待ち続ける恋
これは魔術が存在する世界。魔法式と魔法陣を駆使して道具に魔術を籠める人を魔術師と呼ぶ世界。魔術師は最も尊敬される人々であったが、同時に最も嫌われる人々でもあった。恋する二人の魔術師と、最悪な魔術師の女。まずは、そんな物語……。
アルタとフェレジーナは同級生だった。この国に一つしかない魔術師の養成学校。二人とも優秀で、まだ十代後半の学生ではあったもののほとんどの魔術を難なくこなすことが出来た。順調に行けば、後一年で卒業できる。そんな二人が出会ったのは始業式の日だった。最初はアルタの一目惚れ。猛烈なアタックとロマンチックな告白を経て、二人は付き合うことになった。二人は傍から見てもお似合いだった。スタイリッシュで顔つきの整った彼氏。華奢で可憐な彼女。家も近い二人は、ほとんどいつも一緒にいた。二人は今の幸せが永遠に続くだろうと思っていた。
フェレジーナは時おり山を一つ越えた向こうにあるという祖父母の家に行くために家を空けることがあった。その日もフェレジーナは山道を飛行魔術を籠めた絨毯で移動していた。木陰に佇む女に気づいたのは、その時だった。頭のいいフェレジーナはすぐに女が誰か思い出した。教科書にも載る最悪の魔術師。詐欺、殺人、誘拐、女の罪状を挙げたら切がない。フェレジーナはそっとカバンの中に手を入れて手鏡をつかんだ。その手鏡にはいくつかの攻撃魔術と防御魔術が籠めてある。もし何か起きたら、これで人の多いところまでは逃げられるだろう。幸運なことに、女は動かなかった。フェレジーナが通り過ぎるのを目で追いながら、気味の悪い声でその背中に囁いた。
「これがあの坊やの彼女。ホント、憎いくらいに幸せそうね。……壊してあげるわ」
フェレジーナがこの女に出会ってから三週間後、彼女は突然行方不明になってしまった。
フェレジーナが行方不明になって一ヶ月目の夜。淡い緑の光がまぶたに触れて、アルタは目を覚ました。枕の上で頭だけを動かして光源を探す。それを目にした途端、アルタの眠気は完璧に吹き飛んでしまった。部屋の中央の辺りに、フェレジーナがいた。すがるような悲しい目で、ベッドのアルタを見下ろしている。
「フェレジーナ!どこに行ってたんだ。心配したじゃないか」
アルタはベッドから跳ね起きてフェレジーナに駆け寄った。でも、フェレジーナに触れることは出来なかった。フェレジーナは床の上滑るようにしてドアの前まで行った。
「たすけて」
フェレジーナの唇がそう言った。
「何かあったのか?」
アルタは緊張した。明るく、気の強いフェレジーナ。そのフェレジーナが助けを求めている。アルタはじっと答えを待った。フェレジーナは何も言わなかった。アルタの方を向いたまま、スゥーと出て行った。アルタは急いでその後を追った。フェレジーナのことを心配しすぎて、彼女がドアをすり抜けて行った事にすら気づかない。
ドアを出た先は、何もない真っ暗な空間だった。アルタは淡い緑色の光を目印に、フェレジーナを追い続けた。やがて視界が開けて、大きな部屋の中にいた。神殿のような太い、彫刻のある柱。先が尖がった、円錐状の高い天井。それは何処かの城の塔のようだ。床はラリマーで出来ていて、美しい青の海にでもいるような錯覚を起す。それは素晴らしく綺麗な場所だった。部屋の真ん中には金糸で刺繍された赤いクッションが置かれていて、その上に、人の丈もある淡い緑色の水晶があった。ベッドからそのまま起きて来たアルタは裸足で、ぺたぺたと音をたてながらゆっくりを水晶に近づいていった。後数歩で六角柱に触れられる。そんな場所でアルタは足を止めた。
「フェレジーナ」
ため息のような声で、アルタは呟いた。水晶の中には、眠ったような安寧な顔をしたフェレジーナが閉じ込められていた。アルタは水晶に駆け寄ってその拳で何度も叩いた。ビクともしなかった。
「たすけて」
弱々しい声が後ろから聞こえた。アルタが振り向くと、そこには部屋で見たあの悲しい目のフェレジーナがいた。異なるのは、今度はフェレジーナの唇から声が発せられている。その頬を伝って涙か流れ、床の上で小さく跳ねた。可憐な細い腕を伸ばして、アルタに助けを求めていた。
「たすけて。継母から、たすけて」
今にも消えてしまいそうなほどの弱々しい声が、アルタの胸を締め付けた。一歩踏み出す。フェレジーナはそこにいた。アルタもまた手を伸ばした。愛しい恋人に触れようとした。その指が、彼女の指先に触れる。全てが消え去った。柱が消え、天井が消え、フェレジーナも消えた。そこはアルタの家の庭先で、呆然と立ち尽くす彼しかいなかった。冬に向けて、木から葉っぱが離れる音がした。全ては、アルタの夢だった。
その日から、アルタは何度かフェレジーナの家に通った。両親共に元気に生きている。アルタはフェレジーナの言う継母の意味が分からなかった。正直、もっと早くにこの異様さに気づくべきだった。娘が行方不明だというのに、親は何事もなかったように毎日を過ごしている。そこまで考えて、アルタは学校の禁書棚から一冊の本を盗み出した。複雑で危険な魔法式を組み立てて、魔法陣を何度も消しては書き直した。出来上がった魔法はスプーンに籠めた。翌日。アルタは再びフェレジーナの家を訪ねた。仕事日で、父親は家にいない。アルタは母親とコーヒーを飲みながら世間話をした。隙を見て、母親のカップに入っているスプーンを入れ替えた。心の中で発動呪文を唱える。そして母親がコーヒーを飲み込むのを確認して、アルタは口を開いた。
