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翌日からディジネの花嫁修行が始まった。どんな厳しい試練が待ち構えているのか、内心ドキドキしていたが、意外にも今の体調に合わせたメニューだった。
食事は胃に優しく栄養のあるメニューが用意され、運動は柔軟運動を念入りに行った上で家の周りを散歩する。ヴァルムの在宅時は彼が指導してくれるが、仕事で不在の際はばあや通いの使用人が指導してくれた。
「本日は良い天気ですのでお庭でお昼寝いたしましょう」
まだまだ体力がないディジネのために昼の散歩の後に昼寝の時間が設けられている。ディジネはばあやと一緒に庭の木と木の間に薄紅色のハンモックを取り付けた。このハンモックはヴァルムがディジネの為に用意してくれたそうだ。
「ハンモックで眠るなんて、初めてだわ」
「とても気持ち良いですよ。坊っちゃまのお気に入りでございます」
ヴァルムの新たな一面を知ることが出来てディジネの心は弾む。早速彼のお気に入りを堪能しようと、慎重にハンモックに身を任せる。ゆらゆら優しく揺れるハンモックに疲れもあって早速睡魔が訪れる。
「ではばあやは近くで編み物を致しますので、起きたらお声掛け下さいな」
「はい、おやすみなさい。ばあや」
***
「ディジネ殿」
力強く、それでいてどこか優しい声に名前を呼ばれて、ディジネがうっすらと目を開けると、ヴァルムがこちらを見下ろしていた。寝ている間に仕事から帰って来たようだ。
「ヴァルム様……おはようございます」
「おはよう、起こすのが忍びないほどよく寝ていたが、もうじき日が沈むが故に起こさせてもらった」
「えっ、私ったらそんなに寝ていたのですか⁉︎情けないわ」
昼寝を終えたら鍛錬を再開しようと思っていたディジネは己の不甲斐なさに意気消沈するが、ヴァルムは朗らかに笑い彼女の金髪頭をガシガシと撫でつけた。
「よく眠るのは良いことだ。一歩前進だな!」
怠惰に眠っただけなのに褒めてくれるヴァルムにディジネは気恥ずかしさもあったが、嬉しくなって頬が熱くなった。
「おっとすまない。許可なく触れてしまった」
「構いませんわ。私達婚約者同士なんですし、この位の触れ合いは問題ないと思います。それに頭を撫でて貰ったのは子供の頃以来ですが、とても誇らしい気持ちです。ヴァルム様さえよければ、褒めて下さる時はまた頭を撫でて下さい」
「そうか、だが不快に感じた時は伝えてくれ。生憎私は察するのが不得手でな、言葉にしてもらえると助かる」
「分かりましたわ。では私の方も同様に伝えて下さい」
対等な関係であろうと努めてくれるヴァルムにディジネは長年凍りついていた心が溶かされるような気がした。
一緒にハンモックを片付けてから、ふたりは屋敷に戻って、ヴァルムと交代で先に戻っていたばあやと夕飯の準備をした。
「ディジネ殿、生活に不都合はないか?君が望むなら専属の侍女を雇うつもりだが」
「お気遣いありがとうございます。とても快適に暮らしておりますし、身の回りのことはみなさんに十分にお世話して頂いているので、新しい侍女は不要ですわ」
「そうか、もし必要だと感じたらいつでも言ってくれ」
この屋敷は普段カーマイン家の人間はヴァルムだけ住んでいて、使用人はばあやと通いの使用人が二人いるだけだ。
社交シーズンになると、領地にいるヴァルムの両親が訪問するので、いつもより賑やかになるらしい。
「ところで、普段私は王家主催の夜会や式典は警備を担当していて不参加なのだが、次の社交シーズンの最初に行われる夜会では君を婚約者として陛下に紹介する為に出席することとなった」
「次の社交シーズンは……半年後ですね」
「ああ、それまでに私は君のエスコートとダンスを特訓しようと考えている。協力してもらえるかな?」
「勿論です。ですが私もダンスは久しぶりなので、力になれるか分かりません」
元婚約者のクヴェールはダンスが大嫌いで、婚約のお披露目でさえ踊ったことがなかった。婚約者と踊っていないディジネはマナー上他の者とダンスをすることは出来ないので、夜会ではいつも壁の花になるしか選択肢がなかった。
「そうか、では慣れない者同士頑張ろう!講師はアルバンとマチルドで問題なかろう。よし、休日の予定が決まったな」
「はい、楽しみです!」
アルバンとマチルドとは通いの使用人で夫婦だ。ふたりは貴族の四男坊と三女で恋愛結婚だそうだ。夫のアルバンが家を継げないので騎士として身を立てる予定だったが、魔物退治の際に負傷して剣を握れなくなったそうだ。そこにちょうど通いの使用人を探していたヴァルムが再就職先として提案した所に夫婦で乗ったらしい。
夜会でダンスを踊ることが憧れだったディジネは期待に胸を膨らませて早速翌日からマチルドに師事して自主トレに挑むことにした。
久しぶりのダンスは完全に勘を失っている上に体力も落ちていたので、まるで形になっていなかったため、まずは体幹を鍛えることから始まった。
それがディジネに合っていたらしい、これまでの鍛錬より身につくのが早く、食生活の改善の効果も出てきていて、胃腸の調子も良くなってきたのも相まって、メキメキと体力と筋力がついていった。
ここ数年、痩せ細り虚弱だったせいで思うように動けない無気力な日々が続いたが、今は体が自由に動く。普通に生活している若者なら当然のことなのだろうが、ディジネは久方ぶりの健康に感動を覚え、ここまで導いてくれたヴァルムとばあや達に感謝と尊敬の念が募っていった。
ヴァルムの休日には約束通りふたりでダンスの特訓に勤しんだ。熊のような大男であるヴァルムは貴族令嬢と踊るには体格差がありすぎていつもお断りされているらしいが、ディジネは女性にしては背が高い方なのでギリギリバランスを保つことが出来た。
「ダンスがこれほどまでに楽しいものだとは知らなかった!」
「私もです!ヴァルム様、もう一曲お相手して下さいまし」
夜会のダンスホールで披露するにはまだまだ拙いステップではあったが、ヴァルムもディジネも不思議と息が合い楽しみながら練習に励んだ。力加減や体力など課題は残っているものの、本番には紳士淑女として素晴らしいダンスを披露出来るはずだと気持ちは前向きだ。
キッカケは社交のためだったが、いつしかダンスが共通の趣味となったヴァルムとディジネは暇さえあれば仲睦まじくステップを踏んでいた。手と手を取り合い見つめ合うふたりは情熱的で、はたから見ると縁談からの婚約には思えないほどだった。