盤上の駒
【零】
薄紅色の瞳が不安げに辺りを見回すと、肩甲骨まで伸ばされた柔らかな黒髪が小さな音を立てて首筋をなでた。その音が耳元で聞こえただけで、大袈裟なくらい肩を揺らしながらも悲鳴は何とか押し留めた。
「・・・。」
息を殺しながら辺りを窺うと、遠くから鋼が撃ち合う金属音が甲高く響いた。
唾を飲み込み、さらに辺りを窺うが、人影は何処にもない。
ほっとしながら移動を開始しようとした瞬間だった。
『ドール、何をしているのですか? まだ着かないのですか?』
「ひゃっ!」
一瞬上げた小さな声に気付き、隠れていた木々の中から大柄な男が飛び出してきた。
「ひっ!」
屈めていた腰を即座に立たせ、敵に背を向けて逃亡した。
『ドール! 何を逃げているのですか! 戦いなさい! ソードくらい倒しなさい!』
頭に響く怒鳴り声は焦りを含んでいた。見えているなら助けてほしいが、この相手は自衛以外出来ない。頼んでも無駄だ。
「で、できませんっ!」
叫んで、後ろを振り返る事もなく走り続ける。
しかし、ソードの運動神経は只人のそれを大きく上回る。いかにドールといえども、すぐに追いつかれる事くらい分かっていた。
背中に迫る異様な気配に足元をすくわれそうになりながら、ただひたすら走る。
後ろで風を切る音が聞こえた刹那、少女は叫んだ。
「琥珀!」
後ろから少女に向かって剣を振り上げた刹那、その顔面に白い何かが張り付いた。
「なっ!」
驚いて顔から異物を剥がそうと手を伸ばした時には、あっさり離れる。
男は一瞬呆然とした。あまりのあっけなさに拍子抜けさえした。
前方を全力疾走する少女の背には、白い・・・猫のような生き物がしがみついていた。
ドールでありながら全く攻撃力のない、一瞬の目隠しにしかなっていないそれに、脱力した。するなと言う方が無理な話だった。
しかし、そんな気分も二秒後には怒りに変わっていった。馬鹿にするにも程がある。
「待ちやがれっ!」
しかし、たった二秒のタイムロスが導いた少女と男の距離は、かなりのものだった。
すでに二十メートル以上に差が開き、少女の足はさらに速度を上げている。
これはあり得ない事だった。自分が追い付けない駒など今までいなかったはずだ。
驚愕は闘争心に火を付けてしまい、男も全力で走りだした。
一方、少女は頭の中の叱責に必死で返事をしていた。
「む、無理です! やっぱりできません!」
『本番になってそのようなことをおっしゃらないでください。こちらも困ります。いいですか? もうすぐ“お茶会”に到着しますが、ゲームセットを待っていないできちんと計画通りに戦いなさい。』
「そ、そんな事言われたって・・・。椋馬君ならともかく、私、駒を倒した事なんてないんですよ? この配分にこそ問題がありませ・・・」
抗議の声を途中で切り、走りながら限界まで膝をため、一気に上に飛び上がった。
追いついてきた男の鋭い一撃を紙一重でかわし、少女は自分の背丈よりも高い木の上になんとか飛び乗った。
そこからは景色が一望できた。
人の背丈より高い木々が道を作っている。果てが見えないほど広大な大地に、同じく果てが緑になる程組まれた木の迷路が広がっている。
このどこかで“お茶会”がある。
少女は不安定な足場に気を付けながら、さらに反対側の木に飛び移る。男は一歩遅れて木の壁を叩き切り、少女がいる壁に迫る。
さらに少女が逃げると、肩に乗った猫が小さく悲鳴を上げた。
「!」
挟まれた。
前方には青い透明な壁が立ちはだかり、それが触れた木々は緑の泡となって融けだしている。少女の周囲全体に、壁が立ちはだかり、しかも迫ってきている。
「た、タクティ・・・」
最後の助けに縋った。しかし、帰ってきたのは冷たい声だけだった。
『ドール、戦わなくては殺されますよ。』
「で、でも、私は・・・」
『キングはただ今“お茶会”に到着されましたが、お席につきたくないそうです。』
その一言が、ドールを男から逃がしていた最後の意志さえへし折った。
