1話:悪意が目覚めた日
ホコリにまみれ、カビの匂いに満ちた薄暗い地下牢。
虫がたかる汚いトイレと、ボロ雑巾のような毛布だけが敷かれた硬いベッド。
そんな掃き溜めのような牢屋の中で、その唯一の囚人である俺は……一体どれほどの時を過ごしたのだろうか。
「ヒイロ様、あのニセ勇者の仲間達と一緒に冒険に出発したらしいぜ」
「ああ。昔からすげぇ人だったもんな」
「しかも、王様に認められて、王女様とも婚約したらしい」
わざと、俺に聞こえるように見張り番が大声で話している。
でも、そんな意地悪も無意味だ。
だって俺はもうこれ以上、何にも絶望なんてしないのだから。
「羨ましいねぇ。つーか、あの二人って昔から怪しかったよな」
「はははっ! ニセ勇者如きが王女様に取り入るなんて無理な話だったんだよ!」
「おいおい、そうとは限らねぇだろ?」
「そうだな。なんせニセ勇者は父親譲りの、寝取りの才能はあるみてぇだからな!」
「「ガハハハハハハッ!」」
品の無い笑いが狭い地下牢内に反響する。
こいつらもよく、毎日こんな事を繰り返して飽きないものだ。
「んだよ、つまんねぇな。こいつ、もう死んでるんじゃねぇのか?」
「ずっと飯も食わず、動かねぇもんな。ちょっと痛めつけてやるか?」
俺が何も反応しない事に業を煮やしたのか、見張り番がこちらへ歩み寄ってくる。
これもまた日常の一部だと、俺が内心で思っていると。
「貴様ら! 何をしている!?」
「「げっ!?」」
「見張り番の仕事はどうした!? 定位置に戻れ!」
「「は、はいっ!!」」
地下牢の階段を降りてきた女の一喝で、見張り番達はそそくさと戻っていく。
そして、それと入れ替わる形で……その女が俺の傍へと近付いてきた。
「……ネトレ。久しぶりだな」
流れるような赤紫の髪をポニーテールにし、全身をフルプレートの鎧で覆い隠しているこの彼女の名前は……ガティ・アグリッタ。
若くて美しい女性でありながら、王国騎士団の中でも最上位を誇る実力を持つ女騎士にして……俺に剣を教えてくれた師匠でもある。
「本当はすぐに会いに来たかった。しかし、その前にまずは……お前の処刑の中止を陛下に直訴するのが先だと思ってな」
「…………」
「だが、すまない。陛下の怒りはすさまじく……私程度の言葉には耳を貸してくださらなかった」
「そう……ですか」
長らく言葉を発していなかったせいか、俺の声はかすれ切っていた。
そして、それを聞いたガティは……苦悶の表情で牢の鉄格子を叩く。
「なぜだ……!? お前は何も悪くない! 罪があるとすれば、お前の母だろう!?」
「母さんは……もう、とっくに死んでるから」
「だからといって、息子のお前が罰せられていいものか!」
「……」
「私は知っている。お前が世界を救おうと、どれだけ努力してきたのか……」
正義感の強いガティにとって、俺の処遇は到底受け入れられないらしい。
何年修行しても一向に強くならない俺を、さじを投げずに指導し続けてくれた彼女には……正直、感謝しても感謝しきれないと思っている。
しかし、それらも全て……俺の血筋のせいで、無駄になってしまったわけだが。
「処刑の日までは、まだ時間がある。必ず私がお前を救うからな!」
そう言い残して、ガティは地下牢を去っていく。
彼女の気持ちは嬉しいが、あの王様が処刑を撤回する事はありえないだろう。
「……」
だけど俺はぼんやりと考える。
このまま、本当に死んでもいいのかと。
不貞によって生まれた穢らわしいニセ勇者として歴史に名を残し。
一方、俺を見捨てた連中はヒイロと共に魔王を倒した英雄となり、俺を見限った王女は勇者と結ばれてめでたし、めでたし。
そんなふざけた未来を、果たして本当に許してもいいのか?
「いいわけ……ねぇだろ」
その時だった。
俺は生まれて初めて、自分の中にドス黒い衝動がある事を知った。
勇者たるもの、罪を憎んで人を憎まず。
その精神で俺は、これまで喧嘩をした事はおろか、他者へ憎悪を向ける事は無かった。
でも、もういいじゃないか。どうせ上辺だけ取り繕っても、俺の中身は変わらない。
酒場で女を誑かし、寝取るような男の血が、遺伝子が、俺に流れているというのなら。
「あー……うん。なんか、スッキリした」
一度タガが外れると、心が悪意に染まるのは一瞬だった。
どうせ、生まれてきた事そのものが罪なんだ。
だったら、俺を否定するこの世界をぶっ壊してやろうじゃないか。
俺はそう決意し、密やかに計画を練り始める。
まずはこの地下牢から脱出し、それから――どのようにして世界を終わらせるのかを。