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盤上の駒 続

 意識が底を尽きそうになった時、頭の中で声がした。それは、はっきりとした声というのとは違う・・・まるで本を読み説いているような、文字を頭の中で声に出して読んでいるような感覚だった。


《殊、水というのは・・・》


 真っ暗闇だったサクラの視界が仄青く明るくなった時、後ろから腕を引かれた。

《空と陸と私を渡り、何もかもを記憶して、そして決して忘れない。》

 後ろから抱きくるまれたような感覚に陥り、サクラは寒さでよく回らない首で自分の後ろを振り返ろうとした。しかし、冷たい水の感触がそれを阻む。

《振り向かずにお聞き、私の記憶を読み解く娘。私がお前を呼んだ。》

 冷たい水流の中で僅かにサクラを守るかのように温かい腕が、水底にサクラを引きこむ。

《人間が私から生まれ、旅立って長い月日が経った。それでも、私を知覚する者はいなかった。》

 そこで文字のような会話が一旦途切れ、サクラを抱きしめる腕に力が増した。

《彼の・・・娘を除いて。》

 孤独というものは・・・たとえ周りに誰がいようといなかろうと、感じる者にとっては常に心を抉るものだ。分かり合える者がいなければ、容易に感じやすい。それはサクラも同じだった。だからこそ、サクラはこの姿を見せない存在にとって、その自分を知覚する娘が孤独を癒したかけがえのない存在だという事を少なからず知った。

《彼の娘は自分の行く末に何があるかを予測していた。だからこそ、決して何者も何事も忘れない私に託したのだ。いずれ私の元に、再び私を知覚する者が現れる事を願って。》

 見も知らぬ相手がサクラに何を託すのかと思った時、水底に付いたのか足やお尻に砂の崩れる感覚がした。後ろからサクラをあやすように抱きしめたその主が優しく髪を撫でた。水の中、息苦しさも忘れたサクラは、仄かな青みによって白く小さな砂が水底を静かに揺れているのをぼんやりと見つめていた。

《何かが変わってくれることをただ待つ日々を悔いているのならば、辛く、苦しくとも最初の記憶を思い出せばいい。

関係性とは言葉を交わす事で深くなるものだが、縁とは一度の邂逅で結ばれるものだ。

 想いとは常に一方的なものだが、それを悲しむことはない。

 それが人間の性でもある。

 人とは何もかもが一方通行だが、それを自己の中で完結させるばかりで言葉にしない。相手はお前と異なる存在だ。人間は言葉にして確認せねば通じ合えぬ。何も言わずに通じ合えるというのはほとんど不可能だ。だからこそ、想いが同じ時、人はそれを奇跡と呼ぶ。》

 サクラの傷を丁寧に撫で、着衣を整える声の主がサクラの手に何かを巻きつけた。

《一方的な想いでも、それは時に相手と同じ時も違う時もあるとしても、自分を照らしてくれた存在を人はそうやすやすとは忘れぬものだ。お前には・・・まだ分からぬかもしれんがな。》

 硬質な、水とは違う感覚に、思わず手の中のものをぎゅっと握りしめた。

《さらばだ、私を知覚する娘よ。また会いに来るのならば、好きな時に来い。》

 気配が去り、辺りが真っ暗になった。死んでしまったかのように現実味のない暗闇の中、サクラは自分の最初の記憶を反芻していた。




 薄暗い部屋の中、横たわる自分の傍で誰かが自分の名前を激しく呼ぶような声が聞こえて、疲れて重い瞼をゆっくり押し上げた。

 目の前には、焦燥感に駆られた十代後半の青年の顔があった。血のような深紅の髪、深い黒の瞳が不安で揺れていた。目もとの傷跡から血が滴り落ちているのが痛々しくて、サクラは倦怠感で動くのも億劫な片手でその顔に触れた。ひどく熱い体温に手が焼かれそうだった。

「・・・大丈夫?」

 驚いたような顔をしていたが、サクラの言葉に、男は泣きそうな顔になりながらサクラを抱き締めた。背骨がみしみしと音を立てるような力強さ、それでも、その逞しい腕は微かに震えていた。

「・・・大丈夫?」

 今度はその耳元で小さく呟いた。耐えがたい苦痛に苛まれた青年に、ひどく心を痛めた。

「・・・サクラ。」

「・・・はい?」

 返事をすると、青年はサクラの背をそっと撫でた。

「・・・必ず、願いを遂げたい。だから・・・共に・・・。」

 決意を固めた、それでいて縋りつくような祈りにも似た声に、何の願いを叶えたいのか分からなかった。それでも、一生懸命支えると、サクラは青年の袖をギュッとつかんだ。青年はサクラを抱き上げると、後ろから来た別の少年と共に部屋を出た。

 後に、それが自分のキングのRで、自分を迎えに来てくれたのだと知った。

 きちんとした顔合わせの時、見上げたRは負傷していた目に包帯を巻いていたが、もう片方の目で確かにサクラを見て、ゆっくりと頭を撫でてくれた。その掌はひどく硬かったが、温かかった。




 その後の上級盤で魔法が全く発動しなかったことで、サクラは相手の駒に命に関わる傷を負わされ生死の境を彷徨った。盤上から担架で運び出される血みどろのサクラを誰もが目を逸らしている中、Rだけは絶望の眼差しで見詰めていた。その時、サクラは思った。初めて会った時のRの言葉。自分に向けて願いを遂げたいのだと、だから一緒にいてくれと言った彼の言葉を、緊張した自分の頭を撫でた優しい手を、自分は裏切ったのだと。

 それ以来、サクラはRが怖くなった。盤で使えない自分がどんなにRの期待を裏切ったかを考えると、いたたまれなかった。すっかり盤にもRにも怯えたサクラを心配して、荊姫達はRと対立した。それを跳ね返す事で、両者の溝はどんどん広がった。

 Rは最初からサクラに厳しかったわけではない。むしろ、誰よりも優しかったように思われた。少なくとも、自分に向かって告げた言葉に、頭を撫でた硬い掌には優しささえ見出せたのに。

 自分がいなくても、Rは勝てる。しかし、自分がいなくなった時、Rとの最初の約束が叶えられなくなってしまう。

 約束した、Rに、何よりも自分に。支えると。願いを遂げたいと言ったあの青年を守るのが自分の役割だと思ったから、その彼をあんな絶望に浸してしまったから、そんな自分が嫌だったから・・・サクラは努力した。人から姿を隠し、外にも出なくなった。

