極私的仏教考察その1、 ( 初歩的仏教哲学入門 )
㊟あくまでも私の個人的な、私的な考察であり、この考察が、科学的・学術的に、必ずしも正しいという保証はできかねます。念のため申し添えておきます。
納得するか?納得しないか?
信じるか?信じないか?
それはあなた次第です。
もちろん仏教哲学とは、いわゆる合理的な、、科学的な整合性や学問的な真実を追求するような種類の「哲学」ではない。
仏教の、、というか、、大乗仏教の仏教哲学とは、大乗の教えの擁護であり、弁護であるという大前提に立っているのであることは当然であろう。
そういう意味においては仏教哲学とは、即、神秘主義である。
唯識学も、中論による「空の哲学」もすべてそういう意味では
科学的な合理性とは隔絶した、、神秘主義であることおwあらかじめ序言しておく次第である。
同様に小乗仏教の「アビダルマ」哲学も、まさに神秘主義であり、そこで論じらっれていおるのは科学的な真理の追求なんかではないのであることも、ご理解されたい。
あの精密無比な煩瑣哲学である、アビダルマ哲学にしてみてもその目指すところは
科学的真理ではなくして、あくまでも「サトリ」への階梯であることから見てもそれは明らかであろう。
はじめに、、そもそも仏教は哲学ではないです。
仏教は宗教であり、信仰と修法がすべてです。
ですが?
キリスト教にスコラ哲学があり、神学があるというように
仏教にも哲学的に究明して仏教を思想的に裏付けようとした学者?もいました。
それを称して古くは「論蔵」、と言い
今風に言えば「仏教哲学」です。
いわゆるお経、仏教経典は「経蔵」と言います。
そして教団の信者の生活規律等々を定めたのが「律蔵」ですね。
仏教はこの三部から成り立っているのです。
まあとはいえ在家の一般信者にとっては
お経、、だけで十分でしょうがね。
そのお経だってこれを読んで、理解し、かつ、信じ、実践するのは至難の業でしょうから。
お経を研究して仏教の存立基盤を論じたのが
論部です、
仏教哲学ですね。
古くはインドで、ヴェーダヤ、ウパニシャッドから論拠を得て
仏教に敷衍して論じたのが始まりと思われる。
紀元前後のインド仏教ではもっぱら「存在論」が究明の対象となっていた。
仏教ではその当時、存在とはすべて縁起によって生起して
その実態は無我であるとされた。
ただし存在自体は存在するのであり
存在の詳細な分析と究明が重要視されたのだ。
その学派を「説一切有部」という。
この学派の集大成が「アビダルマ・マハー・ビバーシャ・スートラ」である。
漢訳はアビダルマダイビバシャロン」阿毘達磨大毘婆沙論
これは相当大部なそれまでのアビダルマ論書の注釈本である。
難解なために後にバスバンヅが、これの解説書をあらわした、
それが「阿毘達磨倶舎論」である。
さてこの説一切有部から出発して紀元1世紀には
存在分析から存在すべてを空ととらえる学説が現れた、それが竜樹である。
竜樹は
存在は縁起で生起するのであり存在は無自性がその本質。
無自性は空である唱えた。
これが中観派である。
存在とはすべてが関係性(縁起)のパズルのようなものであり、
その本質は空である。
俗な例えでいえば、、玉ねぎを剥いて,剥いて、行っても
最後にはむき終わっても何も残らないようなものである。
存在とはそのようなもの。
無実体。無自性、すなわち空である。
しかしその後4世紀になると、空論だけでは収まりきらない、
存在している「我」をどう論拠するかという疑問が現れてきて、
存在は我が知覚(認識)している限りにおいて存在する、という
論を展開するようになった。
この学派を「唯識派」という。
存在は、諸法無我であり、無自性であるが
ただし我が認識している限りにおいて存在している。
そこで彼らはこの人間の知覚という点を深く追求することになる。
この流派は意識の底辺に「末那識「がありさらにその基底には
「阿頼耶識」という、、つまり潜在意識があると世界で初めて唱えた、
まあいわば心理学の開祖?でしょうね。
そこで瞑想が重視され、ヨガの行法が実践されてゆくことになる。
この一派は、「瑜伽行派」として発展してゆく。
この後インドでは仏教は衰滅してしまうので
これらの論蔵もここまででインドでは終る。
これらは中国や東南アジアに伝播されて
上座部仏教と大乗仏教として2大派閥で発展してゆくのである。
禅宗系は瑜伽行派が元祖でありそこに中国的な老荘思想や仙道などが加味されて
コトバを超越する悟りの世界を開陳して見せたということでしょう。
密教系は唯識系が元祖であろう。
そこにインド土俗の「タントラ教」が加味されて
性力のサトリへの応用という、ある種危険な?世界へ飛翔してしまったというのが
左道密教ですね、
これは性神信仰や房中術化して堕落し表舞台から消え去ってゆくのです。
その残滓が、、日本の「立川流」でしょう。
健全派?の密教は真言密教と天台密教として
日本に伝わり、
加持祈祷や、真言と、印行、阿字観などで
オカルト的な神秘主義をより一層深めてゆくのです。
でも
すべては繰り返すと申しますね?
ブッダの禁欲的な清貧主義から
やがて在家の現実肯定主義へと大きく舵を切った仏教も
大乗運動の行き着いた先は
タントラやシャクティとの融合というか
それらに飲み込まれて埋没して仏教を消え去るのですね。
そして?再び仏教は原点に回帰して
ブッダの清貧と禁欲を指向して再出発するのでしょうか?
でもそんな厳格な出家主義が大方のの支持を得られるはずもなく
仏教は現実主義路線へと舵を切らざるを得ないのでしょうね。
そうしてあまりにも現実に融和しすぎて?
堕落し、世俗化しすぎるのでしょうね?
まあ
歴史は繰り返すって
言う真理なんでしょうね。
参考文献
宇井白寿 印度哲学史
中村元 インド思想史
仏教の思想(角川書店12巻シリーズ)
続く
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