プロローグ:2
ガルデ公国所属とはいえ、事実上の管轄外におかれている8番街。
市街地といえども、あるものを掻き集め、積み上げたみっともない家々が入り乱れる様はまるで迷路だ。当然、ここに法などは適用されず、各々は死と隣り合わせの日々にしがみ付くしかなかった。
寒気がする光景でも、エルノにとってはこれが日常。
油ぎった空気を胸いっぱいに吸い込み、饐えた臭いのする路地裏を通り過ぎ、ハエが集った死体を飛び越えて、エルノはわが家に辿り着いた。
この何十年も前からあるバラックはもはや雨をしのげず、壁の隙間からは風が流れてゆく。
錆びついた扉を開けて、「ただいま」と言った。
三畳ほどの広さを誇る空間は、しかし近隣と比べると豪華なほどですらあり、母子が必要最低限の生活を営めるだけの代物でもあった。
誰もいないことを確認したエルノは床に寝転び、ぜいぜいと呼吸を整える。
母コルは買い物に行ったに違いない。......つまりは、一人きりの時間ってことだ!
「ひゃっほぉぉぅ!」
思わず飛び跳ねたエルノは頭を打ち付け、しぶしぶ座り直した。彼の右手には、燃えるような紅色を放つ宝石が握られていた。
それ単体で眩しいくらいの光沢だ。こいつはきっと、本物の宝石に違いない! 売れば数千ベイトは下らないだろうなぁ。
物心ついたときから、宝探しを父親に教わった身ではあるが、これまでにも宝と言えるような掘り出し物は無かった。ましてや、宝石が見つかるなどとは考えもしない。自身、たまたま餌場を変えてみただけで、内心ではもう諦めかけていたのだから......。
突然、ギィ、という音がした。エルノは焦って宝石を古ぼけたジーンズのポケットに突っ込む。
「エルノ? 帰ってるの?」
予想通り、コル・二ニータが帰ってきたのだった。
エルノは何事も無かったかのような表情を繕えたが、「母さん、お帰り」と言う声は上ずっていた。平和ボケした彼女のことだ、きっと「持ち主を探さなきゃ」などと言うに違いない。まだ知られるわけにいかないとは思うのだが、エルノの目はポケットの微妙な膨らみを捉えていた。バレなきゃいいけど。
「まーたどこかへ行っていたのね! いつもの場所にいなかったから、心配したのよ。ま、いいわ。今日、父さんが帰ってくるからね」
父ファズム・二ニータはガルデ公国の私有する民兵集団、“ガーディアン”の隊員だ。
“ガーディアン”は国の治安維持を一貫する聖府の軍隊とは別に、マモノの討伐が主な任務で、その存在は大陸中でも有名である。特に聖府軍を雇えない過疎地域や、マモノの脅威にさらされやすい地域での依頼が殺到する。
ファズムは“ガーディアン”の傭兵部隊に所属しており、それで一家の生活資金を得ているのだ。7年ほどの契約期間が終わり、久々の対面となると実の父とはいえ緊張もする。
「ごめんごめん。別の用事があってね。それより、今夜はご馳走かい? 楽しみだなあ」
エルノは宝石のことなど忘れ、玄関へと身を乗り出す。肉や野菜の香ばしい匂いが充満し、ぐう、と腹が鳴った。
「まったく、お行儀の悪い子ね」
とため息をついたコルの顔は、微笑を浮かべている。
エルノは一度でも贅沢な暮らしをすることを夢見ているが、そう叶わないものだ。しかし、この瞬間の幸せがどんな贅沢でも味わうことができない幸福なのだ。しばらくその匂いを堪能していると、コルが「そうそう」と話を振った。
「また戦争が始まるかも知れないって。まったく、物騒で嫌だわ」
「戦争?」
また戦争が起こる。その言葉の意味も重みも理解せぬまま、エルノは母の話になんとなく耳を傾けた。
「魔球のうち一つをこの国が隠し持っているって情報が出回ってるらしくてね。“上”の人たちはみんなピリピリしてるわよ。ついこの前にも、聖府から『魔球を明け渡せ』なんていうような脅しがあったらしいわ」