 それでも、毎日の中に隠れてしまったけれど・・・約束を違えたくないと、強く思った。

 その時、意識の中にとある言葉が浮かんだ。それは、夢の中で少女が友人との会話の中で語った言葉だった。

──召喚獣は想いの結晶なの。強く願えば願うほど、強く応えてくれるものよ。

 強く、強く、叶えたいと思った約束に応えてくれるのなら・・・

──会いたいって願い続けて、自分の中のその子に語りかけ続けるの。

 サクラは頭の中で、その名を呼んだ。常に頭の中にいて、自分を心配する毛玉のような小さな獣。

──その姿が振り返った時が・・・

 名前を呼ぼうと口を開いた時、水が口の中に一気に押し寄せてきて言葉は遮られた。しかし、自分の名前を呼ばれたと察したのか、獣は嬉しそうに、しかし必死になってこちらに走ってきた。その姿を受け止めながら、サクラは気を失う前にそっと囁いた。

──私の召喚の完成よ。

 琥珀、と。




「・・・ドールの生体反応消失。同時に、ソードと思われる駒がこちらに向かっています。」

 あっという間にサクラを見失った槐は、サクラが谷に落ちた後を追う事ができなかった。真っ暗闇に落ちて行く彼女はまるでいつものようにきょとんとした顔だったからだ。事態が全く把握できないと、その幼い表情が語っていた。

 敵のソードは全速力でこちらに向かっているのか、どんどん距離が縮まっている。

 ドールを戦闘不能にした楓から、サクラが危ないと報告があった時には全てが手遅れだった。サクラに声をかけた時、胸に衝撃を受けた。的確に心臓を狙ったその衝撃に、間にあわなかったのだと悟ると同時にサクラの生体反応が消えた。

 痛みを伴う声で報告したが、キングは何も答えなかった。

『・・・っ、とにかく、すぐにそっちの守りに行くから移動しておいてっ!』

『こちら椋馬だ。俺もそっち行く。』

 楓が叫んで移動を開始した。ちょうど、戦闘を終えたらしい椋馬もこちらに向かってくる。しかし、どちらも敵のソードより遅かった。

「・・・キング、ソードが来てしまいます。」

 移動を促したがRは何かを待つようにその場を動かなかった。鳥の鳴き声や木葉がそよぐ音に紛れて聞こえる足音に槐が身構えた時、自分の体に衝撃が走った。雷に打たれたような速度で、全身に痺れが走る。

「・・・っ!」

 同時に現れたソードは、何故か槐を狙って剣を突き出した。

 今の今まで、キングよりも自分が先に狙われた経験のない槐は大きく目を見開いて、為す術もなく立ち尽くしていたが、その眼前でRが着ていた衣が翻った。

「キングっ!」

 気付いた時にはRは自身の刀を手にソードの突きを受けていた。凄まじい力を不自然な方向から受けたのか、Rの口元から微かに呻き声が聞こえた。一旦距離を取るように大きく横に飛びのいたソードは、再び襲いかかってきた。

 視認できない速度でRに迫った剣に槐が悲鳴をあげそうになった時、凄まじい光と轟音が視覚と聴覚の全てを埋め尽くした。落雷と気付くまでに数秒かかった。

「・・・っ!」

 どんな方法で避けたのか分からなかったが、ソードは大きく目を見開いて、信じられないようなものでも見るように落雷と共にひらりと舞い降りた獣を見た。

 白い・・・真っ白な毛並みに、恐ろしく長い尻尾、内側の罅をキラキラと輝かせた琥珀のような瞳をした、大人よりも大きい虎が堂々とした佇まいで、静かに立っていた。その体は水に濡れて、毛は少し萎えている。広い背は染料で染めたように赤く、小さな人影を乗せていた。

「・・・ドール?」

 うつ伏せに獣の背に乗ったサクラはピクリとも動かない。しかし、問題はそこではなかった。召喚獣は自分の召喚主が気絶していた場合、消えたり、自分の主だけを守ろうとしたりする。それが今、Rを守る為に負傷した主を動かしてまでソードの前に現れた事にソードも槐も驚いた。

 とにかく背中で気絶しているサクラを降ろさなければと手を伸ばそうとした時、Rがそれを止めた。

「槐、感電死するぞ。」

 その言葉通り、手にびりっという電流が走った。慌てて手を引っ込めると、虎は逆に安心したようにソードに向き直って、牙をむき出しにした。

 近付いたら容赦しないという意思表示と共に、空気中にぱちぱちと火花が散る。

 ソードの速度と雷、どちらが速いかと言われればそれは雷に決まっていた。ましてや、相手の獣はソードに対してひどい怒りを向けている。それは、ソードがサクラを傷付けたことに起因したものだったが、ソードには単なる威嚇としか思えなかった。

 だからこそ、この場で最もやってはいけない事をやってしまった。

 背中に乗ったサクラの体に素早く馬乗りになり、獣の体に触れないようにして剣を獣の心臓目がけて突き立てようとした。サクラの身体が重みによってさらに出血したのを槐が確認するよりも早く、獣は雷を自分の背にいる男に落としたのだ。

「・・・っ、ドールっ!」

 間近で落ちた雷に槐は目を瞑った。凄まじい衝撃に耐えきれず地面に座り込み、顔を腕で覆う。耳が裂けてしまうかのような轟音、森の何もかもを白く染めた光の洪水。獣の落雷が収まった時、槐は恐る恐る目を開いた。

「おいっ、なんだ今のっ!」

「キング! 槐っ!」

 落雷に驚いた椋馬と楓が森の中から慌てて出てきた二人は、その場の光景に唖然とした。

 槐は地面に力無く座り込み、Rは若干魂が抜けたかのように口を半分開いて後ろの苔むした岩に背を預けている。

 その目の前には、ぴくりとも動かないソードが地面にぐったりと倒れていた。

「・・・死んでるのか?」

「・・・いや。」

 弱々しいが辛うじて上下する胸に生きているとRが言うと、椋馬は呆然としている二人に近付いた。

「怪我は?」

「・・・心に傷を。」

「・・・お前、大丈夫か?」

 珍しくおかしなことを口走った槐が逆に心配になったのか、椋馬は二人が無事だった事に安堵した。

「今のは何だったんだい?」

「さっきの白いのも。」

 落雷があった直後、楓達はそこから走り去る大型の獣を一瞬見ていた。椋馬などは敵のドールの召喚獣かと焦ったが、Rが無事で敵のソードが息も絶え絶えになっていることから、それはないと考えていた。実際にドールと闘った楓は、気絶させてきたドールのものではないと分かっていたから、逆に困惑していた。二人とも、まさかという思いで問うてくる。

