01 プロローグ
海岸へと向かう国道にはひんやりとした風がそよいでいる。
白いガードレールの途切れた先にも歩道はつづいていて、俺は、同級生の江里花とならんで歩いていた。
学校からの帰り道。
ふたりの歩くそばを、乗用車やトラックのエンジン音が近づいてきては、排気ガスの匂いと埃っぽい風と共に走り去っていく。
夕方のこの時刻はスピードを出している車が多かった。
目の前には群青色の海が広がっている。
垂直にのびる防波堤を眺めながら、俺は唐突に、この海を見るのもあと数か月なのだと思った。
高校三年生。ふたりの進路はもう決まっている。
「よかったな、内定決まって」
歩調をゆるめて江里花の横顔に話しかける。
薄ピンク色に染まった頬にえくぼが浮かび、江里花の目が俺を見た。はにかんだような表情をしている。
「うん。あんまり実感ないけど」
「いやあ、すげえよ。四月から社会人だもんな。銀行員の江里花って想像もつかないよ」
「ふふ」
首をすくめる江里花。肩で切り揃えられた髪が頬に触れている。
「勇人だって。第一志望だった大学に推薦でしょ。一人暮らしでしょ。いいなあ。でもだいじょうぶなの。ほら食事とかさ。洗濯とか」
「寮に入ることになってるから。心配ないよ。安心しろ」
「そうだね。楽しみでしょ。勇人、中学のときからあの大学目指してたんだもん。そっちこそすごいよ」
「なに言ってんだ」
照れながらついそれを隠そうとぶっきらぼうに答えてしまう。
「がんばったもんね。ゲームもカラオケも漫画も誘惑に負けずにさあ。えらかったと思うわ」
勝手にうんうんと頷いて、どうやら冗談ではなくまじめに言っているようだ。
黒髪の毛先が、うなじのあたりでさらさらと揺れる。
どきんとして江里花から目が離せなくなる。寂しいような切ないような、よくわからない気持ちが込みあげてくる。
――こいつこんなに可愛かったっけ。
どうしてだろう。いつも見ている姿なのに。なぜだろう。
二年半、同じ部活で毎日を共に過ごしてきたというのに、いまさらながらそんなことを思っている。
きゅうに江里花が俺を見上げる。なにか言いたげな表情だ。
「どうした」
問いかけに答えないまま、江里花は、くるんと背中をむけ、たたたたたっと走っていく。
数メートル先の横断歩道で立ち止まって、こちらを見ている。
信号は赤だ。
だから俺は、すぐに追いつけると思い、ゆっくりと歩いていた。
『勇人、あたしね――』
そんな、江里花の声が耳のそばで聞こえたような気がした。
同時に、急ブレーキの音がひびいた。
角を曲がってきた巨大なトラックが制服姿の江里花の向こうに見える。
一気に体中の血が逆流していく。
口をあけて声を出す。出そうとする。だが声が出ない。
『えりか! あぶない! えりか! よけろ!』
鞄を振り捨てる。
駆けだす。ほんの数メートルだ。
駆けて行って、手を伸ばして、腕を。
江里花の腕を取ってこちらへ引き倒せばいい。すばやく抱き寄せてこちら側へ。
俺は駆けながら、精一杯、腕を伸ばす。もうすぐ。すぐに届く。
あっという口をしている江里花。後ろをふり返ろうとしている江里花。江里花。それよりこっちへ走れ。
江里花。こっちへ来い。
全部、一瞬のことだった。
タイヤの軋む音。
轟音。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――その日、江里花は帰らぬ人となった。
俺は、彼女を、救えなかった。
いや。救えたはずだった。
あともう少しだったんだ。
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同級生の真崎江里花が亡くなってから一年が経つ。
あれから俺は大学に進学し親元を離れた。寮には入らず、大学近くのワンルームマンションの一室を借りて住んでいる。
あの日。
搬送先の病院で江里花が治療室に入っているあいだ、俺は、外の通路に立ちつくしていただけだった。
待合室のソファで亡くなったことを告げられたときも、江里花の家族が号泣し取り乱し嘆いているときも、俺は、涙の一粒も零すことはなかった。ただ、突っ立っていただけだ。
江里花の葬儀でも泣かなかった。
事故の日から最初の数か月は、家族に心配をかけないように、機械的に体を動かした。
食べて、寝て、起きて、食べて、また寝る。
何も考えずに、それだけをくり返した。
毎日のように聴いていた好きだった音楽は、耳にうるさく、騒音にしか感じられなかった。
だから、あれ以来、一切、音楽は聴かなくなった。
同じように映画も、テレビのバラエティ番組も、ニュースも、何もかもが、煩わしく、俺は何も見なくなっていた。
遠い地で大学に通うようになってからは、淡々と講義を聴きゼミに出席し、部屋に戻れば次の日の準備をして眠る。
サークルにも入らず、飲み会や遊びの場に誘われてもすべて穏便に断った。
同じ高校から進学した友人が数名いて、最初のころはいろいろと誘われたが、そのたびに断っているうち、彼らから声を掛けられることもなくなった。
目の前で江里花を失った――。
それがすべてだった。
それだけで俺の頭のなかはいっぱいで、他のことは何も入ってこない。