偽りの恋
これ科学が発達した世界。その世界には王政が打ち倒され、民主主義が重んじられる国がある。貧富の差が広がり、貧しい人はやがて闇の商売に手を染める。愛を知らない詐欺師の女と、彼女に愛を捧げる男。これは、そんな物語……。
尋絵は実に美しい女である。学問にも芸術にも、多大なる才を持っていた。ただし、尋絵は貧しかった。幼い尋絵は貧しい故に、芸術を諦めた。貧しい故に学業を中断した。貧しい故に親を亡くした。だから、成長した尋絵は社会を怨んだ。国を怨んだ。人々を恨んだ。尋絵は、進んで闇に染まった。
優斗は控えめで優しい青年である。裕福な家庭で育ったわりには純粋で、傲慢の欠片も無かった。優斗の親は科学研究をしている。その研究を継ぐことは、彼の少年時代からの夢であった。優斗は芸術を愛し、学問にも熱心に取り組む青年であった。才は……、それほどでもなかったが。
一見何の接点もない二人であったが、国立博物館での絵画展が二人を出会わせた。一枚の絵が、同時に二人を惹き付けた。優しげな女が、ゆったりと窓辺に寄りかかって外を眺めている。尋絵は羨ましく思った。自分には、こんな余裕はない。優斗は美しく思った。これこそが、理想の女性だ。尋絵は物憂げにため息を吐いた。ため息でさえも、心動かす響がある。ため息につられて尋絵を見た優斗は、恋に落ちた。一目惚れである。初恋をした青年は、無意識のまま尋絵を見つめた。その視線に、尋絵はよく慣れている。なんでもないように振り返って、偶然優斗と目が合ったかのように見せかけた。優斗は真っ赤になった。尋絵は淑やかに微笑み掛けた。優斗はさらに耳まで赤くなった。
「大丈夫ですか?」
鈴が鳴る様な声で、尋絵は言った。優斗は口ごもった。
「あ、あの。う、美しいなぁと。あ、あ、あ、あの絵!……です」
尋絵は軽く口を手で隠しながら小さく笑った。
「そうですね」
それから二人は、しばらくその絵について語り合った。尋絵の知識は優斗に及ばない。だがその素晴らしい感受性は、優斗をさらにのめりこませた。
出会ってから一時間。優斗は尋絵を食事に誘った。尋絵は自分の身の上を語った。年老いた養父母に拾われたと、嘘をついた。
「その養父母も亡くなって、今は一人です」
わざと目に涙を溜めて、尋絵は俯いた。その手を、優斗は力強く握った。大丈夫だと、笑いかけた。出会ってから一日足らず。優斗は尋絵に告白をした。
二人は共通の話題がたくさんあった。優斗の家で芸術の知識を深めた尋絵は、優斗と一緒に油絵を描きに出かけるようになった。尋絵の絵は寒色が多かったが、人の心を引き込む何かがあった。書斎にある科学の本を見ては、優斗の研究に思い付きを話した。その考えはまだまだ稚拙ではあったが、指摘は的確なものだった。優斗の尋絵への気持ちはますます深くなった。優斗は本気で尋絵を愛した。尋絵の作戦は全て成功していたが、優斗はなかなか金を使おうとはしなかった。風邪と言えば部屋まで来ておかゆを作る。嫉妬だと言えば真っ赤になりながらしどろもどろに弁明する。お金を使わないのは、別に優斗がケチであったからではない。その証拠に、誕生日や記念日にはプレゼントを惜しむことはなかった。ただ、そんな時でもサプライズを忘れなかった。優斗は物よりも、自分の心を尋絵に与えたかった。
尋絵は最初、優斗を他の裕福な男と同じだろうと思っていた。さっさと結婚話を持ち出して、財産を巻き上げてしまおうと思っていた。理由だって考えてある。科学研究の投資に失敗したと言えば、まず疑われることはない。しかし何時しか、尋絵はそんなことを考えなくなった。高価なお見舞い品と機嫌取りのブランドものしか知らない尋絵にとって、お金で解決しようとしないその姿は新鮮で、微笑ましかった。尋絵は優斗と一緒にいるのが楽しくなった。
「ねぇ、優斗。何で私が好きなの?」
そう優斗に訊いてみた。美しいから、そう返ってくるものだと思っていた。
「優しいし、優秀だし。あと、胸がドキドキするから、かな」
優斗は恥ずかしそうに鼻頭を掻きながら答えた。誠実な言葉は、直接尋絵の心に突き刺さった。美しいといわれなかったことがうれしくて、尋絵はギュッと目を瞑ってこぼれようとする涙を堪えた。
「尋絵?どうしたの」
優斗が心配そうにその肩を抱き寄せようとする。
「ごめんなさい」
その腕から逃げるようにして、尋絵は優斗の家から出て行った。
その気持ちを尋絵は知らなかった。優斗を見つめる時の高鳴る胸も、嘘を吐く時に苦しむ胸も、分からなかった。息をするように吐くことの出来た嘘が、なかなか出てこない時があった。思わず、本当のことを話してしまいそうになることがあった。何でそうなるのか、分からなかった。嘘を吐く自分が汚らわしく感じられた。尋絵は暗くした部屋に閉じ篭もった。その何も見えない闇の中で、尋絵は自分に問いかけた。そうしてやっと、一つの答えに気がついた。もしかしたら、恋をしているのかもしれない。
