04 始まり
翌日、堅いフローリングの上で目がさめたとき、グレイスはまだいた。彼女は狭いキッチンでコーヒーを煎れていた。
「なにか作ろうかと思ったが、何もないのだな」
マグカップを二つ手に持って部屋へ運びながら、そんなことを言っている。
昨夜はあのあと、グレイスはベッドで、俺は床で、二人とも眠ってしまったので、あれ以上のことは話していない。
フローリングの床に腰をおろしてテーブルに落ちつく。ふたりでコーヒーを飲みながら、俺は、これまでの経緯をグレイスから詳しく聞いた。
転生したときのことから始まり、サミュエルという側近の反対を押し切って人間の世界へ来たところまで、グレイスがひととおり話してくれた。
ちなみにグレイスは昨日、この部屋の窓を素通りして入ってきたそうだ。俺を驚かそうとベッドへもぐりこんだものの、横になったとたん、疲れと安堵のせいか、瞬時に眠ってしまったのだという。
「うむ。俺に会いに来てくれたのはわかった。だけど、いずれはまた、あっちの世界へ戻るのか」
「そのようなことはない。あたしは戻らぬつもりでここへ来たのだ」
「だけどさ。江里花は――うーん。グレイスは。魔王の妻になる予定だったんだろう?」
俺としては複雑極まりない心境である。
「そうだ。それが嫌でここへ来たのだとさっきから言っておる」
「ですよねえ……」
ここで暮らすことに異存はない。むしろ大歓迎である。しかし気に掛かるのは、あちら側があっさりと諦めてくれるのかということだ。
グレイスはきょとんとした表情で小首を傾げている。
「他の人間がまた転生して来るのではないか? あるいは召喚すればよいのではないか?」
「そんなものなのかなあ」
「いや。その必要すらないのかもしれぬ。いま思い出したのだが、現時点ですでに、あたしの他にも何名か妻候補はいたようだ。だから心配はない」
他にも気になることはあった。魔女である身で人間の世界を生きていくということは、しなくてもいい苦労を抱えこむことにもなるだろう。それは果たしてグレイスにとって良いことなのか、どうなのか。そんなことまで考えてしまう。
些細なことのようだが、グレイスの言葉遣いも結構な問題だろう。
もちろん理由は聞いている。だが、グレイス自身の容貌と相まって、どうにも近づきがたい雰囲気の増す方向になっている。
もっとも、近づきがたいというよりは近づきたくない雰囲気というものなのかもしれないが……。
「その言葉遣いはどうしようもないのか」
「ならぬ。あたしもサミュエルに何度も頼んだが難しいと言われたものだ」
うーむと思わず唸り声が出てしまう。
「さっきからサミュエルの出てくる率高いな。側近ってそんなに近い存在なのか」
「そうだな。あれがいないと何もできないというくらいには近かった。生活を共にしていたといえよう」
おもわず「ひょー」と間抜けな声をあげてしまった。
「そんなに近かった人と離れて、グレイスは辛くないの」
「辛い?」
首を捻っている。
「辛くはないぞ? なにしろあのサミュエルだからな。もちろん悪い人ではないのだよ。しかしだ。とにかく細かいことにうるさい男なのだ。二言目には魔王様魔王様という。毎日毎日そばにぴたっと張り付いてあれやこれやと口出しされる。それがどうにも苦手でのう」
やれやれとでもいうように、グレイスは首を振っている。
「離れてむしろあたしはせいせいしているのだよ」
なんとなくサミュエルの立ち位置が分かった気がしてくる。おそらく彼は彼なりに自分の立場や役割というものに忠実なのだろう。話を聞いていると誠実でさえあったのではないかと思われる。
グレイスを心配していたというのも本心からのことだったのではないだろうか。もっとも彼女に言わせれば「魔王の顔色ばかりを窺ってあたしの気持ちなどちっともわかっておらぬ」ということらしいが。本当のところはどうかわからない。
だからといってグレイスに対し戻れという気持ちにはなれなかった。なぜならいま俺のそばにすわっているのは、外見はグレイスという魔女だが、中身はあの江里花だからだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ともあれ、その日から俺は、グレイスといっしょに暮らすことになった。
俺の生活は一変した。
なにしろグレイスの行動が突飛すぎる。
人間の世界についての知識は当然のことながら、すでに彼女には充分備わっている。だからそこは問題ではない。
ポイントはやはり現在の彼女が魔力を持っているということだろう。
彼女の来た翌日、経緯を聞いたあと、俺たちはまず銀行のATMへ足を運んだ。
今後、俺が大学に行っているあいだ彼女は一人になるのだから、とりあえずの金を持っていないと何もできないだろう。ずっと部屋に籠もって俺を待っているだけというわけにもいかない。
そういうわけで俺たちは、一緒に部屋を出て、七階のエレベーターから一階へと降りていった。
ロビーを通って防風室からエントランスへと進む――のだが。
この日グレイスは、エレベーターを下りると、すいすいと、すべてのガラス戸を素通りして行ってしまった。
「――は?」
防風室の重いガラス戸を押し開けようとしていた俺は、慌てた。エントランスの自動ドア越しに、さっきまで隣りにいたはずのグレイスの背中が見える。ゆっくりと遠ざかっていっている。
「まてまてまて」
ガラス戸を開けて自動ドアの前に立ち、うぃーんと開くのを待った。全速で駆けていく。
「おうい。グレイス」
ふり向いたグレイスが唇を尖らしている。
「遅いぞ。何をしておる」
「いや、いやいや。グレイスが早すぎるんだよ」
きょとんと小首を傾げるグレイス。その可愛さに頬が緩みそうになったが、俺は意識して、厳しい顔をしてみせた。
「あのな。ここは人間の世界だろ。魔力を使えるやつなんていないんだ」
「あっ」
はっとした表情になって、グレイスは両手を頬に当てている。
「まったく失念しておった。すまぬ。今後は気をつけよう」
「わかってると思うけど、ここではガラスを素通りしてはいけないよ。手で開けたり、自動ドアが開くのを待ったり、そういうことをしなくちゃ」
グレイスは俺から目を逸らしている。頭の両側に二つ、団子にした髪が重たげだ。
「不便なものだな、人間の世界というものは」
横を向いてため息までついている。
――え。もしかしてわかってない?
