約束の恋
これは商業の発達した世界。その商品は日用品から各種サービス、さらには人間など多岐に渡っている。双方の合意の下に結ばれる契約が何よりも大きい世界。その中で最後の恋を望む男と、自分を売り渡す女。これは、そんな物語……。
屋敷に来て二週間。セーラはまだ迷子になることがある。屋敷をここまで大きくする必要がいったいどこにあったと言うのか。やっぱり金持ちの考えることは分からない。二週間前。セーラはある男と一枚の契約を結んだ。恋人募集と書かれたその広告には、多くの人が群がっていた。三ヶ月限定の彼女を募集すると言うその文面には、あまりにも高額な報酬が添えられていた。セーラはその広告から目が離せなくなった。嘘かもしれない。でも、本当なら、弟を助けることができる。あれだけのお金があれば、国で一番いい医者を呼ぶことができる。セーラは賭けてみることにした。
リチャードという名の男は少し顔色が悪そうで、クールな冷たい人に見えた。男は一言も話さなかった。リチャードの横で六十台手前の男が一人、契約について説明してくれた。彼はリチャードの執事のジャンだと名乗った。セーラは契約書に署名捺印して報酬の半分を前金として受け取った。次の日には屋敷に迎え入れられたが、リチャードと顔を合わせたのはそれからさらに三日後のことだった。
「セーラ、だったか」
リチャードはノックもせずにセーラの部屋に入ると、遠慮もなくそのベッドの上に腰を下ろした。右手でネクタイを緩めながら、セーラを上から下まで眺めた。
「やっぱ馬子にも衣装だな。見違えたよ。こっちに来い」
そう言ってニヤリと笑った。セーラは背中の方がゾクリとするのを感じた。相変わらず顔色が悪そうだが、そうやって笑うリチャードは魅力的だった。セーラが返事も出来ずにただ立っていると、リチャードはスッと立ち上がってセーラの手を引いた。そのままベッドの上に押し倒す。セーラの上に覆い被さって、その服のボタンに手をかけた。
「いやっ」
咄嗟に反応したセーラは、リチャードの手を押しのけようとした。
「おい、俺の恋人だろ」
セーラの手を捕まえたリチャードは、その耳元で囁いた。セーラがひゃあっと、小さく不思議な悲鳴を上げる。再びその服に手をかけると、セーラはギュッと目を瞑って顔を逸らした。身体が小刻みに震えている。リチャードはサッと身体を起こした。
「はぁ、そんなに恐がるなよ。どうしても嫌なら何もしないって。そんな趣味はないからな」
髪をクシャッと掻いて、斜めからセーラを見下ろす。怯えるセーラの目から、小さな水滴が落ちてきた。
「お、おい!泣くなって。ああ、もう。俺が悪かったから。泣くなよ」
あたふたするリチャードが可笑しくて、セーラは思わず笑みをこぼした。
「……なんだよ。笑うなよ」
入って来たときとは極端に異なる、弱ったような声だ。拗ねたような目をチラッとセーラに向けて、とぼとぼと部屋から出て行った。それがあまりにも印象的で、セーラはしばらくの間思い出し笑いに苦しむこととなった。
最初の印象と違った。少し強引な、子供っぽい人だった。セーラはもっとリチャードのことを知りたくなった。迷子になりながらも屋敷中を歩き回った。リチャードのアルバムを見つけた。子供の頃のリチャードは、もっと素直そうな少年だった。図書室という名の図書館にも入った。誰もいない机には、リチャードが広げた資料がそのまま置かれていた。お金が足りなくて買えなかった本もあった。もともと本の虫だったセーラは、隣の机でそれを読んだ。いつの間にか眠ってしまったようで、起きたときには肩に柔らかな毛布が一枚掛けられていた。誰が掛けてくれたのかメイドに訊いた。返ってきた答えは、リチャードだった。セーラは笑顔を抑えることが出来なかった。リチャードの仕事部屋も見つけた。ドアの隙間から覗く真剣な横顔が、胸を打った。
「入れよ」
書いてた書類から顔を挙げずにリチャードが言った。気づかれているとは思わなかったセーラは、飛び上がって驚いた。
「ごめんなさい。気が散りました?」
「いや、それほどでもない。座れ」
セーラは仕事机の前のソファーに腰を下ろした。誰も口を開かない。ペンが紙の上を走る音だけが部屋にこだまする。セーラはじっとリチャードを眺めていた。一枚書き終わったところで、リチャードはぐっと背伸びして身体をほぐした。
「寂しくなったのか?」
からかうような口調だった。セーラは顔が赤くなっていくのを感じた。
「明日は休みだ。付き合え」
リチャードは上からそう命令すると、返事も訊かずに出て行った。セーラは顔の熱が引くのを待って、そそくさと自分の部屋に戻った。
セーラがリチャードと初めて出かけたのは、屋敷に来て一ヵ月後のことだった。その間に、セーラの気持ちは大分変化していた。初めの頃はお金を手に入れるためには仕方がないと思っていた。今は、もっとリチャードのことを知りたいと思っていた。リチャードがセーラを連れてやって来たのは、プラネタリウムだった。セーラも昔行ったことがある。ただ、今回は貸切だ。ドームに映る美しい星空。その星たちの上を線が走って星座を作り出した。ゆったりした解説の声が心地よかった。一時間の投影の最後に、一つの星が拡大された。