四人の間に妙な沈黙が落ちた。全員、言いたいことがあるのに容易には口にできないと無言で訴えていた。すると、しばらくして島中に無機質な声が響いた。


【キングの拘束を確認しました。よって、勝者はキングRと承認し、格闘盤D戦を終了いたします。只今より拘束具が再起動しますの、ご注意ください。繰り返します。キングの拘束を・・・】


 荊姫は盤が始まってすぐに無邪気な少女の駒に捕まり、気絶させられていた。

『うーん? やっぱりこの前の襲撃が効いているのかな?』

 どういうことだと問い詰める前に攻撃され、失神したのだ。だから、凄まじい落雷が二度起こった時はよく動かない頭や体を省みる前に跳ね起きた。

「な、何?」

 まさかRに何かあったのかとも思ったが、そのすぐ後に荊姫が寝ていた場所に白い獣が降り立った。

「・・・琥珀?」

 それはサクラが召喚する獣よりずっと立派で、美しかったが、その瞳は煮詰めた蜂蜜のような琥珀色で、見間違うはずがなかった。現に、名前を呼ばれた琥珀はゆっくりとした足取りで荊姫に近付き、臭いを嗅いでくる。黒い鼻面を撫でてやると、いつもよりずいぶん低いが聞き慣れた鳴き声がした。

「どうしてこんなに大きくなっちゃったの? サクラは?」

 サクラの無事を尋ねると、琥珀はその背を見せた。

 そこには、まるで眠るように目を瞑ってピクリとも動かないサクラがうつ伏せに横になっていた。その胸元は真っ赤に染まり、琥珀の白い毛並みを赤く染め上げている。

「サクラっ!」

 一刻も早く手当てしなければと思った時、琥珀が何を思ったのか荊姫の目の前にしっぽを突き出してきた。いつもより太く、長いしっぽの先がしっかり掴んでいたものは・・・サクラが髪に付けていた、荊姫とおそろいのリボンだった。水に濡れたそれはレースの形は崩れ、汚れていたし、半分に切れていたが、間違いなくサクラが髪にしていたものだ。

「・・・ソードにやられたの?」

 その真っ直ぐな切り口に怒りが込み上げてきた。自分が気絶している間にサクラが一生懸命動いていたのが分かる分、余計にサクラを傷付けられたのが許せなかった。それを阻止できなかった自分も。

 そんなどうしようもない事を思っていると、体がひょいっと持ち上げられた。

「えっ?」

 琥珀に自分の体がくわえられたのだと知るや否や、琥珀は大きく跳躍した。

「ちょっ、琥珀、何処にっ!」

その時、琥珀が進む方向に二人組の男がいるのを見つけ、荊姫は目を細めた。自分のボックスではないと認識した瞬間、荊姫は琥珀の意図を何となく察した。

捕まえろと言っているようだった。

 荊姫はよくコントロールできない力を叱咤しながら、最も基本的な円形の結界で以ってその二人を閉じ込めた。もともと小さく設定しておいたその結界の壁に触れた瞬間、二人が白目をむいて気絶した。

 荊姫はその名の通り、結界に荊の棘で刺されたような痛みを持たせることができる。強くすれば、それは相手を気絶させることもできる。

 気絶した二人のすぐ近くに降り立つと同時に、試合終了を告げる放送が流れた。


「ふぅん・・・。」

 オリンピア第六発着場から緊急用の小型機が病院に向かって行くのを見送ってから、さてどこにいるだろうと辺りを見渡す。すると、探していた人物はさっきまでやっていた盤の映像を見つめていた。

 滅多に他人の盤に興味を持たない自分のキングが、食い入るように画面を見つめているのを発見して好奇心を刺激された。

 広いテーブルに一人で腰かけ、使い古された茶色のコートを着込んだ無防備にしている後ろ姿に抱きついた。綺麗に結われた翡翠色の長髪が無愛想な猫の尻尾のように揺れた。

「榊、何見てるの?」

「・・・梅乃美か。」

 別段驚いたふうもなく、無表情のまま梅乃美の腕に抱かれる榊ににっこりと笑いかける。無邪気な少女のような笑顔だったが、匂い立つような色香が榊の鼻先を掠めた。レザーの上着に太腿の半ばまでしかないレザーパンツはタイトな作りになっていて、二―ソックスと無骨なブーツでも隠せない足の細さや絶妙なプロポーションを強調していたが、残念ながら榊には寒そうに見えるだけだった。

「うん、めずらしいじゃない? 榊がそんな低級盤の試合見るなんて。」

 テーブルの上では、榊愛用の古い携帯テレビがあった。そこには、試合の結果が映し出されているが、その試合はDの一となっていた。

 AからCは上級盤であり、DからFは低級盤と呼ばれる。D以下の盤に出なくなって久しい梅乃美は、何故もう戦うこともない低級盤の試合を見ているのかと思ったが、勝利したキングの名前を見て納得した。

「・・・ああ、死線上の。確か、半年前に低級に堕ちたんじゃなかったっけ?」

「そうだ。」

 半年前の死線上の低級盤堕ちは、現在三つ巴に持ち込んでいる三人のキング率いるボックスに大きな衝撃を与えた。相手はC盤の最下位ボックスだっただけに、一回の敗北で死線上は上級盤を追放された。

 その時の盤は町フィールドで行われていたのだが、ドールの駒が致命傷を負わされた場所には今も消えない血の跡が大量にこびり付いているという。

 死線上はその名にふさわしく、生きるか死ぬかを賭けたような激しい戦いを行うと言われ、特に人気が高かった分人々の記憶にその堕落は強く残った。その後の芳しくない戦績に、多くの本国人が失望しただけでなく、駒達も死線上を軽んじるようになった。

 梅乃美はかつて戦った好敵手を思い出して武者震いした。

「復活しそうなの?」

 楽しそうに問うたが、返ってきた答えは期待したものではなかった。

「いや、今のままではまずないな。個人の技量はさらに磨きがかかっているが、チームワークはバラバラだ。おまけにお荷物がいる。」

「似たような事、半年前にも言ってた。そんな期待の持てないボックスの試合を、なんでまた・・・」

 すると、榊はゆっくりと立ち上がろうとしたので、梅乃美は渋々その首から腕を解いた。くたびれたコートの下には、ゆったりとした黒のシャツとスラックスがだらしなく縦に長い痩身を包んでいる。

