空想と泥人形
空想が空想ではなくなる瞬間というのは、どんなときなのだろうか。
それが誰かの現実になってしまったときに、その虚構はすべからく打ち砕かれるべきなのだろうか。
否。答えは否だ。
誰かの空想が、現実という質量を持ってしまったとしても、また他の誰かの空想が壊れてしまうわけではない。あくまで誰かの現実でしかないからだ。
だとするならば、この目の前の空想の世界は、虚構という形のない揺り籠は、自分という異物を飲み込んだだけの誰かの現実なのかもしれない。
果たしてそれは、この場所は、今この瞬間誰の現実であり、誰の空想なのだろう。
空想と泥人形
文字の形が様々なように、言葉の表現が自由なように、この本の一冊の中には文章という自在の空想が宿っている。書き手の意図と読み手の解釈が一致すれば幸運、作者の作為を読者が読み解いてくれれば奇跡。それは何もおかしな話ではない。言葉というものを通常使っている人間の、言葉に対する印象はそれぞれに一人歩きしているのであって、作る側はそれを何とか意図する方へ誘導しようと道筋を作るけれど、それが必ずしも正解にならないのが物語だ。
解釈というのはつまり、読み解いた答えに自分の有している言葉の意味を結びつける行為であり、空想にひとつの答えを生もうとする『理解』という行為のひとつの方法に過ぎない。
「何を講釈たれてんのよ」
真っ赤な両目に気迫を乗せて、じっと相手を見つめる少女がいた。名前を紫蘭威織と言い、目の前の人物————ドラセナの天敵だった。
ドラセナはシルクハットのプリムの端をつまんで少しだけ引き下げると、美しい口元で綺麗な弧を描いて笑った。威織はその様子を見て、普段以上の苛立ちを感じる。
「物語が物語であるためのひとつの条件の話さ。難しい話だけれど、キミに解るかなと思って」
「わかるわよ舐めてんの? そういう態度が嫌いなのよ。アンタなんて部屋に閉じこもって一生出てこないくらいがお似合いだわ」
威織が屈み、そのまま飛び上がる。相手がいるのは街灯の上で、とても人間には届かない場所だったけれど、威織は何の苦もなくその場所に辿り着いた。同時にドラセナの姿が別の街灯に移る。緩慢な追いかけっこだけれど、どちらも油断をするつもりはなかった。
「キミに嫌われるとはうん、役柄冥利に尽きる。これを幸福と言わず何と言う! と高らかに叫びたい気持ちもあるけれど、でもどちらかというと、ボクとしてはボクは観ていたいわけでね。ああでもキミと距離を取りたいわけじゃない。分かるかい、最前列で何もかもを見逃さずに楽しみたい、このボクの気持ちが」
「知りたくもないし必要もないってのよ」
ドラセナが恍惚とばかりに自身の胸元をぎゅうと握る。ひらひらとしたブラウスのフリルがぐちゃぐちゃになって、力の強さ故か手を離しても跡が残った。
ドラセナは威織を主人公だと思っている。愛しい主人公。やがてモノガタリを殺す者。
その執着を話したその日から、威織は全力でドラセナを拒絶した。自身の出生故に否定しきれない『親』であるその存在を振り切るように。
いつもなら、咲や要が傍にいる。今はタイミングが悪く、ドラセナと一対一だ。それが威織の中に焦りを生み出していた。そのことに威織自身は気がついていなかったが、ドラセナはそれを察しているからこそ、この好機を存分に楽しもうと思っていた。
現実の人間が、モノガタリに取り込まれながら、いち登場人物として消化される前に、物語の人物との間に授かった子ども。物語自体を破綻させる前に否定の形で現実に放り出された稀有な存在。それが威織だった。
「特別な存在に焦がれたことはないかい? キミは元から特別だから、どちらかというと普通に憧れるものなのかな」
ドラセナは少女からの言葉を待つ。返答はないだろう、しかしこの時間すらも面白いと感じる。
威織の今の焦りは、いつもいる他の人間による現実の肯定が今は得られないからだ。ドラセナはそれを察していた。あちらで生まれてこちらで生きる少女は無意識に現実との繋がりを求める。威織の性格上他者を自己都合で消費したくないと言うだろうが、本能的にそう行動しているのだとドラセナが指摘するたびに威織は激昂して対抗してくるのだ。
ドラセナの生み出したモノガタリという存在が、威織という少女を生み出した。
