートとその妻になるしかなかったリグレットは、領地の一角に押し込められるように追いやられ、そちらで領地経営をしていく事となってしまった。
当初目論んでいた王子様の妻になっての贅沢な暮らし、というのはすっかり遠い幻のようになってしまったけれど、今更ギルバートを捨てて一人逃げ出そうにも行くアテがない。王都にどうにか戻れても、リグレットを受け入れてくれる相手などいるはずがないのだ。引き取ってくれた家は、縁を切りこそしなかったけれど戻ってくるなと強く言われたし、そもそもリグレットには他に頼れる相手がいない。
王子の他の令息たちに手を出したりはしていなかった。乙女ゲームの世界に転生したと思っても、逆ハーレムなんて目指さず王子一人だけだったのだから、今更他の貴族の令息に手を出そうとしたところで無理だろう。
それに、リグレットには女友達もいなかった。
もし一人や二人でもいたならば、こういった時に少しくらい助けてくれる事になったかもしれない。
けれども、王子と結婚すれば生活は安泰だと信じて疑わなかったリグレットは友人の重要性を全く無視していたのだ。社交とかどうするつもりだったのだろうか、とロザリアが知れば突っ込みそうなものだが、ゲームではそういったシーンはあまり重要視されていなかった、というのがリグレットの言い分である。
攻略対象以外の男性を落とそうにも、どういう風にすれば落とせるかもわからない。
ゲームの流れで何となく把握できていたからこそギルバートの事は落とせたけれど、もしそうでなかったらギルバートは間違いなくリグレットの事は見向きもしなかっただろう。それこそ、最初にちょっと物珍しいと思って関わって、そこで終わっていた。
社交界にも出られない。茶会に誘ってくれる相手もいない。
だからこそ、リグレットは細々とした暮らしを送っていた。
慰謝料を辞退する、といって去っていったロザリアではあったけれど、流石に王家もその言葉をそのまま受け取って何もしないわけにはいかなかった。
結局本来の金額よりは低めとはいえ支払ったし、侯爵家にはいくつか優遇するような事もあったらしい。
それ故に、ギルバートは領地であれこれ収入を得て、一定金額を数年間王家に納めなければならなくなった。税金とは別にである。
その領地経営にリグレットが手伝えるような事はあまりない。
最初の頃は自由を謳歌できると思っていたが、王都と比べて娯楽もやや少ないこちらでは、そして友達もいないリグレットはすぐに暇を持て余すようになってしまった。
かといって勉強はあまりしたくない。
最初のうちはどうしてこんなことになったのだろうともんもんと悩んでいたけれど、結局のところゲームと違ってロザリアが虐めたわけでもないのをロザリアのせいにしたから狂ったのだと思っている。
そうやって結論が出てしまえば、それ以上考える事もない。
それもあって、リグレットは若干暇を持て余していた。
そして、そこでようやく思い出したのだ。
立ち去るときのロザリアの言葉を。
シャンパルティ共和国……だったかしら。
一体どんな国なの?
皆の話からかなり遠くの国みたいだけど……
なんて思いながら、リグレットは町の図書館でその国に関して調べてみた。ギルバートに聞いてみたけれど、とても遠い国だよとしか言われなかったのでよくわからなかったのだ。
詳しくは図書館で調べてごらんとも。
だからこそ言われたままに図書館へやってきて。
「えっ……」
そこで、リグレットはようやく知ったのだ。
シャンパルティ共和国について。
少し前まで鎖国状態だったその国は、鎖国を解除してからは他国の文化も少しずつ取り入れるようになってきた。
他国の文化を取り入れて、そこから自国向けにカスタマイズする、というそれをリグレットはよく知っていた。
懐かしい、前世の記憶で。
そしてシャンパルティ共和国の郷土料理という部分を見て。
リグレットは思わず声を上げたのだ。
そこに記されているのはよく知っている、それでいて懐かしい料理の数々。
この国の食事も美味しいけれど、なんというか一食のカロリーはとても高い。
パンにたっぷりのチーズだとか、お肉にこってり濃い味のソースだとか。
お魚だって焼くときにかなりしっかりとした味をつけるから、食べ終わった後はちょっと喉が渇くくらいだ。
今はまだいいけれど、年をとってからもこれじゃ胃に辛いかも……とは薄々感じていた。
というか、カロリーを気にしていないと簡単に余計な肉がつく。
日々暇を持て余しがちなリグレットはせめてもの抵抗とばかりに散策して身体を動かすようにしているけれど、正直動いたらその分お腹が空くのでご飯がとても美味しいのだ。
なので食事はついついお腹いっぱいになるまで食べてしまう。
領地の端っこに追いやられて、マトモな食事もままならない、とかであれば痩せ衰えていったかもしれないけれど、そうではなかった。次期国王にはなれなくなってしまったけれど、ギルバートは決して無能というわけでもない。
だからこそ、二人と屋敷の世話をしてくれる使用人たちが食べるのに困るような事にはなっていない。