「お前がこの前助けたと言っていたドールが気になってな。探してみたんだが、どうやら死線上のドールらしい。」

「へぇ、あの子が噂の踊れない踊り子か・・・。」

 何故自分が助けたドールが気になったのかは知らないが、一昨日助けた少女の、ドールにしてはずいぶんと弱い瞳の輝きには納得がいった。

 踊れない踊り子などというからどんなドールかと思っていたが、思い描いていたドールとはずいぶん違った。もっと弱々しい感じがしたが、受け答えはしっかりしていたし、何よりライフルで撃ち抜かれた直後にもかかわらず気丈だった。光こそ弱かったが、その目には真っ直ぐな強みがあった。他人の意思をそのまま取り込む弱さにもなりかねない素直さが梅乃美は何となく気に入っていた。ましてや、あの瞳の色には惹き付けられずにはいられない。

 まるで桜の花弁を閉じ込めたような色に、儚さと潔さを感じる。

「だが、本当に踊れないのかは分からんさ。」

「どういうこと?」

 榊の言葉に驚いて顔を上げると、榊はポケットに携帯テレビをしまいながら答えた。

「さっき、真っ白な雷獣を召喚していた。大人よりでかいんじゃないか、あれは。しかもその雷獣、ドールの意識がないのにキングを守りに行ったり、自分の主を傷付けたソードを殺さなかったり、いなくなってたシールドを探し出してキングを仕留めさせたりって・・・ずいぶんと理解不能な事やってたし、手加減してたな。」

「・・・。」

「そんなことができるのはかなり力のある召喚獣で、しかも主の事をよく理解してる頭のいい奴に限る。主人がどういう事を心配してるかとか、どんな事をすると嫌がるかとかがよく分かってるんだろうな。」

「・・・本当に踊れないのか、疑いたくなる。」

 そう言って歩き出した榊の横に並んだ梅乃美に、榊は相変わらずの無表情で付け加えた。

「お前には一応知らせておく。ドールの名はサクラというらしい。」

「・・・。」

 その時、初めて榊は微笑んでみせた。目は笑っていなかったが、凪いだ湖面のような静かな眼差しは、梅乃美の変化を見落とさないようにという注意深さが窺えた。

 黙ったまま立ち止まった梅乃美が、どこかに視線を向ける。そちらの方向には、盤国に唯一存在する墓地がある。それが、梅乃美の答えを表しているようなものだった。

「興味がわいたか?」

「名前だけで、そうと決められたわけじゃない。実力がその程度なら、ドールとして逢うことはない。」

 そうだな、と言って歩き出した榊とは逆に、梅乃美は病院がある方向に首を巡らせた。そこで今手当てを受けているだろう少女の、翳りを帯びた桜色の瞳を思い出す。

 ドールとして対峙するには、取るに足らない存在だという梅乃美の結論は変わらない、まだ今は。それでも、出会った時のあの姿は、あの目は、すぐに忘れてしまうにはあまりにも鮮明な印象を与える。まだ、彼女は何に対しても蕾の状態だった。その中に秘められた力に、ドールとしての邂逅も近いのではないかと予感した。期待に胸が高鳴るが、それよりももっと多くの言葉を交わしたいと感じた。

「・・・次は、いつ会える? 桜色のお譲ちゃん。」

 呟きは誰に聞かれることもなく、梅乃美は榊を追って歩き出した。


【五】

「できました!」

 サクラがキッチンで嬉しそうに声を上げたのを聞きつけて、荊姫がひょこっと顔をのぞかせた。

「何ができたのかしら? おいしそうな匂いがするわ。」

「スコーンです。沙紀さんのお店のジャムが届いたので・・・」

「サクラ、敬語。」

「うぅ・・・努力しま・・・努力するから、待って欲しい。」

 荊姫は元々、子供らしくないサクラの敬語が何となく距離があるようで嫌だったのだが、今回のごたごたが終わり、いくつかの物事が変わったのをきっかけにサクラの敬語をやめてもらった。それによってサクラは頬を染め、困惑しながらも一生懸命慣れようとしている。楓に言わせれば、それがまた可愛いのだとか。

 サクラは滅多に料理をしないのだが、楓が丁寧に教えた甲斐あってスコーンは綺麗に焼き上がっていた。香ばしい香りに、キッチンに入ってきた荊姫がくんくんと鼻を鳴らす。

「おいしそう・・・いただきます。」

 オーブンから出したばかりのアツアツのスコーンに手を伸ばした荊姫に、サクラは慌ててスコーンを庇った。

「これは駄目っ! いーちゃんのはこっち!」

 すでに取り出して冷ましているスコーンを指しながら、荊姫から焼き立てのスコーンを死守すると、あからさまに荊姫は肩を落とした。

「・・・ひどいわ、桜。」

「あ・・・えと・・・ごめんなさい。」

 荊姫の芝居に慌て始めるサクラを、荊姫は嬉しそうに眺めていた。

 髪には先日分断されたおそろいのリボンの代わりに買ってきたピン止めが、胸元には分断されたリボンをリメイクしたブローチが光っていた。


 D盤の後、サクラの傷はほとんど自己修復で塞がっていたが、大量出血していた為、血圧が非常に低く、ショック死の本当に一歩手前まできた危ない状況だった。すぐさま集中治療室に放り込まれ、一週間の入院を余儀なくされた。

 他にも、無理が祟ったのかRのボックスは怪我人が続出していた。

 椋馬は無数の打撲や切り傷の他に、足の筋を痛めていたにも関わらず走り回ったので松葉杖生活となった。荊姫は魔法攻撃によって内臓を痛め、元々の痺れもあって入院。楓は荊姫と同様の攻撃で身体の節々が異常を訴え、落雷を間近で体験してしまった槐とRは耳鼻科や眼科で精密検査を受ける羽目になった。しかも、Rに関してはソードの剣術の受け方が悪かったのか利き腕を骨折し、肩を脱臼する怪我までしていた。このように入院患者が続出し、いつもは人っ子ひとりいないRのボックス専用の病室は、一時期全てのベッドが埋まるという近年稀に見る現象に見舞われた。その分賑やかでいいと湯沢は上機嫌だったが。