その気持ちに気づいた尋絵は、長く深く息を吐いた。これが恋なんだ。自分の気持ちを確認できた尋絵は、少しだけ気が楽になった。夜。尋絵の部屋のドアを遠慮がちに叩く音がした。心配そうな顔をした優斗が、オドオドしながら立っていた。
「あの、さ。ぼく、なんか怒らせた?」
「ううん。優斗は何もしてない。私の、自分のせいなの。ねぇ、聞いて」
尋絵は優斗を部屋に招き入れた。
「あのね、優斗。やっぱり、私の身の上では、優斗と釣り合わないよ。だから――」
「だから何!君の身の上なんてぼくにはどうでもいい。ぼくは優しい顔で絵を描く尋絵が好きなんだ。目を輝かせて研究について討論する尋絵が好きなんだ。それだけで、十分なんだ」
優斗はギュッと尋絵を抱きしめた。尋絵は幸せを知った。幸せに溺れて、身を引くことが出来なくなった。貪欲に、もっとたくさんの幸せを欲した。尋絵は自分の部屋を引き払って優斗の家に引っ越した。戦利品たちはまとめて倉庫に預けた。優斗の両親は長期間国外にいる。二人は仲睦まじく、一年を過ごした。その間に尋絵を助手に得た優斗の研究は、今までの倍の速度で進展した。優斗の名前が、学会に良く出るようになった。優斗が学会でいないとき、尋絵は自分で買い物に出かけた。
その日も、尋絵は買い物に出ていた。品定めをする店の向かいで、刑事が二人、店主に話しかけている。
「こんな女、見ませんでしたか?」
そう言って一枚の写真を差し出す。人の記憶から作られた偽写真。
「う~ん。見たことないな」
「本当か?隠したりしたら、おまえも逮捕ものだぞ」
「本当ですよ。こんなに美しい女、見たら忘れないよ」
刑事は残念そうに次の店へ行った。
尋絵は呼吸を調整して緊張する身体ほぐした。なんともないように振舞って、笑顔で店に挨拶して家に戻った。優斗は優しい。事実を知ったら、たとえもう私を愛さないとしても、きっと私を逃がそうとする。「隠したりしたら、おまえも逮捕ものだぞ」刑事の言葉が耳に刺さる。優斗に迷惑がかかるのは、絶対に、いやだ。
翌日、尋絵は優斗に黙って家を出て行った。まだ日が昇る前で、西の方にはまだ紅い月が架かっていた。何度も振り返って、尋絵は名残惜しそうに出て行った。日の出頃、起き出した優斗は尋絵がいないことに気づいた。大慌てで家中を探し回って、出てきたのは一束の手紙だった。最初に一枚に、もう会えないと、ただそれだけ書かれていた。残りは優斗の研究に関するアイディアだった。優斗は悲痛に暮れた。尋絵が出て行った理由が分からなかった。自分に非があったのか。ならなぜそれを訂正させるチャンスをくれないのか。優斗は自分を責めた。優斗は尋絵を責めた。謎が解けたのは、同じ日の夕刻だった。何をするでもなく街を彷徨っていた優斗の目に、一つのニュースが飛び込んできた。『卑劣な結婚詐欺師、ついに逮捕』そのタイトルの下で、顔を晒されていたのは紛れもなく、尋絵であった。
尋絵は包みなく自分の罪を打ち明けた。倉庫の鍵を提出して、証拠も渡した。裁判は滞りなく進む。七人の陪審員は尋絵の罪状の多さに驚き、次いでその淑やかな振る舞いに驚いた。とてもそんなことをするようには見えないからだ。結果は、全員一致で終身刑となった。監獄に移された尋絵は、毎日を優斗との思い出を繰り返すことで過ごした。そうしている間は他の囚人の嫌がらせですら気にならないほどに、幸せだった。
尋絵が逮捕されたニュースを見た優斗は、自分の目を疑った。あの尋絵が、詐欺なんてするはずがない。でも、すべては本当だと、すぐに証明された。自供も、証拠もある。優斗は、それでも尋絵を愛することができるのか、自分に問いかけた。答えはもちろん、できる、であった。優斗は監獄に出かけた。監獄の尋絵は大分髪が短くなっていたが、それでも十分に美しかった。
「何をしに来たんです?」
「ぼくは、ぼくはまだ尋絵を愛してる」
優斗が言った。
「もう忘れて。私はあなたに嘘を吐き続けていたの。私は詐欺師なのよ」
尋絵辛いのを堪えて、冷たく突き放すように言った。
「知ってる。でも、全部が嘘だとは思わない。絵を書くときも、研究の話をする時も、尋絵は本当の尋絵だった」
「いいえ、嘘よ。全部嘘なの。だからもう私のことは忘れて」
尋絵の言葉は叫びに近くなっていた。看守が鋭い目で尋絵を睨む。
「忘れない。ぼくはこの生涯で、ただ一人、尋絵しか愛さない」
そんな尋絵を真直ぐ見つめて、優斗ははっきりと、揺ぎ無い信念を持って言った。尋絵は固まったまま反応できなかった。
面会時間が終わって、優斗はまた来るからと言い残して立ち去った。面会は週に一回十分間。これから一生、二人はその間にしか会うことが出来ない。
「それでもいい。それでもぼくは、君を愛したいんだ」
そう言って高い塀を見上げる優斗の笑顔は、少しだけ寂しそうだった。