07 異世界
目を開けた。薄暗い場所だ。
天井が遠い。
仰向けに横たわったまま天井に描かれている模様を目でたどる。それにしても随分と天井は高い高いところに見える。
ゆっくりと顔を動かす。細長い窓がある。窓は等間隔にいくつかあってすべてカーテンに覆われていた。
そろりと身を起こす。
がちゃり?
耳慣れない音に視線を落とす。腰に剣がぶら下がっている。なんだ? と思いつつ頭のほうは全然回らない。
手に触れているのはひやりと滑らかな絨毯だ。広い部屋のなかに敷きつめられている。
ぼんやりとそれをしばらく眺める。
何か堅いものがぎっちりと詰まっているようで頭が重い。考えがまとまらず漠然としていて、現実感がなかった。
右奥の壁に背の高い椅子があった。
別の一方の壁を見ると、額に入った肖像画がふたつ並べて飾られているのが目に入った。
どちらも人物が描かれている。ひとつは恰幅のよい男性の全身像。もうひとつはドレスを着た女性の上半身像を描いたものだ。その女性は――。
――グレイスだ。
「……」
ゆっくりと立ち上がり、俺は肖像画のある場所まで歩いていく。
だが広い部屋のなかを見まわしながら次第に興味が湧いてくる。
ここはどこなのだろうか?
どこか昔風で馴染み深い雰囲気があった。中世のロココ調様式というのによく似ている。
肖像画の飾られた場所にたどりつき足を止めた。
壁を見上げて肖像画をじっくりと眺める。
グレイスは、オレンジがかったクリーム色の胸元の大きく開いたドレスを着ている。重たげなネックレスが白く輝き、ふっくらと結い上げた紫色の髪には小さな銀色の飾りがついていた。
額のなかのグレイスはこちらをまっすぐに見つめている。彼女の浮かべている表情に「へええ」と声が漏れてしまった。
胸を張った堂々たる姿勢のせいかきりっとした印象があった。加えて、こちらを見るその目には強い意志を感じさせるものがある。この女性は自信に満ちた表情をしている。
俺の知っている範囲では、彼女はちょっと気が強くて唇尖らせたりつんつんしてくるときもあるが、こんなにも堂に入った雰囲気のグレイスは見たことがない。――とここで、ふいに思う。
つまり江里花が転生する前のグレイスという女性が、この肖像画に描かれている貴婦人なのだろう。
とすると、この世界に生きていたグレイスはどこにいったのだろう。
あるいは彼女もこの世界で亡くなったのだろうか。そこへグレイスの魂が入っていったのか――? しかし亡くなっているとしたら肉体も死んだということになってしまうだろう。
好奇心がばりばりと湧いてきて、つぎに俺は、隣りに並べられている男性の肖像画へと目をやった。
こちらの肖像画も衣装や雰囲気が中世風だった。
黒いマントを纏った男性がこちらを見つめて立っている。がっしりとした貫禄のある体格。片手を腰にあてもう片方の手には鞘に納められた剣を持っている。剣先、鞘の先は地面に向けられている。
若くはない。角張った輪郭。肩より長く伸びている黒髪。黒い瞳。唇は一文字に固く結ばれている。頬には傷跡でもあるのか斜めにぎざぎざと薄い線がひとつ描き込まれていた。
ぎりっとこちらを睨みつけているかのようなその目は海千山千という印象である。笑いなどどこかへ投げ捨ててきたような表情だった。
――もしかしてこれが魔王なのか。
というかどう考えてもこれが魔王だと思われた。
俺はごくりと唾を飲み込む。
強そうだ。ものすごく強そうだ。
怒らせたらとんでもなく怖そうだし。
――こ、こいつからグレイスを取り戻す……。
できるのか。この俺に。
肖像画から目を離してふたたび部屋を見まわす。背の高い両開きの扉が目に入る。
そこまで歩いていこうとして、途中の壁に大きな鏡があることに気づく。
――!
爽やかな青年がまじめな顔をしてこっちを見ている。金髪だ。
手を動かすと鏡のなかの男も動いている。
ええええええ。
――お、おい。
きりりとした眉。切れ長の目。見れば見るほどおかしな気持ちになってくる。
顔をふるふるしてみる。鏡のなかの男もふるふるしている。
――本当に俺なのか。これが俺か? どうなってるんだ。
鏡にうつる男が自分であるということが不思議すぎて、当惑してしまう。
………………。
――そうか。
やっと思い当たる。
――これは、転生したってことか。
――つまり、ここは、異世界ってことなのか。
ようやく頭のなかが動き出す。
そうだった。
俺は……。俺は、あの交差点で走ってきたトラックにむかって身を投げ出した。
異世界へ転生するというわずかな可能性にかけて、俺は死んだ。
とすると、成功したのだ。
きっちりと俺はトラックに轢かれて転生できたのだ。
だからこれからはグレイスをどうやって取り戻すのかを考えなければならない。
己の姿形が変わっていたくらいで、戸惑っている場合ではない。
じんわりと体を動かしてもう一度、鏡のなかを見つめる。
うむ。これからこれが俺か。
――なんか変な感じだな。だけどこれに慣れないといかんな。
冷静にそう思えた。だが心は焦っている。まだ気持ちがついていけていない。そんな感じだった
――と。そのとき。
かっ。かっ。
扉を叩く音がした。
ほどなく重たげな扉がぎぎっと両開きに開いていく。
「グレイス様グレイス様――」
誰かがグレイスを呼んでいる……?
考える間もなく扉は完全に開かれた。
俺の立っている位置からも、入ってきた人物がはっきりと見えた。
すぐにその人物も俺に気づいたようだった。
「おや。やあ。これはこれはオリバー様。どうして貴方様がこの部屋においでで?」
オリバー? 誰に向かって喋っているんだ、こいつは?
こちらへ近づきながら彼はなおも話しかけてくる。
「ああ、しかし。ちょうどよろしゅうございました、オリバー様。グレイス様がどちらにいらっしゃるかご存じではござりませぬか?」
サミュエルが俺の目の前に立っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あの、憎むべき、むかつく、鼻持ちならない男。
グレイスを連れていったサミュエルのやつが。
いま、俺の目の前に立っている。
「さきほどからグレイス様のお姿が見えなくて探しておりまする。ほんとうに困ったものでございます」
「サミュエル……?」
声が掠れた。
「こ、これはオリバー様。ああ申しわけございません、つい口が滑ってしまいまして、これは失礼をいたしました」
慌てた様子で部屋を出ていこうとしている。サミュエルの背中が扉のほうへと遠のいていく。
どうしようかと俺は迷う。
呼び止めて情報を聞き出すという手がある。いまの俺にはこの状況はさっぱりなのだ。
しかし彼は俺をオリバーだとかいう男だと勘違いしている。オリバーが誰なのかまったく知らない状態で下手に話しかければ、ボロが出てくる可能性もあるだろう。
ここは何もせずにいたほうがいいのだろうか。
――いやそんな余裕はない。
この世界にいる時間は短ければ短いほどいいのだ。長引けばそれだけこの世界に引きずられていく。そんな気がした。
すうと息を吸う。
俺は、サミュエルの背中にむかって口を開いた。
「――待ちたまえ、サミュエル。聞きたいことがある」
妙に凛々しい声に戸惑いつつ、俺は、いかにもそれらしく話しかけてみた。