 Rの完治が一か月から二カ月ということもあり、湯沢は主治医としての権限を活用し、オリンピアに出場停止を命じ、オリンピアがこれを受諾した。簡単に受諾された事にサクラ以外の駒は難色を示したが、疑っても何も答えが出てこないと分かっているので敢えて口出ししたりはしなかった。一人、槐だけは後で調べようと心に決めていたが。

よって、今までになくゆったりとした時間を過ごしていたサクラ達だったが、謎は多く残されていた。

 結局のところ、荊姫とサクラを襲ったのは件のボックスの駒だったという事で、オリンピアは厳重注意の上、半年間の出場停止と実績の剥奪などの措置を取ったが、これが真実かどうかは分からなかった。ただ、そうであるという事実だけを告げられ、このボックスの裏にいるであろう人物や組織についてはほとんど黙殺された。

 半ば予想できていたので、これには誰も文句は言わなかった。そもそも、槐がまた暗躍して正確な事を調べるだろうと誰もが思っていたからだ。

 それとは別に、楓は槐にサクラとR、槐の三人で命を狙われる理由はないかと聞いてみた。あのドールは、嘘などは付いていないと思っての質問だったが、槐の答えは

「まぁ、一人一人でというなら分かりますが、三人一組でというのは分かりかねます。」

 というものだった。あまりにもあっさりとした言い分に逆に疑いをかけたが、Rと槐のように本当は触ってはいけない部分の秘密まで常識の如く知ってしまっている人間と、今までの半年間、そのほとんどを宿舎で過ごしたサクラには全く共通点が見出せなかったというのが事実だった。

全快したらその辺も洗ってみると言っていたが、果たして真実に辿り着けるかどうか。まだまだ時間がかかりそうな一件だった。

「サクラ君、何処かに行くのかい?」

 身体の節々にまだ痺れが残る楓は、ロッキングチェアに揺られながら慌ただしく外出の準備をしているサクラを見た。

 珍しくフリルのついたブラウスにブローチをつけ、膝まであるチェック柄の赤い半ズボンにボーダーのソックス、焦げ茶色の革靴に大きな肩掛け鞄という、ピクニックにでも行くのかという格好に楓は首を傾げて見せた。

 今現在、普通に過ごせるのはサクラと荊姫だけで、片方だけになったとはいえいまだに松葉杖の椋馬も、居間で暇そうに雑誌を捲っていた。

「えと・・・キングのところに・・・。」

 D盤の後、サクラには二つの変化があった。一つは外に出かける回数が増えた事で、もう一つはRに積極的に関わろうと色々と模索しているところだった。

 今日はその最初の一歩として、お見舞いに行くのだという。

 楓としては歓迎すべきか微妙な心境だった。サクラが何かに積極的になるのは喜ばしい事だったが、他の男のところに出かけるというのは頂けなかった。しかし、反対するのも変だった。

 サクラには命を狙われている事は話さなかった。いい傾向に転びつつあるこんな時に、逆に部屋に閉じ込める事はよくないというものだ。しかも、彼女には今、強力なボディーガードが付いている。

「私も行こうかしら?」

「やめとけ、お前が行くと喧嘩しかできないだろ。」

「だって、心配じゃない。」

 そういう荊姫だったが、サクラの外出を察したのか二階から静かに走ってきた白い獣を見ると渋々身を引いた。

「・・・まぁ、琥珀が一緒なら大丈夫でしょうけど。」

 琥珀はD盤終了後も消えることなく、サクラに付き従っていた。

 本来、召喚獣は盤の後にはすぐに消えてしまうものなのだが、琥珀は召喚した時のサクラの魔法が相当巨大だった為か、消えることなく桜の身辺を警戒していた。

 琥珀は召喚される時に一定の量の魔法を与えられてこの世に出てくるので、現時点で桜からの魔力の供給は受けていない。サクラ自身が魔法を使っているわけでもなく、琥珀を消滅させる方法も分からない事から、オリンピアは改良した拘束具を琥珀に取り付け、絶対に街中で雷を落とさないようにとサクラに厳重な注意をしてきたが、琥珀自身はサクラの言いつけをよく守って静電気ひとつ発生させていない。

 槐のその後の分析によると、琥珀は雷獣という召喚獣のひとつで、文字通り雷を操る獣だという。強力な攻撃技と光速とも言える素早さが特徴なのだが、その性質は炎を操る炎獣と同じくらい気性が荒く、扱いが難しいというのが一般的な見解だった。しかし、小さな姿の時からよく世話をしてくれていたサクラがいたくお気に召したのか、琥珀は本当に雷獣なのかと聞きたくなるくらいサクラによく懐いていた。ちなみに、大きくなった理由は、やはり召喚時にサクラが費やした魔法の量が非常に多いからではないかという説が有力だった。

 どうやって召喚したのかと槐が鼻息も荒くサクラに詰め寄ったが、サクラ自身心臓を刺された上、川に落とされてよく覚えていないというのが正直な感想だった。

 なんにせよ、召喚された琥珀はサクラを川から救いあげ、R達を助けたという誇らしい成績を残している。その分、サクラ以外に対して少し大きな顔をしていると思うのは荊姫だけではないだろう。

「ずるいわ、琥珀ばっかりサクラとお出かけして。」

 その琥珀に荊姫は頬を膨らませながら拗ねて見せた。琥珀と荊姫は、今やどちらがサクラの外出に付き添うかを毎日争う間柄になっている。今回は、琥珀に軍配が上がったので、琥珀は口元を緩ませて荊姫に見せつけている。してやったりという笑顔だ。

「琥珀、行くよ。」

 小さな主の呼びかけに琥珀が長い尾を振って走っていく。

「行ってきまーす。」

「気をつけて。」

 返事を返しながら椋馬と楓は荊姫を見た。琥珀に勝利の笑顔を向けられた荊姫は息巻いて地団太を踏んだ。

「今の見たっ? すっごく性格悪くなったんじゃないの、琥珀の奴!」

 サクラを取られたと悔しそうな荊姫を前に、扱いが難しいという世間一般の意見はあながち間違ってはいないと認識せざるをえなかった。


「琥珀、あのね、今日は私、初めてキングとちゃんとお話しするの。」

 すごく楽しみなのと嬉しそうなサクラに、琥珀の心も晴れやかだった。

 Rが住んでいる最寄り駅まで琥珀の背に乗り、そこからは並んで歩くサクラの声に琥珀はその宝石のような瞳を向けた。

 紅潮した頬に微かな緊張を宿す桜色の瞳。小さい琥珀を抱きしめていた頃に感じた温かさに、大きくなってから感じ取れるようになった頼りなさを備える自分の主を安心させようと、琥珀はその頬をペロッと舐めてやった。