力の泉が姿を変え、2つの魔球となった。その伝説は本当のことかすら分からず、実際何百年もの歳月をかけても聖府は魔球を1つすら見つけることができていないと聞く。聖府の狙いは、魔球を全て揃えることにより、力の泉を復元させること。もし魔球が存在するのであれば、本当にそれで泉を復元できるのかは置いておいて、人々のライフラインであるフォースのエネルギーを永久的に供給できるであろうことは確証されている。
「でもさ、これまでに聖府は血眼になって魔球を探してきたんだよね? 実は灯台元暗しでした......なんて、そりゃないよ」
「そうよねぇ。でも、敵対しているヴェクト帝国はこの機会に聖府と手を組んで、ここを潰そうって魂胆じゃないかって。私たちには関係ないのにね。もし本当に隠しているなら、早く明け渡してしまえばすむだろうに......」
あるかどうか分からない昔の伝説に、今更漬け込んで、しかも、それが原因でガルデ公国は滅びてしまうかもしれないという。そんなあほらしいことで、ぼくたちの人生まで終わるのか? ......考えても仕方のないことだと割り切って、「支度、手伝うよ」と声をかけた。
「珍しいわね」
いつも外をほっつき歩いてるせいで任せっきりだもんな。苦笑いをし、部屋の隅の台所まで足を運ぶ。
まず初めに食材を切った。それらを流し込んで1時間弱ほどじっくりと煮込む間、引き立つ風味に卒倒しそうになりながらも、カレー皿に盛り付けるところまでを完了させた。
流石に14歳にもなると、これくらいは習わずとも覚えられる。包丁で手を切ったことや、火を強めすぎて少々焦がしたところを除けば、はじめて作ったカレーにしては中々の出来と褒められた。いや、貶されているのか? 空腹に打ち勝った自分を自画自賛することにする。
ともかく失敗した部分はコルが受け持ってくれ、自分と父の皿には極めて美味しそうなカレーが用意された。
陽が沈みかけた頃、扉が静かに開いた。二人の視線を浴びて立っていたのは、戦闘衣姿のままびしょ濡れになって立っているファズムだった。
「まあまあまあ」
「構わん。上がるぞ」
コルを制したファズムは、床が濡れるのも構わず、エルノの横についた。
「エルノ、いくつだ?」
妻に対する第一声が「構わん」、息子に対する第一声が「いくつだ?」。それでいいのかよ? との突っ込みも出せず、ただただ緊張しているエルノは「じゅうよん......」とぎこちなく答える。すっかり縮こまってしまったエルノをなだめるように、彼は「そうか、大きくなったな」と、肩に手を置いた。
「口下手は変わらないのね。エルノ、別に気にしないでいいのよ。ただのオッサンだから」
それにムッとしたファズムはコホンと咳を鳴らし、地べたに並んだカレーに目をやった。「このカレー、何年ぶりだかな」と、厳しく引き締めた顔を多少は和らげ、スプーンを持った!
「いただきます!」
この瞬間をエルノは待ちわびた。2分ほどでカレーを完食したが、それでも腹の虫はおさまらず、干し昆布を舐めた。
本当に久しぶりのご馳走だ。何か祝い事があったときにしか、滅多にカレーは食べられない。この家のメニューはいつでも汁ばかりの雑炊と梅干しが数個、おやつには干し昆布という程度で、カレーや魚料理は豪華なものだ。
いつのまにか、コルはファズムにも例の話をしたらしい。ファズムは、
「心配は要らん。ガルデ公国を後ろ盾にしているところは山ほどあるからな。ヴェクト帝国も真っ向から宣戦布告をするような馬鹿な真似はせん」
と言いつつも、「しかしな......」と付け足す。
「聖府絡みとなると、ただでは済まんぞ。それとエルノ、後で話がある」
それだけ言うと満足げに腹をさすり、タバコをふかした。