一瞬何を言われたのか理解できなかった。むしろ、理解などしたくなかった。脳がじわじわと言葉の意味を呑みこむと、少女の足は恐怖で震え出した。
“お茶会”の席につかないというのは、つまり、いつまで経ってもこの盤は終わらないという事だ。
「・・・い、ま、今の、嘘・・・です、よね?」
『いえ、役に立たないドールなら切り捨てるとおっしゃっています。』
壁は狭まってきている。触れれば少女の肌は融けてしまうだろう。しかし、逃げ道はない。上に飛ぼうにも、壁の高さは少女の跳躍可能領域を軽く超えている。途中で落ちる事は明白だった。
しかし、融けて死ぬよりも、見捨てられて死ぬ方が怖かった。しかし、あくまで声は無情に言い放った。
『ただし、ご寛大な御心により、シールドの結界から一人で抜け出たならば席におつきになるそうです。』
「ぜ、絶対無理です! だって、私は・・・」
一瞬言おうとした事に躊躇いを覚えた。言ってしまっていいのかとも思ったが、足元で男が剣を振り上げるのを見て、少女は叫んだ。
「魔法なんか使えないんです!」
その一言に、頭の声も、足元の男も止まった。結界の動きさえ止まった。
重苦しい沈黙に、自分が言ってはいけない事を言ってしまったのだと悟った。同時に、足元から大笑いが聞こえ、頭の中では大きなため息が聞こえた。
『キングからです。役立たずな上に恥さらしな人形は、死んでしまえだそうです。』
血の気が一気に失せたのと、足元の男が少女の立っている木を根元から切り倒したのは同時だった。
「きゃっ・・・!」
眼前に迫る壁に、せめて守ろうと猫を抱え、ギュッと目を瞑った。
想像するのも嫌な肉の焼ける臭いを感じ、少女が口から呻き声を上げた刹那だった。
「サクラっ!」
声がした。聞き慣れた声にパッと目を開けると、目の前の青い結界はじわじわと崩れ、男を赤い壁が囲っていた。
不自然な体勢で宙に投げ出された少女がなんとか体勢を整えて着地したのと、空中に浮いていたカメラ兼スピーカーから怒号のような声が吐き出されたのはほぼ同時だった。
【座ったぞおおぉおおぉおぉぉお!!】
「・・・た、助かりました・・・」
へなへなと地面に座り込むと、おかしそうな笑い声が二つ、少女の前に立った。
「危機一髪だったね。」
「本当よ、間に合わないかと思ったわ。」
「いーちゃん! 楓君!」
笑顔を向けた少女に、カワセミの羽根のような美しい緑色の髪を腰まで流した少女は苦笑し、濃紺の髪を綺麗に切り揃えた少年は常に浮かべている微笑みを少女に向けながら手を差し出した。
「椋馬が間に合ってよかったわ。まさかキングがサクラの破棄を決断するなんて思わなかったけど。」
「うん、ほんとうに。」
二人の口調からしても、少女が口走ってしまった事は破棄には程遠い失態だったらしい。そう知る事で、少しだけ安心する。
二人の手を取ると、腕の中から猫が転がった。
「ありがとう、琥珀。」
少女の背中に張り付いていた子猫は、少女の肩に移動すると上目遣いに少女を見詰める。
小さな少女の従者は、喉を少女の頬に擦り寄せて煙となって空気に溶けてしまった。
「さ、こんな青臭い迷路の中にいないで、さっさとお茶会にでも行きましょう。」
「そうだね。ところで、荊。そろそろ彼を解放してあげたら?」
見ると、剣を黒塗りの鞘に納めた男がこちらを憤然と眺めていた。
「あぁ、ごめんなさい。忘れていたわ。」
少女がそう言うと、男は重い腰を上げながら少女を護るように立ちはだかる二人を見る。畏怖と嘲笑をない交ぜにしたような笑顔を浮かべながら。
「『薔薇籠の荊姫』に、『尾裂きの楓』か・・・。噂どおりの兵に、噂どおりの『踊れない踊り子』ってわけか。」
その侮蔑の言葉に、小柄な少女が大きく肩を震わせた。傷付いたような表情は凍りつき、小さな体を大きく震わせている。
「あんたっ!」
少年が少女を抱きしめたのと、緑の髪を振り乱し、大きな紫の瞳を怒りの為に赤紫に染めた少女が今にも相手に飛びかかろうとした時、空中のスピーカーから無機質な声が響いた。