「小惑星セーラだ。おまえと同じ名前だからな。誕生日に、見せたかった」
「!!何で私の誕生日を知ってるんですか?」
「契約書に書いただろ」
「あ」
「……おめでとう」
リチャードは少し恥ずかしそうに目を逸らして言った。セーラの心の中で、温かな花がたくさん咲いた。リチャードはそっとセーラの手をつかんだ。プラネタリウムを出ると、ちょうど昼時だった。リチャードはセーラを連れてレストランに入った。予約済みだった。料理も、その場で頼むことなく出てきた。全部、セーラの好物だった。
「わぁ!ありがとうございます」
セーラが輝かしい笑顔をリチャードに向けた。
屋敷に来てから二月が過ぎた。二人の心は大分近づいていた。暇な時は、一緒に過ごす事も多くなった。セーラは、自分の気持ちに気づき始めていた。
「三ヶ月限定の恋かぁ。どうしよう、本気で好きになっちゃった」
自室のベッドの上に仰向けになって、セーラはため息をついた。三ヶ月が過ぎたら、どうしよう。その悩みに苛まれながら、時は一日、一日と過ぎていった。
三ヶ月は、長いようで、とても短い時間だった。不安な気持ちを必死で抑えながら、セーラは朝食を摂りに食堂に向かった。珍しく、リチャードとジャンも同じ時間に食堂にいた。
「三ヶ月だ。夜までに出て行け。これが残りの報酬だ」
セーラが席につくなり、リチャードはそう切り出した。ジャンが報酬の入った封筒をセーラに差し出す。セーラは中々それを受け取れずにいた。
「まさか本気になったんじゃないだろうな。これは俺の練習だ。おまえと恋人になるつもりなんてない」
リチャードは冷たく言い放った。
「で、でも――」
「気まぐれの遊びだ。いいからさっさと受け取れ」
カチャリと音を立ててフォークを皿に置いたリチャードは、セーラに目もくれずに出て行った。セーラの目から、涙が零れ落ちた。
「もう、坊ちゃんのことはお忘れください。さあ、これを」
ジャンは優しくその手を取ると、封筒を握らせた。一礼して、ジャンも出て行った。まとめる荷物はそれほど多くなかった。持ってきた服と、下着それ以外は全部置いていった。恋人でないのなら、リチャードの用意した服を持ち去る権利なんてない。セーラは赤く腫れた目を冷たい指先で冷やした。もう、ここは私の部屋じゃない。小さな荷物を胸に抱いて、セーラは屋敷を後にした。
屋敷を立ち去るセーラの後ろ姿を、リチャードとジャンは二階の部屋から見下ろしていた。見送るなとメイドらには命じてある。それでもあちこちの廊下の窓から、彼女たちはセーラを見送っていた。
「本当によろしいのですか?セーラ様なら、坊ちゃんの病を知っても見捨てはしないと思いますが」
ジャンが心配そうにリチャードを見つめて言った。
「ジャン、俺が恐いのはそこじゃない」
「セーラ様はお金目当てで坊ちゃんと一緒になるような方でもございません」
「知ってるさ。出て行った後のあいつの部屋を見たろ。俺があげた物は服もアクセサリーも、何一つ持って行ってない」
もうセーラの後ろ姿は見えなかったが、リチャードは窓から目を離そうとはしなかった。
「でしたら――」
「俺が死んだら、あいつはどうなる?」
リチャードがやっとジャンの方を向いた。悲しそうな微笑を浮かべて、目はいつもより潤っている。ジャンはリチャードが不憫で、返す言葉が見つからなかった。
「セーラは優しい。俺の親戚どもを押さえつけるだけの力はない。だからな、ジャン。セーラは何も知らないほうがっ!!ゴホッ!ゴホッ!!」
リチャードは思いっきり咳き込んだ。口元を押さえる指の隙間から、紅い血が漏れ出る。ジャンが急いでその手にハンカチを当てた。咳が落ち着くのを待って、薬を出して飲ませた。
「ハァ、ハァ。セーラは、今は辛いかもしれない。俺を、恨むかもしれない。ウッ、でも、いつかは、俺を忘れる。幸せに、なれる」
荒い息で、途切れ途切れになりながら、リチャードは続けた。ジャンの袖をきつく掴んで、苦しいのを我慢した。その苦しみが、身体なのか、心なのか、ジャンにはしばらく判断できなかった。
セーラが屋敷を出てから数ヵ月後の夜。リチャードは自室で、ジャンに見守られて息を引き取った。窓から射し込む月光は、ほのかに朱く染まっている。朱い月明りは、ふんわりと、リチャードの布団の上に広がったいた。
「セーラ、幸せになれ。好きだ」
亡くなる最後の一瞬まで、リチャードはそう囁いていた。遺産の配分が決まるまでの二ヶ月、リチャードの屋敷は数十もの親戚で騒がしくなった。全てが終わった後、ジャンは屋敷を出た。セーラの家の近くに小さな一軒家を借りて住んだ。リチャードの最後の願いはセーラの幸せだった。だからジャンは、リチャードに代わってそれを見守っている。