茜
レイプ描写や、ほんのり近親相姦を予感させる描写がありますので…苦手な方はご遠慮下さい。
(くそっ……!どこだ……茜ッ!!)
ほんの数分間の出来事だ。
弟の茜と、服を買いに出掛けた先。一息付こうと、飲み物を買いに茜と離れた、そのわずかな間。
缶ジュース片手に戻った海音が目にしたのは、荷物が無造作に放置されたベンチ。
――確かに、ここは茜に待っておくよう伝えた場所だ。
――確かに、この荷物は茜の物だ。
その光景を目にした時、海音の脳裏に過ったのは、最悪の推測(結末)。
ーーいや、あり得ない。
そんなことは、あり得ない。
最悪な想像を、必死に振り払う。
(大丈夫さ……。きっと、何か買いたいものが見つかって、少し離れただけだ……)
――離れた?あの素直で、言い付けはちゃんと守る茜が、自分から?
(そっ……そうだ、トイレにでも行ってるんだろ……)
――荷物を置いて?財布も、携帯も入ってるんだぞ?
次々と湧き出るプラス思考(ご都合主義)は、後から湧き出るマイナス思考(現実)に飲み込まれ、否定されていく。
最早海音の脳内会議は、楽観派が現実直視派に圧倒的大差で破れ、最悪な結論で議決されようとしていた。
しかし、この結論こそが最も自然だろう。
――そこに、最も在るべきである存在の『茜』が欠けたベンチ。
――何者かに荒らされた痕の様に、無造作に放置された茜の荷物。
これだけヒント(証拠)があれば、小学生であろうと、結論を導くのは赤子の手を捻るより簡単であろう。
――そう。
茜は――、
――連れ去られたのだ。
◆◇◆◇
茜を探すため、がむしゃらになって走り回っていた海音だったが、思いの外、茜を見つけ出すのにさほど時間は掛からなかった。
「これは……!」
元いたベンチからさほど遠くない路地裏の入口に、茜が履いていたスニーカーの片方が落ちていたのだ。
「茜ッ!!」
スニーカーを拾い上げ、その路地裏を除き込む海音。
――しかし、その瞬間、彼の時が止まる。
「はァ……はァ……」
『何か』が、薄暗がりの中で蠢いている。
『ソレ』は、獣の様な荒々しい息遣いで、下卑た笑みを浮かべ、そしてーーおぞましいまでに、猛然と腰を振っていた。
海音は怖じ気づいて固まっていたのではない。寧ろ、その時咄嗟に眼前で行われている『行為』の意味を理解出来ていたのなら、すぐさま行動に移していただろう。
しかし、出来なかった。何故か。
目にした光景が、あまりにも現実からかけ離れたモノだったばかりに、思考が決壊してしまったのだ。
その一瞬の空白は、海音から咄嗟の判断を鈍らせるに充分であり、事態をより手遅れにするものだった。
「くぅ……!クるぞ……出……るッ!!」
――浅ましい獣と化した男が限界を迎えた事を知らせる咆哮と、巨体を震わす大きな痙攣を以て、海音はやっと我に帰ることができた――。
◇◆◇◆
海音は一人自室に籠り、己の行動の愚かさに改めて嫌悪感を抱いていた。
――あの時、茜を置いていかずにいたのなら。
過ぎた事であり、どうにもならない事とはいえ、それだけでは水に流せない様な愚かな選択を、自分はしたのだ。
(最悪だな……俺)
自然と、責める矛先は自分へと向かう。どうしても、自虐的な考えになってしまう。
◆◇◆◇
あの、口にするのもおぞましい『行為』を目撃した後、海音は茜を襲った男を立てなくなるまで殴り続け、倒れて許しを乞う男を無視し、更に暴行を加えた。
我に返ったのは、茜がか細い声で「やめて」と言った時だった。
その頃には男も、殆ど喋れない様な状況だったが、海音には罪悪感など勿論無い。
地べたに這いつくばる男を冷たく見下ろし、とりあえずの判断として警察に通報しようとした海音だったが、そこで思わぬ邪魔が入った。
――茜だ。茜が、警察に通報しようとする海音の手を弱々しくも、必死に掴んできたのだ。
――なんでお前が制止する?
一瞬、海音は茜の行動の意味が解らずに、思わず苛立った。一番の被害者である茜が、何故止める?
しかし、茜の何かを訴えるかのような瞳を見て、ハッとなる。
考えてみれば、当たり前だった。
男とはいえ、茜も年頃だ。暴漢にレイプされたなどと供述することは、恥辱の極地ではないか?