【本日の娯楽盤は現時点を以って終了いたします。拘束具が通常発動し、以後の能力解除に制限がかかります。】
それを耳にした少年が鈍色の瞳を大きく見開き、慌てて少女に向かって叫んだ。
「荊、駄目だ!」
「でもっ!」
口惜しそうにしながらも、少女は二の句が継げなくなった。何故なら、先まで震えていた少女が自分の腕にしっかりと巻き付いていたからだ。
「いーちゃん、駄目です。やめましょう?」
泣いているのかと思うほどの震えた声音に、少女の闘争本能が大きく動揺した。
「・・・わかったわ。」
大きな溜息をつき、気持ちを落ち着かせると、腕に巻き付く少女を抱き上げて背を向けた少女に、男は情けないと言うように首を振った。
「仲良しごっこかい? 全くいい気なもんだぜ、破棄が決定した駒の為に拘束後も能力を使おうって言うんだから・・・」
声を聞かせないようにすぐ近くに用意されているはずの車に向かって走った少女の姿が見えなくなった瞬間だった。
体の前面に大きな衝撃が走った。的確に急所を突いたその打撃に驚いて視線を下げると、自分より三十センチ以上背の低い少年が微笑んでいた。
「黙ろうか。」
その微笑みに、寒気すら感じた。鈍色だった瞳は銀色に輝き、攻撃的に揺らめいている。その、男にしては小さな拳が鳩尾に入っているのだと認識するや否や、男は体をくの字に負って地面に倒れた。
それは男が今まで数えきれないほどくらった拳のどれよりも強烈だった。
「サクラ君の何も知らない下賤の駒が、僕達のやり方に口出ししないでもらおうか。」
冷やかに告げられた声を、がんがんと痛みを伴うこめかみで認識しながら、男はただ恐ろしさに身震いしながら地面で聞いていた。
「楓、遅いわ。」
「ごめん、手配をしていて。」
小型の三輪自動車の運転席に陣取った荊姫にそう答えて、楓は後部座席のサクラの隣に静かに座った。そのサクラはというと、小さな寝息を立てながら座席にもたれかかっていたが、頭は前後に振らついて非常に寝難そうだった。
「ずるいわよ。私には駄目だって言っておいて、自分ではそういうことをするんだもの。」
楓はそっとサクラを自分に寄りかからせながら、ぶちぶち文句を言っている荊姫に苦笑して見せた。
「サクラ君は一番君に懐いているからね。ストレス発散くらいは僕に譲ってくれたっていいでしょ。」
「・・・それとこれとは違うわ。それに」
言葉を続けようとした時、狙ったかのように別の声が割って入った。
『おい、いつまで待たせる気だよ。早く来いよ。』
内線から大きな不機嫌な声を聞き、荊姫は苛立たしそうに言い返した。その際、内線の音量を下げることも忘れなかった。
「五月蠅いわね。今行くわよ。」
苛立たしそうにしながらも、サクラを起こさないようにゆっくりと車を発進させた。
荊姫が指定された迷路の道順を進むと、そこは解放された駐車場になっていた。
すでに何台かの三輪自動車があり、規則正しく並んだそれらの一番端に車を停車させると、運転席から降りた。
サクラを抱いた楓を見て、若干嫌そうな顔をしたが、ぐっすり眠ったサクラに癒されたのか表情を緩めて歩き出した。
樹木でできた迷路の壁、その一部にここには不釣り合いな木製の人工的な白い扉があった。真っ白な扉には金色のノブが付いていて、その横には黒いスーツを折り目正しく着、サングラスをかけた厳つい男が何人も立っていた。
「拘束具をお見せください。」
その言い方は丁寧だったが気に障るものだった。
明らかに気分を害した顔を作ったが、相手の懐や腰にささった物騒な武器や、自分達を抑えつける文字通りの拘束具がある以上、荊姫はそれに黙って従った。
薄い、透き通るような緑色の髪を掻きあげ、左耳を露わにすると、その耳たぶには濃厚な赤色の石をあしらったピアスが輝いていた。髪の色と相まって、それは瑞々しい葉の中にひっそりと咲く、小さな薔薇のように見えた。
そのピアスを、手にしていたカメラのような照合機のレンズ越しに見て、男は呟いた。
「Rが配下、シールドの荊姫。称号を確認。どうぞお通りください。」