「おばさん、フェレジーナは本当にあなたの子供ですか?」
「いいえ。私はフェレジーナ様の元メイドです」
返って来た答えはアルタの想像とは異なるものだったが、この夫婦がフェレジーナの失踪にさほど緊張していない理由は分かる。元メイドはアルタの全ての質問に答えた。アルタがスプーンに籠めたのは自白剤製造呪文。その高難度の呪文は口に入れるすべてのものを自白剤と換えることが出来た。
アルタは親に気づかれないように、秘かに旅に出る準備を始めた。フェレジーナは山一つ越したところに済む伯爵家の令嬢。その家には一月前、新しい女主人が来たという。彼女が元メイドの家に住んでいたのは、単に学校に通い易かったからなのだ。
木からすべての葉が落ちた頃、飛行呪文を籠めた靴を履いたアルタはそっと家を抜け出した。三時間かけて山を越え、さらに三時間かけてフェレジーナの屋敷を探した。何度も怪しまれながら聞き出したその屋敷は、まさに城の様な造りだった。屋敷の右側と左側、それぞれの端に高い塔がそびえていた。まだ学生とはいえフェレジーナも優秀な魔術師だ。そのフェレジーナを閉じ込められるのは、並大抵の魔術師ではないはず。そう考えて、アルタは夜にこっそり忍び込むことにした。
月が真上にあった。今まで見たことのない、朱い満月であった。世にも稀な朱の月。それが幸運の象徴でありますようにと、アルタはしばらく夜空に願った。屋敷には結界魔術がかかっていた。魔術が薄く、進入できるのは屋敷の左側、左の塔のすぐ近くだけだった。もしかしたらフェレジーナが導いてくれているのかもしれないと思い、アルタはそのまま左の塔に向かった。夢で見たのと同じだった。同じ彫刻の柱。同じ高さの天井。同じ金糸で刺繍したクッション。淡い緑の水晶。しかし、その水晶の中にフェレジーナはいなかった。
「アッハハハハハハハ!!!」
気味の悪い女の笑い声が頭の中に響いた。
「本物は右。間に合うかしら?」
わざとらしい猫なで声だ。アルタは全身の毛が逆立つのを感じた。今までの慎重さをかなぐり捨てて、アルタは必死に右の塔に向かって走った。不思議と、衛兵とすれ違うことは一度もなかった。
右の塔につくまで、一体どれだけ走っただろうか。アルタが右の塔の扉を開けた頃には、もう月が傾き始めていた。塔の窓から僅かに朱に染まった月明かりが射し込んで、淡い緑の水晶を照らしている。アルタは一歩、また一歩とゆっくり歩いて近づいていく。右手を挙げて、そっと、優しく水晶に触れる。魔術解除。如何なる魔術もなかったことにできる超高難度魔術。アルタはそれを右手の薬指にはめたフェレジーナとのペアリング準備してきていた。発動呪文を唱える。これでフェレジーナを解放できる。アルタはそう信じていた。でも、水晶からフェレジーナを救う方法は、もう、なかった。アルタの右手が触れたところから、水晶にヒビが入った。ヒビはどんどん深くなり、やがてフェレジーナの身体と共に粉々に砕け散った。驚いたアルタは急いでその欠片をつかんだが、元に戻す方法などあるはずがなかった。
「遅かったわねぇ」
女の声が、部屋の隅から聞こえた。涙に濡れたアルタの目に、女の顔はひどく歪んで見えた。それでも、アルタはその顔に見覚えがあった。アルタは昔、その女の詐欺を見破ったことがある。女の使ったまやかしの魔術は純粋な幼児には効かなかった。それは女の唯一の失敗と言ってもいい。アルタは悟った。これは自分への復讐だ。フェレジーナの死は、自分がもたらしたのだ。アルタの頬を、涙が伝った。
どうやって家まで帰ったのか、アルタはよく覚えていない。魂を抜かれたかのようにベッドに横たわって、枕を何度も涙で濡らした。そして泣き疲れて、アルタは夢の中に落ちていった。夢の中のフェレジーナは笑っていた。笑ってアルタの右手を握り締めた。
「また会えるから」
そう言って消えていった。目が覚めても、アルタは夢の情景に沈んでいた。本当にフェレジーナが触れていたらよかったのに。そう思って右手を持ち上げようとした。この時に意識して初めて気がついた。右手に何かを握り締めている。淡い緑の小さな種だった。ふと外を見ると、ヒラヒラと粉雪が舞っていた。誘われるように、アルタは雪を中に出た。庭の片隅に、その種を植えた。
春。あの種からは緑色の花が咲いた。美しく、可憐で、どことなく悲しげだった。アルタが水をやりにいくと、花は決まって愛おしそうに小さく震えた。花はなるから夏にかけて咲き続け、秋になると種をつけ、冬には枯れて消えた。そして次の春にはまた、種から美しい花が咲く。
「ああ、フェレジーナ。君もこの花なのだろう。冬に消えても、春にはまた会える。そうなのだろう」
アルタは緑の花に語りかけた。
「ああ、フェレジーナ。愛しているよ。また君に会える日を、この身体が朽ち果てるまで待ち続けるよ」
そう言うアルタの目からは大粒の涙が零れ、風に煽られて空を舞った。