「ふふっ、くすぐったいよ。」

 無邪気に頭を撫でてくれるその手首には、目覚めた時に手首に絡んでいた、アクアマリンをあしらったブレスレットがあった。アクアマリンは海の精の宝物であるとされ、海に関連する事から無限の生命力を生み出すとも言われている。

「・・・海の精だったのかな?」

 誰とも知らない人物からの言葉を自分に伝えてくれた、姿を見せなかった存在に思いを馳せる。いつでも来ていいという声を聞けば、聞きたいことはたくさんあった。伝言は誰からのものだったのかや、どうして懐かしい感じがしたのか、そして何故自分にこのブレスレットをくれたのか。琥珀がこんなふうに招来出来た理由も聞きたかった。

 聞きたいことを頭の中で反芻していれば、自然ともう一人の逢いたい人に思考が向いた。

「ねぇ、琥珀。助けてくれたドールにも逢いたいね。」

 自分を助けてくれた茶目っ気溢れるドール。もしまた逢ったならば、どんな事を話そうかと心が躍った。

 以前では考えられないようなそんな思考にサクラはちっとも気付かなかったが、瞳の影が薄れたサクラを見るのは琥珀を含めて荊姫達も喜ばしい事だった。

サクラは延々と田園風景が続く道を歩いていた。桜華宮も自然が多く、桜が多い為、甘やかな優しい空気に満ちているが、桜もまばらで水田や緑の多い郊外は肺の中が洗われるような軽い空気が満ちていた。

 しばらく歩き、森の中を抜けると田園風景がなくなり、針葉樹林に囲まれた深い森が現れた。その森の傍らに隠れるように建った古めかしい色の洋館に、サクラは見覚えがあるような気がして近付いた。その住所を確認し、琥珀を振り返る。

「ここだよね?」

 辿りついた場所は、桜華宮の外れにある湖の近くの別邸だった。

 お見舞いに行きたいのだと、三人の中で一番Rに対して気安い椋馬にお願いしてみると、椋馬は住所や地図だけでなく、槐の連絡先まで教えてくれた。

 椋馬にしてみれば、今まで距離を置いていたRにサクラが近付く事自体は歓迎すべきだと感じていた。魔法が使えるようにするのにも、今自分達とRの間にある、見えないけれど大きな溝を埋めるのにも、サクラの自主的な働き掛けが必要だと分かっていたからだ。

 しかし、ここで問題なのはRがサクラを快く受け入れるかどうかだった。

 初めてサクラと会った時、Rは不安そうに自分を見上げるサクラの頭を撫でてやっていたのを思い出せば嫌ってはいないはずだが、それでもあの不器用な男が小さなサクラを泣かせないかというのは椋馬の心配だった。泣かせようものなら荊姫が怒り狂い、楓が黒いオーラを発しながら怖い笑みを浮かべそうだったからだ。

 別邸は避暑地も兼ねているので、基本的に桜華宮にある宿舎と同じように六人が住めるようになっていた。ただし、田舎にあってゆったり過ごせるように大きめに作られている。

 重厚な色合いのエントランスのドア、その隣にあるインターフォンを恐る恐る押すと、すぐにドアが開いた。緊張した面持ちのサクラだったが、相手は予想していた人物ではなかった。

「おや、どちら様かな?」

 白いものが混じり始めた頭髪を綺麗に整えた、皺の刻まれた顔に優しげな表情を乗せた初老の男性に、サクラは驚いた。しかし男性も、自分自身を飲みこんでしまいそうなほど大きな虎を従えた少女に驚いていた。

 お互いにしばらく相手がどういった人物なのか測りかねていたが、後ろから不思議そうにかけられた声に我に返った。

「・・・何をしてらっしゃるんですか、宗佑さん。」

 聞き覚えのある声にサクラは目を輝かせたが、あまり呼んだ事のない名前に一瞬躊躇ってから、少し小さな声で声をかけた。

「・・・槐君。」

 すると、槐が宗佑と呼んだ男性の後ろからひょこっと現れた。

「ああ、無事に付きましたか。椋馬さんから連絡は来ていますよ。宗佑さん、私のボックスのドールで、サクラさんです。」

 いつもは役名を呼ばれるにもかかわらず、名前で呼ばれたサクラは満面の笑みで槐を見上げた。すると、槐は若干やりにくそうな顔をしたが、別館の管理人の一人だという宗佑を紹介してくれた。

「この動物は?」

「私のお友達の琥珀です。噛んだりしませんよ。」

 噛む以外にも被害が出そうな大きさの琥珀だったが、宗佑は笑ってくれた。笑えなかったのは槐の方だった。まさか琥珀とくるとは思わなかったのだろう。

「・・・しかし、何故雷獣を連れてきたんですか?」

「うん、琥珀に乗ると早いんだよ?」

「雷獣に乗って移動するドールは、きっと貴女だけでしょうね。」

 呆れたように言いながら室内に招き入れられる。本館よりも質素に、それでいて広く作られた別邸のエントランスは静かで、涼しかった。

ゆったりとしたクッションの椅子や猫足のテーブルなど、本館にあるものとよく似た家具が揃えられた居間に案内されたサクラは、背負ってきた鞄から綺麗にラッピングされたスコーンを取りだして槐に手渡した。

「はい、槐君にお見舞いです。こっちは・・・えっと・・・R・・・君に。」

 スコーンと沙紀の店のジャムを手渡したサクラに、槐は一瞬言葉に詰まった。

 Rの名前を呼んだ時、槐は表情を固めたが、やがて柔らかく緩めてそのスコーンを押し返した。

「私の分は有り難く頂きましょう。ですが、そちらは彼本人に渡して差し上げて下さい。」

「でも・・・」

「その方が、喜びますよ。きっと。」

 悪戯っぽく笑った槐に、琥珀は目を細めて槐から引き離すように二人の間にさりげなく体を滑らせた。

「警戒されていますね。その雷獣は私が嫌いなようですね。」

「そんなことはないと思うけど・・・琥珀?」

「・・・その名前には、何か意味が?」

「え? 目が琥珀みたいだなって。」

 綺麗でしょう? というサクラに他意は感じられなかった。

──無意識に付けたのでしょうか?