ましてや、警察に通報しようものなら、自然と家族にも事実を赤裸々に語る事になるだろう。
茜の報われない結果が、茜が望む結末。そのジレンマが、海音を激しく揺さぶる。
今や弟を救いたいと思う兄の心は、救える手段が手中に在るにも関わらず、その役目を発揮できないでいた。
茜の必死の制止に、海音が決断を渋らせていると、倒れていた男が便乗するかのように更に許しを乞い始める。
警察は勘弁してください……。という自分勝手で情けない懇願に、海音は思わずカッとしかけたが、これまた茜が宥めに入り不発に終わる。
怒りの不完全燃焼で狂ってしまいそうになるのを、必死に、堪えた――。
◆◇◆◇
そんなことがあって、今に至る。
身も心も疲弊し、ショックの余りかろくに口も聞けない状態の茜を、おぶって帰宅してきた所だ。
今、茜はシャワーを浴びている。
余程、あの行為の名残を消したかったのだろう。家に着くなり茜は、「シャワーを浴びたい」と呟いたのだった。
柔らかなシャワーの音を聞いて海音は、再びやるせない気持ちと自虐の連鎖を味わうべく、陰鬱な思考の海へと沈んでいった――。
◇◆◇◆
「今日は……一緒に寝ていい?」
突然のノックと共に海音の部屋へと入ってきた茜は、開口一番そんな事を言い出した。
「……え?」
一瞬、海音には茜が何故そんな事を言い出すのか分からなかった。意図せず怪訝な声が出てしまう。
「あ……。ご、ごめんなさい……。迷惑……だよね」
しかし、茜の沈んだ声でふと今日の【事件】を思い出し、直ぐに気付く。 ――怖いのだ。 茜は、恐らくまだ【事件】での恐怖が抜けきっていないのだろう。 いや、寧ろあんな事があった直後に一人で眠れ……という方が余程酷だ。
「迷惑なわけ無いって。勿論良いさ」
「ほ、ほんと……? ……ありがとう」
海音の了承を受けた茜は、安心したように微笑んでみせた。 あの【事件】以降では、今日初めて見せる笑み。その弱々しくも可憐な微笑みに、僅かながら喜びの感情が混じっていた事を見付け、海音は安堵する。
「ほら。入りな?」
「あ……。う、うん」
海音が毛布を捲り、自分の傍へと入るよう促すと、茜は素直に海音の傍へと潜り込んだ。
その時何故か茜は顔を赤くしていたが、海音にその理由は分からなかった。
「えへへ……」
「うん? 何笑ってるんだ?」
身体を海音の方へ向けて横になった茜は、思わずといった風に頬を緩ませる。
「だって、こうやっておにいちゃんと一緒に眠るのって……久しぶりだから」
そう言って上目遣いに自分を見る表情の中に、あどけなさと色気の様なものが見えた海音は、少したじろいだ。初めて見る弟の表情に、図らずもドキッとしてしまう。
「そうだな……小学生の時以来か? まあ、今も昔も茜はあんまり変わってないけどな」
「そう……かな? ぼく、そんなに変わらない?」
「うーん……でも、より可愛くはなったかな」
これは本当の事だった。茜は元々幼い時から中性的な顔立ちで、それは成長と共に明確な可愛らしさとして現れてきたのだ。
「ま、またおにいちゃんはそんな事言って……。それは男の子に対する言葉としてどうなの?」
茜は、耳まで赤くなった顔を隠す様に掛け布団を目の下辺りまで被って、抗議する。正直海音には、いつもこの反応を見たくて言っているきらいもあった。海音がほらやっぱり可愛いと苦笑混じりに呟き、茜の頭を撫でるまでが完全にテンプレートと化している。
「んう……。……あの、ね。おにいちゃん」
暫く海音が頭を撫でていると、気持ち良さそうにしながら茜が切り出してきた。
「その……ぎゅっ、ってして欲しい……」
気恥ずかしさを紛らわす為なのか、もじもじとしながら蚊の鳴く様な声で呟く茜。そんな、普段発する事の無いような言葉を口にした茜に海音は少し驚いた。
「ん。良いけど……どうしたんだ? 茜から言うなんて、珍しいじゃないか……って、うお!?」
思わず理由を問おうとした海音を遮る様に、茜が海音の上にのしかかった。
「今日、の……おにいちゃんので、塗り替えて……?」
今にも雫がこぼれ落ちそうな潤んだ瞳に見つめられて、海音は全てを察した。同時に、自分が今茜にすべき事も。
「……怖かったな」
それ以上は何も言わず、そっと茜の背中に腕を回し、自分の方へ抱き寄せる。
「うん……うん……!」
茜は、海音の胸板に顔を埋め、堰を切ったように声を押し殺して泣いた。嗚咽で形にならないぐちゃぐちゃなありがとうを何度も繰り返しながら、海音を強く抱き締める。
「怖かった……! 本当に怖かったよお……!」
我慢していたのであろう激情を全て吐き出すまで、海音は茜の背中を優しく撫で続けた。
◆◇◆◇
鼻腔をくすぐる、石鹸の甘い香り。そして、そこへ微かに混じる汗の匂い。 組み敷いた小さな体からは、ほんの少しの力加減で壊れてしまう飴細工のような儚さが伝わってくる。
「おにいちゃん……。ぼく……、今すっごく幸せ……」
新雪にも似た白い肌を朱に染め、柔らかくはにかんだ弟を、海音は強く抱き締めた。
――二度と離さないように、強く。
なんとなく、書いてみました。結構なお気に入り。