だが、リグレットにとってそれは、半分は困った事でもあったのだ。
ダイエットしようとしても成功しない。何せ一食のカロリーとんでもない。
せめて半分のカロリーに抑えようとしても、量を減らすととてもじゃないがお腹が空いて大変なのだ。
パンは美味しいけれど腹持ちがあまりしない……とは常々思っていた。
そこにきて、シャンパルティ共和国の料理の数々を紹介するページがどどんとリグレットの目の前にあるのだ。
懐かしいお米。
炊き立てのご飯と温かいおかず。
それ以外にも粉もんと呼ばれる料理だとかまで。
炭水化物に炭水化物を組み合わせたメニューと聞けば正気か? と言いたくなるが、それでも正直この国の料理と比べるとカロリー低いという時点でむしろそっちの料理を好んで食べたいわ……とすら思ってしまう。
毎食そんな組み合わせだと栄養偏るのはわかっているけれども。
自然と口の中に唾液が溢れた。
そしてそこで気付いたのだ。
あの時、ロザリアが言った言葉の意味を。
(もしかして、私が転生者だと知っていた……? えっ、じゃああの女も転生者!? 道理で嫌がらせしてこないなとは思ってたけど、いや、でも)
考える。
ロザリアはまるでギルバートに関して何の執着も見せていなかった。
てっきり政略で結ばれた相手だから、愛も何もないのね、冷め切っててギルバート可哀そう、とか思っていたけれど。
最初からどうでもよくて、彼女の狙いがあの国に行く事で、だとすると……
自分だって今こうして知ってしまった和食の存在に焦がれているのだ。
ロザリアも、きっとそうだったのかもしれない。
遠い国だと言っていた。
確かにこの世界、飛行機なんてないから、旅行に行くにしても遠いととても時間がかかる。
食料を輸入できたりしないのだろうか……とロザリアがかつて思った疑問をリグレットもまた抱き、調べてみれば今のこの世界の技術ではちょっと難しいというのがわかる。
せめて梅干しくらいはどうにかならんか、と思ってしまう。けれどもこの国のどこを探しても梅干しはないだろう。
正直あれは、人を選ぶ食材なので。リグレットはむしろ大好物なのだが。
ごはんと一緒に食べるもよし、おにぎりの中から出てくる時のあのサプライズ感もまたたまらない。お茶漬けの上にちょんと存在しているのなんて、もうアンタが王様だよと思ってしまう。
熱いほうじ茶の中に梅干しを一つ入れて飲むのも好きだった。
沢庵と一緒に、鰹節と合わせたり、納豆に入れたり。梅干しには無限の可能性が宿っている。
あぁ、おばあちゃんの漬けた梅干し食べたいなぁ……いやもう前世だからおばあちゃんも何もって話なんだけど……
突然の郷愁に思わず涙が出そうになった。
ここのご飯も美味しいけれど、でも、自分が食べたいのは……
一体どこで私が転生者だと気づいたのかわからないけれど、でもあんな事にならなかったら私も誘ってくれていた……?
私、知らなかったとはいえなんって事しちゃったの……!
リグレットは思わず頭を抱え込む。
乙女ゲームの世界に転生しちゃったしかも自分ヒロインじゃないひゃっふーぅ! なんて浮かれている場合ではなかったのだ。
どうしてあの時ロザリアに縋りつかなかったのだろう。いや、あの時点ではそんなの知らなかったからってのもあるんだけど。
知らなかったから、もし仮にロザリアにシャンパルティ共和国に行くのを誘われても、きっと断ってただろうとも思う。おい馬鹿やめろ過去の私。最善の選択肢を潰すんじゃあない。
なんて思っても後の祭り。
しかし、知ってしまった以上知らないままだった時の自分ではいられない。
ロクに役に立たないお荷物同然の自分がいきなりシャンパルティ共和国に行くなんて言い出したところでギルバートが賛成してくれるとは思わない。
やらかしたのはそうだけど、それでも彼は自分に対してとても誠実に接してくれているのだ。お前のせいで落ちぶれたんだなんてギルバートは言わなかった。
ならば、自分も彼に対して誠実であらねば女が廃る。
現実を見なさい私。目的のために手段を択ばず男を落としに行ったんだから、同じようにいきたい場所に行くための名目を作って、そうするだけの価値があると示しなさい……!
自分に言い聞かせて、リグレットは本を閉じて元の場所に戻す。
必ずしも離縁する必要があるかはわからない。
少なくとも当分の間は海外に行く事も禁じられている。
近隣諸国に出ても問題ないと思われなければならないのだ。
ギルバートは今、とても反省してお仕事をしている。
自分はロクに役に立たないからと何もしていなかった。
自分ができる事から始めるしかないのだけれど。
「いつか絶対……行ってみせるわ待ってろ故郷の味……!」
覚悟を決めた女は凄いのだという事を、知らしめてやる……!!
たった一人、戦場に向かう兵士のような決意に満ちた眼差しをもって、家に帰ったリグレットが。
一体全体どういうプレゼンをしてそうしてシャンパルティ共和国に行くという目的を果たせたかどうかは。
今はまだ、先の見えない話である。