 琥珀という石は鉱物ではなく、針葉樹林の樹脂が化石となったもので、中に虫を閉じ込めたり、摩擦によって帯電したりすることなどから魔術的にも特別な力がある石だと信じられてきた。だからこそ、雷獣にドールが付けた名前としてこれ以上に相応しい名はないと思った。

──名前がどれほど大切な意味があるか、知らないのでしょうね。

 名前は自分を表すものだ。それは全ての生物に言えた。名前を呼ばれるだけで、それはその人物を振り向かせる。その些細なことが、どれほど大きな事か知っている人間はあまりに少なかった。名前がなければ、その存在はどんなに呼んでも現れない。名前があっても、呼ばれなければその存在自体に意味はなかった。

──だからこそ、名前で呼ぶ事は奇跡なのですが・・・

 今、ここには奇跡を起こせる人物が訪れてきた。

 槐はいい事を思いついてサクラを立たせた。

「彼は二階の自室にいますよ。そちらでお茶にしましょうか、折角サクラさんが焼いてきて下さったのですから。」

「うぇっ?」

 サクラはとたんに怖気づいたが、槐は気付かないふりをして宗佑にRの部屋にサクラを案内してくれるように頼んだ。

「彼と親交を深めようと来たのですから、彼の部屋で過ごすのがいいでしょうね。」

 椋馬から大体の事情を聴いていた槐は、サクラが断れないように退路を塞ぐ。そして、宗佑に目配せした。

宗佑は同じように悪戯を思いついた顔で笑ってサクラを二階に導いていく。琥珀はそんな二人の後ろを静かに付いて行った。

「・・・さて、久しぶりに彼の機嫌がよくなりそうですね。」

 最初から二階に行く気などさらさらない槐は、ほくほくとした顔でお見舞いだというスコーンに何を塗って食べようかと思案し始めた。


「宗佑だが、お客さんだよ?」

 二階の廊下、その突き当たりにある部屋の木製のドアをノックしたが返事がない。

「・・・開けるよ?」

 宗佑がドアを押し開けると、暖炉にくべられた薪がぱちっと音を立てて燃えていた。部屋は春のような暖かさだった。

「・・・おかしいな、いないみたいだ。サクラちゃん、入って待っていなさい。お茶を持ってくるからね。」

「えっ! そんな勝手に・・・!」

 サクラの声をわざと聞かずに、琥珀ごと部屋の中に入れて、宗佑は意気揚々と台所に向かった。

「・・・お、お邪魔します。」

 恐る恐る部屋を見渡すと、意外と物が多かった。

 本棚にはたくさんの本が詰まっていたし、窓に面した机の上には書類や図面が散乱していた。部屋の奥には竹刀やテニスラケットなどの入った籠がある。部屋の真ん中には蓄音機があって、聞いた事のない洋楽を歌っていた。そのすぐ傍に置かれた棚には、レコードがぎっしり詰まっている。毛足の短い絨毯、暖炉を囲うように並べられた背もたれの長い椅子とロッキングチェア。壁には誰が描いたのかは分からないが風景画。マントルピースの上には写真立てに飾られたいくつもの写真があった。

 その中には、サクラが写ったものもあって嬉しくなった。他にも何があるのかと好奇心を刺激されて写真立てに近付いた時、琥珀がくうんと小さく鳴いた。

 それを疑問に思って振り返った瞬間、サクラは我が目を疑った。

 Rが、ロッキングチェアに深く腰掛けて船を漕いでいたのだ。しかも、サクラが半径一メートル以内にいるというのに起きる気配すらない。

「・・・。」

 完全に動きが止まったサクラは、ふとある事に気付いた。Rは仮面をしていなかったのだ。

ワイシャツにスラックスという楽な格好のまま、警戒心もなく椅子に腰かけ、灰色の膝かけの上に、折ったという左手が乗っかっていた。その腕はいまだにギプスがはめられて、固定されている。

 顔全体をちゃんと見たのは初めてだった。初めて顔を見た時は、意識が混濁していてよく見えなかったのだ。深紅の髪の下にある端正な顔立ちは、女性のように美しかったが、左の目元にはくっきりと何かで鋭い刃物で斬られたような傷跡があった。

 何針も縫ったらしく、大きな傷跡は醜く歪んでいた。

「・・・。」

 初めて会った時、血を流していた傷口。何があったのかサクラは知る由もなかったが、あの時の痛々しい記憶に自然と眉を潜めて、無意識に手を伸ばしていた。

 サクラの小さな掌がRの髪の先を少しだけ掠めた時、ドアがバンッと大きな音を立てて開け放たれた。サクラの動きを息を飲むように見詰めていた琥珀までもが驚いて臨戦態勢に入ったが、現れたのは快活な笑顔を浮かべた細身の女性だった。

「林檎君っ! お茶を持って来たわよぉ!」

 音に驚いて手を引っ込めたサクラと、同じく音に驚いたRが飛び起きたが、サクラが目の前にいる事にRはひどく困惑しているのか反応が鈍い。そんなRを放っておいて、暖炉の前のテーブルにてきぱきとお茶の支度をしていく女性は気にもしない。

「私は宗佑の妻の春香よ。サクラちゃんって言うんですって? 可愛い名前ね。林檎君もこんな可愛い子がいるなら、もっと早くうちに招いてくれればいいのに。」

 サクラに自己紹介しながら、ロッキングチェアの上でまだ呆然としていたRの背を思いっきり叩いた春香にサクラは圧倒される。少し引き気味に距離を取った。

そこで、サクラはとても引っ掛かる事を反芻した。

「・・・りんご?」

 瞬間、Rが立ち上がって春香を遮った。

「後は自分でやる。」

「あらぁ、それじゃあ、お邪魔虫は退散するわね。」

 ごゆっくりと言ってドアの向こう側に消えてしまった春香。ドアを勢い良く閉めた為、大きな音が響いた。それが逆に室内に満ちたしばしの静寂をより長く、重苦しく感じさせる。

「・・・林檎だから、Rなん・・・ですか?」

 その一言を言うのに、サクラはかなりの労力を有した。はっきりいって今すぐここから立ち去りたい衝動に駆られたが、それでは親交を深めに来た意味がない。

 聞いてはいけなかったのかと、あまりにも動かないRにわたわたし始めた時、ドアに向かっていたRが振り返った。微かに赤みを帯びた頬に、照れているのだと悟って、サクラは逆に拳を握り締めて力説した。