「グレイス……。まじで忘れてたの?」
信じられない思いで俺は訊いた。
「一年前までは人間だったんだろう? ここで暮らしていたんだよね?」
「うむ。完全に忘れておった」
うーむと俺はまたしても唸ってしまう。
――そういうものなのか……?
ちょっと頭を抱えそうになる。と同時に、たしかにこれは江里花だなと改めて頭の中のどこかで確認し始めていた。
「勇人も一年間みっちりと魔力を使う身になれば理解できよう。なんといっても便利なのだ」
「わかった。わかった。だけどさ。気をつけないとやばいよ?」
グレイスの両肩に手を置き、しっかりと視線を合わせ、俺は真剣に言った。今度はグレイスも目を逸らさずにまじめな表情で聞いている。
「そうしないとこの世界に住むことなんてできないだろ? ていうかさ。俺びびったよ。生まれて初めて見たからさ」
実際そうだ。魔力なんて全然、まったく。知らないんだよ俺は。
「ガラスを素通りとかやばすぎます……」
じんわりと不安が湧いてくる。俺は、銀行までの道のりを、江里花と手を繋いで歩いていくことにした。
平日の午後という時間帯のせいだろうか。人通りはまばらだった。
住宅街を歩いているあいだは何事もなかった。
ATMへ向かう通りへ出ると、さらに人影はなくなった。
信号待ちで俺たちは並んで立っている。ポケットからスマートフォンを取り出すために、俺は、江里花と繋いだ手を解いていた。
「長いのう。なかなか青にならぬ」
うん? と思い、隣を見る。グレイスの手が、マイクを握っているみたいにグーの形をして彼女のふっくらとした胸の前にあった。
あっと思ったのと同時だった。
グレイスが消えた。
どこにもいない。
「あれ? グレイス……」
辺りを見回す。
前方の、いまから渡ろうとしていた横断歩道の向こう側。
てくてくてくと歩道をあるいているグレイスを発見する。
「おわー。あんなところに」
信号が青になってから渡っていき、小走りでやっと追いつく。
「グレイスグレイス。だめだって」
ふり向いたグレイスは、またもやきょとんとして、こちらを見ている。
「なにやったかわかってるか」
「あっ」
両手を頬にあてるグレイス。俺は確信する。やはり江里花だ。まちがいない。
生前の江里花がそうだった。大人しそうな見た目でいてじつは気が強く成績は良いのに抜けている。なんかこうぼんやりしているときがあったりしてそういえば忘れ物も多かったしな――。
思い返しながらうむうむと一人頷いてしまう。
幸いなことにと言うべきか、そのとき信号待ちしていたのは俺たち二人だけだった。見渡したところ他に通行人もいない。
だからグレイスのあれを目撃したのも俺だけだ。
さすがにこの日はそれ以上グレイスが魔力を使うことはなかった。
とりあえずその日は。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
午前中に聞いた話によると、グレイスが転生したとき身体的にはすでにかなりの魔力を駆使する能力を備えていたらしい。
それから一年間、あらゆる機会を捉えて魔力を鍛える訓練をさせられたそうだ。そのため、彼女は、無意識に魔力を使ってしまうという域に達している。考えるより先に魔力を使ってしまっているわけだ。
最初のころはもちろん、グレイスもひとつひとつの呪文を唱えていたという。
そのたびごとに意識して集中して唱えなければ何もできなかった。
いまでは、呪文を唱えるとかまた何も考えずにそれができるというよりも、何も考えずにそれをしているという感覚らしい。これは熟練したということで異世界では多くの魔術師がその域にいるとグレイスは言っていた。
しかしここは魔力など存在しない人間の世界だ。
公衆の面前でいきなり姿を消したり現れたりという瞬間移動をされても困る。
何もないところで火を見せたり、枯れた花や蕾を咲かせたり、空中に浮かばせたコップやらペンやら何やらを触れずによそ見したまま動かしたり、そういうことをしていたらまずいだろう。怖いと俺は思った。
種があってそれがマジックで説明のつくことならいいのだ。
だがそうではない。
まさか本物の魔女とは誰も思わないだろう。
変に目立ってしまうと日常生活に支障が出るようになる。
結局のところ対策としては、なるべく外に出ないとか、人の多い場所は避けるとか、できる限り二人で行動するとか、そんなふうなことになってしまうのだった。