遺される恋
これは碧瑠璃色の海の世界。海流の穏やかな海の底。自由に、気ままに生きる人魚たち。しかし特殊なものは少なからずいる。たとえば魔女なんかが、海溝の中に隠れていたりする。何も知らされない男と、愛する人の子を守る女。これは、そんな物語……。
リサとイワンは実に仲のいい夫婦だった。この二人の出会いは偶然の積み重ねだった。リサは元々この村の住民ではない。意識を失って、海流に乗って流されていたところを狩りに出ていた人魚に拾われた。この時の人魚は、隣の村の住民だった。海蛇の毒にやられていたリサは、拾われてから三日後に目を覚ました。美しい瞳の人魚だった。せめてもの感謝に、リサは貝の養殖を手伝い始めた。約一年が過ぎた頃、一束の貝がその村の養殖場から零れ落ちた。それを追っていったリサは、その貝の束を拾ったイワンと出合った。たった一週間の恋愛で電撃結婚。そして一年たった今でも甘々の恋人だった。人魚の住む村では三年ごとに狩りに出かける。貝だけでは食料として足りないのだ。村の男手は全員これに参加する。そして狩りはちょうど、今年だった。
「おれ、やっぱり残ろうか?」
出発前夜、イワンが気遣わしげにリサを見つめた。最近のリサはいつも体調が悪い。唇の白くなってきていた。
「大丈夫ですよ。最近は狩りの前準備で忙しかったですから。休めばすぐに治りますよ。心配しないで行って来て下さい」
リサはいつもと変わらない笑顔で言った。
村から出る直前、イワンは名残惜しそうにリサの頬に手を当てた。
「待ってろ。すぐにデカイの仕留めて帰ってくるから」
リサもその手に軽く頭を傾ける。二人の間で、時間が一瞬止まった。それでもその手は結局離れていく。頬に残った温もりを大切そうに手で押さえながら、リサは遠ざかるイワンの尾鰭を見送った。その目には、申し訳なさが見え隠れしている。リサには、隠し事があったのだ。
村のほとんどが寝静まった夜に、リサは一人村から泳ぎ出した。月の明りが射し込む海は紺色で、静かで、恐ろしい。光の届かない海溝には、何が潜んでいるか分からない。夜になれば、人魚は誰も近づこうとはしないところへ、リサは今向かっていた。海溝の奥。手探りで前に泳ぐ。その先に、ボンヤリとした光がある。暗い海底を照らす唯一のもの、光石だ。その珍しい光石をたくさんちりばめた洞窟が、海溝の壁に空いている。
「久しいねぇ~。三年になるかねぇ。リサ」
妖艶な女が絨毯の上に座って、その尾鰭で海水を波立たせている。
「はい、三年近くになります。姉さん」
リサはその人魚の前に、尾を少し折るようにして座った。
「今まで何してたんだね?こっちにも戻ってこないで」
「海蛇に噛まれたところを助けていただいて、その恩返しを」
「それだけじゃ無さそうだけどねぇ」
リサが姉と呼んだ人魚は、スッと目を細めてリサのお腹辺りを睨んだ。リサの頬がほんのりピンクに染まる。俯いた。
「誰の子だ?」
「夫の、子です」
姉の厳しい声に、リサが少し震えた声で答えた。
「どういうことか分かってるの?あんたの身体は!」
リサが頭を挙げて姉を見た。決意が満ちている。姉にはそれ以上言えなかった。リサは分かっている。分かった上で、危険を冒そうとしている。人魚の魔女として生まれてしまった以上、子を生むことにはとてつもない危険が付きまとう。妊娠中に命を落とすことがほとんどだ。
「リサ、どうしても産むのね」
「はい。どうせ、私はもう長くありません」
リサは微笑んだ。悲しそうな微笑だった。リサはほかの魔女とさえも違う。その命は脆く、人魚の寿命の半分も生きることが出来ない。
「姉さん、私、あの人に何かを残してあげたいんです。私がいなくなっても、あの人が生きていけるように。この子は私とあの人の続き。ちょうどいいと思いませんか?」
リサの言葉に、姉はもう言い返す言葉がなかった。
「分かった。協力する」
そう言う以外、なかった。
リサが姉を伴って村に帰って来た。身体の調子が悪いと言って、家に閉じこもった。人魚の妊娠は三ヶ月。イワンが戻る前に、決着がつく。リサの身体は日に日に弱くなっていた。一月たつ頃には、ベッドにいる時間の方が多くなっていた。