「すごくいい名前じゃないですか! 可愛いし、かっこいいです! 隠す必要なんかないです、Rよりずっといいです。髪も同じ色ですし、きっと皆似合うって言ってくれますよ! そうです、林檎君って呼んでいいですかっ!?」

 そこまで捲し立ててサクラはようやく自分がなんて突っ込んだ事を言ってしまったんだと自覚した。Rの顔はどんどん赤くなっていき、羞恥で湯気が出そうになっている。

──間違えてしまいました・・・。

 暢気に暖炉の近くに寝そべっていた琥珀が欠伸をした。

 林檎という可愛らしすぎる名前は確かに男の人は喜ばないかもしれないが、綺麗な深紅の髪は熟れた甘い林檎のような光沢を放っていて、非常に似合うとサクラは内心太鼓判を押していた。

 もちろん、こんな重苦しい雰囲気の中でそんな太鼓判を口に出して押せるわけがなかった。

「・・・あの・・・」

 どうにもいたたまれなくなったサクラが声をかけると、Rはやっと言葉を発した。

「・・・何の用だ?」

「あ、こ、これ・・・お見舞い、です。」

「・・・。」

 そう言って赤いリボンでラッピングされたスコーンをRは凝視した。それをどう思ったのか、サクラは一生懸命弁明し始めた。差し出したスコーンとRを見られずに、自分の爪先を凝視して早口で捲し立てる。

「その、キングはスコーンが好きなんだって椋馬君が教えてくれて、この前の盤で腕骨折していたし、肩も脱臼してって聞いて、心配で・・・その、味は大丈夫です。たぶん。」

 自分を見舞いにきたのだと必死に訴えるサクラに、Rはそっと問いかけた。

「・・・お前が作ったのか?」

「はい。」

「・・・。」

 そう言うと、そっとドアからサクラに近付き、差し出されているスコーンを持って、ロッキングチェアに座った。サクラが唖然としていると、座らないのかと声をかけられ、サクラは高速でRと向かい合うような位置にある背もたれの長い椅子に浅く腰かけた。想像以上に、クッションはふかふかだった。

キングは膝の上に乗せた見舞い品のリボンを解いて、用意されていた空の皿に全て開けた。それを見て、サクラは沙紀の店のジャムを出して蓋を開けた。桜ジャムというらしいピンク色のジャムを無言で塗って、スコーンに齧り付いたRをサクラは死刑宣告を待つ囚人の様な心持ちで窺った。

スコーンを嚥下したRは、あまりにも熱い視線で感想を求めてくるサクラを一瞥してから口を開いた。

「まぁ・・・口に合わないこともないな。」

素直においしいと言わなかったが、サクラは嬉しそうに微笑んで嬉しいですと声に出した。

「・・・しかし、こいつまで連れてくるとは思わなかった。」

地面で寝そべる琥珀をギプスの施された手で軽く撫でてやると、五月蠅いというように琥珀はしっぽを振ってみせたが、それ以上のリアクションは示さなかった。

「今は琥珀がいるからどこにでも出かけられます。」

Rは琥珀に躊躇なく触れるんですね、他の人はできないのにと半ば感心していると、Rがサクラを見つめた。

桜は言葉を失った。優しそうな眼差し、その瞳を初めて見たからだ。

綺麗な、ラピスラズリのような瞳だった。濃厚な藍色の中に、金色の粉をまぶしたような独特の色合いにサクラは見入っていた。こんな瞳を見たのは初めてだった。

綺麗だと思っていると、Rはおもむろに口を開いた。

「サクラ。」

「・・・、・・・、・・・! はいっ!」

 初めて名前を呼ばれて一瞬反応が遅れたが、サクラは我に帰ると急いで返事をした。そんなサクラを不思議そうに見つめてから、Rは尋ねた。

「・・・今の生活は・・・楽しいか?」

 その一言に、どれだけの思いが込められているのかサクラは正確には判断できなかったが、胸の中の魔法を溜めた瓶が温かさを増したような気がして、笑った。

「はい。はい、とっても楽しいです!」

「・・・そうか。」

 その笑顔に、言葉に安心したようにRはスコーンを食べ終わると、紅茶を飲んだ。

「・・・お前も食べればいいだろう。」

「・・・! いただきますっ!」

 Rの一挙手一投足を見守っていたサクラにRは気まずそうに言うので、サクラは慌てて紅茶を口に含んだ。爽やかな渋みと香ばしい香りにほこっとした顔をすると、Rはまた口を開いた。

「今回は・・・頑張ったな。」

そう言って折れていない手を伸ばして頭を撫でるキングに驚きながら、サクラは嬉しそうに笑った。

最高級の褒め言葉がもらえた事でにこにこしながら、はいっと応えて、桜ジャムを塗ったスコーンを口に入れた。幸せな春の味が広がって、それ以降会話はあまり弾まなかったが、サクラは始終にこにこしながらカップを空にした。

サクラはおかわりを準備してくれているRに意を決して聞いてみた。

「あの・・・」

「なんだ?」

 かなり緊張したように自分を見つめてくるサクラにRはカップに紅茶を注いでから背筋を伸ばした。サクラはありがとうございますとお礼を言い、かち合ったRのラピスラズリの瞳に誘い込まれそうになった頭を横に振ってから、真剣な口調でこう切り出した。

「また・・・お見舞いに来ていいですか?」

「・・・そんな下らないことにいちいち許可など必要ない。」

 それはいつでも来ていいという言葉だと理解したサクラは嬉しすぎて、こんなことも聞いてみた。

「じゃあ、林檎君って呼んでも・・・」

「許さん。」

 誰にも言うなとも言った後、Rはとても項垂れているサクラが何だか可哀そうに見えて、付け足した。

「・・・林檎とは呼ぶな。」

 それは林檎以外ならばいいという、Rなりの譲歩だった。それを聞いたサクラはしばし考えた後、そっと聞き返した。

「・・・じゃあ、リン君はどうですか?」

「・・・好きにしろ。」

 照れたように顔を逸らしたRに、はいっ、好きにしますとサクラは元気よく言った。

 そんな二人の間に挟まれた琥珀は、紡がれた温かい空気の中、サクラに帰ろうと促されるまですやすやと眠っていたという。


【終わり】

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