だからだろうか。ドラセナは威織が可愛くて仕方なかった。殺したいほど可愛いし、苦しませたいほど愛しい。甘やかしたい気持ちも慈しみたい気持ちもある。そして同時に絶望させ、憎しみや狡猾さを学ばせ、その全てが空になるほどに何もかもを呆気なく終わらせたい。その全てを楽しみたいのだ。自分の手だけではなく、誰かの手によっても作られる、少女の物語を余すことなく。
「生憎、アタシは特別じゃない。他の何かに焦がれたりなんてしない。アタシがアタシである理由に他人はいらない。アタシがアタシである責任を他人に投げるつもりもない。そして、アタシを理解してもらう必要もない」
威織が街灯を何本かへし折る。この空想のような力を現実に引き出している少女は、今どちらに生きているのだろう。ドラセナは観ている全てが酷く愉快で、甲高い声音で奇妙な笑い声を上げた。
「アタシはアタシよ。何か文句あんの?」
「ないさ。嗚呼、それに、解るよ。分かる、ああ、ええと、わかるとするべきかな? 何でもいいか。キミにこの言葉の意味を預けよう。キミの理解こそボクの言葉を鮮やかにする。キミが他の登場人物によってこうして日々形作られているように!」
「ホント意味わかんない。聞いてると頭痛くなんのよ。さっさと黙るか死ぬかしてほしい」
威織はドラセナを倒すことを諦めて、この場所から離れることにした。背中を向けても殺しにくることはないだろう。その確信に気分が悪くなりながらも、威織はひとつの道を注視した。
なんてことのないコンクリートの道だ。左右の街路樹も、閉店した商店街もごく普通の日常の風景だ。
威織はその中心に降り立つと、大きく深呼吸をして頭の中を切り替える。あっちじゃない、こっちよ。自分に言い聞かせるように小さく呟く。
「ねえそれおまじない? いいねえ」
ドラセナはじっと威織の背中を見つめる。
主人公というのは、主人公であるが故に能力を持つわけではない。能力を持つ持たないに関わらず、主人公になれるのだ。ご都合主義の運命というのは主人公の元に集束する幸運ではなく、元々敷かれていたレールの上に主人公たる人物が配置されているだけに他ならない。
「僕はさあ、キミのそういうところが好ましいと思うよ。色んな主人公を混ぜ合わせて、自我を作り出したような。この世界では数多の物語が存在して、色んな主人公たちが存在している。キミもそのひとりだ。いつ終わるとも知れない物語の主人公。でもボクにはキミは描けなかった。だからこそさ。キミに主人公であってほしい。ボクの想像を超えて、モノガタリの結末を見せてほしい」
威織の姿が暗闇の中に消える。ドラセナはそれでも構わず話し続けた。
「きっとね、あの子もそうだと思うんだよ。終わり方がわからなくて泣いているのさ。ボクでは書き上げられないし、もうボクの手を離れた以上あのモノガタリの語り部になってあげられないけれど、それでもボクが生かされているのは意味がある。そうだろう? だってキミはボクのことが嫌いだ。無意味で無価値で描写もされない人物に向ける感情なんて物語には存在しない。だからね、ボクはキミのことが大好きさ。ボクもキミも、誰かの空想にしかなれないような存在のくせに、現実に夢を視ているんだから」
ドラセナは一冊の本を手元に出すと、パラパラと頁を捲った。何の変哲もないその本眺めながら、文字ごしに景色を見る。遠く、手の届かないような空想の、賑やかな世界。心地のいい空気、生きているような言葉の掛け合い。それら全てが自分を満たしていく。けれど唐突にその全てが暗闇に変わる。ドラセナは本を閉じて、小さく肩を竦ませた。
「ボクじゃない、ねえ」
そうだろう、とドラセナが問う。誰もいない筈の背後から、幼い少女の声が聞こえた。
お前じゃない。
突然現れた気配はすぐにふっと消えてしまった。ドラセナは寂しそうに目を細めて、それはそれで傷つくねえと道端の小石を蹴った。
「ボクは主人公にはなれないからね」
言葉が暗闇に溶けていくのと同時に、ドラセナの姿も消える。
誰もいなくなったその場所には、再びいつもの時間が流れていくだけだった。
(導きもなく、救いもない。けれど歩いていく。道もなく、答えもない。けれど選ぶしかない。その世界を終わらせない為に。そう、だから世界を殺すときはどうか、あなたの手で)