「大丈夫?」
姉が訊いた。
「はい。でも、妊娠ってすごいですね。まるで自分の命がお腹の子に吸い取られてるみたいです」
リサは愛おしそうにお腹を擦りながら言った。仕方ない子ねぇ、と言って姉は笑った。それでも心の中まで笑ってはいなかった。血が繋がっていないとはいえ、幼い頃から一緒にいた妹だ。魔女というだけで生まれてすぐに海溝に捨てられる。リサがその特殊な身体で今まで生きてこられたのは、言うまでもなく姉のおかげなのだ。
妊娠二ヶ月。リサの顔色には血の気がまったく見当たらなくなった。その頃から、リサは手紙を書くようになった。一行ずつ、身体が動く時に、具合がまだ良いときに書き連ねていった。
「子のこの顔、見られるのかしら?」
リサがよく独り言を言うようになった。姉が調合する薬の量も多くなっている。魔女の血で調合する特殊な薬。いわゆる、延命薬だ。これを飲み始めたら、もう生きる可能性はほぼない。
妊娠から二月半。リサの心音はかなり弱くなっていた。もはや姉にもなすすべはなかった。日が落ちて、夜になった。リサの容体はもう朝まで持ちそうにない状態だった。
「姉さん、私、このまま死ねない。この子は、絶対に、生みます」
途切れ途切れの息の中で、リサは弱々しく言った。もう閉じている方が長くなった目蓋を持ち上げて、謝るように姉を見つめた。姉の目から涙が溢れた。
「本当に、いいのね」
リサが頷いた。命が脆いリサは、他の魔女にはできないことができる。その命をわざと砕いて、他の人魚に分けることができる。姉も一度はそれに救われた。おかげでリサの命はさらに縮んでしまったが。
「あの、手紙、イワンに。お願い」
最後にそれだけ言って、リサは目を閉じた。四肢から体幹へ、ゆっくりと力が抜けていく。呼吸は細く、短くなっていく。身体中から光が現れて、次第にお腹の方に移動していく。その光が消えると、今度も四肢からリサの身体が崩れていった。崩れた身体は水に溶けて、産声を上げる赤ん坊だけが残された。姉は嗚咽を精一杯我慢しながらその子を抱き上げた。遥か上の海面に、朱く染まる月が映っていた。
子供が生まれて二週間後、狩りに出かけていた。男共が帰ってきた。大きな獲物を担いで、迎えに来た家族と喜びを分かち合った。そので迎えの中に、リサがいないのをイワンはすぐに気づいた。周りに訊けば、狩が始まってから一度も家から出てきていないと言う。イワンは獲物を仲間に手渡すと、飛んで家に帰った。子供を抱いた姉がそこにいた。
「!誰だ!!」
「リサの姉よ。これはあなたの娘」
三ヶ月もあれば確かに娘が生まれても可笑しくない。でも
「リサに姉がいるなんて、聞いたことない」
「ないだろうねぇ。私は魔女なんだから」
イワンは言葉を失った。リサに魔女の姉がいたなんて。
「リサも魔女よ」
姉は子供をそっとベッドの上に下ろすと、リサの手紙をイワンに手渡した。
「これで私の役目は終わり」
姉は屈んで子供にキスすると、裏口から出て行った。イワンはしばらく突っ立ったまま手紙と子供を見比べていたが、やがてゆっくりと手紙の封を切った。
『おかえりなさい、イワン。私、やっぱり死んでしまいましたか。それでも、ちゃんとあなたとの子供を遺すことが出来ました。この子は私とあなたの命の続きです。愛してあげてくださいね。最後に、あなたを愛したまま死ぬことが出来て、私は幸せです。さようなら。リサ』
イワンはその場に泣き崩れた。
リサが子供を残して消えてから、三年がたった。サラと名づけられた娘はすくすくと育ち、もう一人で貝を開いて食べることができる。後数年もすれば貝の養殖の手伝いもできるようになるだろう。この日も、イワンが狩から帰る日だった。今回は運が良くて、一月のうちに獲物が手に入った。パパ~と笑いながら泳いでくるサラを抱きとめた。可愛らしくイワンの頬にキスをしてくる。幸せそうに親子は家に帰った。食事の後、イワンは昼寝する娘の顔を見つめた。
「リサ。娘がどんどん君に似ていくよ。こうして寝ていると、君を見ているような気になるよ」
イワンの目から溢れた涙が、サラの頬に落下した。