同じように楓とサクラのピアスも確認する。ただし、サクラには右側の耳にチョコレートのような色の黒曜石を嵌め込んだイヤーカフが取り付けられる。精神を安定させ、能力抑制を促す効果があるとされているからだ。
「どうぞ。お通りください。」
そう言って開けられた扉の向こうには、目も覚めるような花園が広がっていた。
木々や木の花、噴水などで形作られた美しい庭には、白いテーブルクロスがかけられた丸テーブルと、木製の椅子が数多く並び、人々のそれらの中心に大きな長テーブルが据えられている。その上には、サンドウィッチやスコーン、クッキーやフルーツなどの軽食が並び、アフタヌーンティーのようなお茶会になっていた。
「相変わらず・・・金に糸目をつけないものね。」
茶器だけでなく、それを用意しているシェフや給仕の手さばきから、かなり値の張る食材を使っている事に荊姫は呆れとも侮蔑ともつかない呟きを洩らした。
「最近、本国の支援がさらに充実しているからね。『閃光の黄皇』に、『堅陣の殻龍』、『共闘の獅子』なんて大層な名前まで付けて三つ巴対戦。」
現在、王座を争う三つのボックスの異名を口にしながら、楓は周りを見渡した。
すると、あるひとつのテーブルを人々が大きく避けている事に気付いた。そのテーブルに近付くと、そこには殺気だった青年が料理を次々に口に放り込んでいた。
目立つことこの上ない濃厚な金髪は四方に跳ね、赤みがかった茶色の瞳は、親の仇を見るような物騒な光が宿っている。
「椋馬、待たせたみたいだね。」
「おせーよ。」
楓が声をかけると、椋馬は不機嫌そうに眉を顰めた。その声は三輪自動車から荊姫達を急かしたものと同じだった。
サンドウィッチを口に放り込んでは咀嚼して行くその姿に、荊姫は非難めいた視線を向けた。
「どうせ私達の到着なんて待ってないでしょう。」
「待ってたけど、遅かったから先に食ってたんだよ。腹減ってこっちは死にそうだったんだ。」
口に放り込んだクラブサンドを飲み下しながら、青年は楓の背に目をやった。
「・・・怪我したか? 間に合うようにしたつもりだったんだが。」
その声に覇気が消えたのを感じて、荊姫は椅子を引きながらなるべく明るく答えた。
「私と楓の活躍で無傷よ。たぶん、体力を使い過ぎたんじゃないかしら。」
「俺が間にあったからだろ。たくっ、俺を抜きに助けに行きやがって。」
ぶつぶつと文句を言うさまが先ほどの荊姫とそっくりだったが、楓は敢えてそれを口にしなかった。用意させていたロッキングチェアにサクラをゆっくりと降ろし、膝かけをかけてから自分も椅子に座った。
「だって・・・キングもタクティクも動かないじゃない。」
苛立たしそうに呟く荊姫は、運ばれてきたアイスミルクティーをストローで大きくかき混ぜた。凹凸のないように丁寧に削られた氷は、グラスに当たって涼しげな音を立てた。
「・・・まあな」
応じる椋馬も納得できないと言うようにローストビーフを次々に消化している。気落ちした声音とは反対に、食事をする手は早まる一方だ。
「そう言えば、その二人はどうしたんだい? 今日は珍しく“お茶会”に出るようなことを言っていたけれど。」
一人だけ調子を崩さずに、穏やかな声音で楓が椋馬に尋ねた。その手が持ったカップには、高級茶葉が台無しになる程の砂糖が入っていることを荊姫も椋馬も知っていたが、敢えて突っ込みを入れなかった。突っ込んだだけ無駄だからだ。
「帰ったぜ。不愉快だからってな。大方、酒場でうさ晴らしでもするんじゃないのか?」
「そんな事だろうとは思ったけど・・・今の状況で、娯楽盤とは言え参加するなんて、馬鹿なんじゃないの?」
苛立たしげに吐き捨てる荊姫は手元のケーキにザクザクとフォークを突きたて、最早原型すら残っていないそれをコーンフレークのようにスプーンで掬って口に運ぶ。
「最近は何を考えているか分からないからね、うちのキングも。」
そう楓が口にしたのを機に、不愉快な話は終わりだと言って椋馬が食事の速さを上げた。
食べかすが盛大に飛んできたことに激怒した荊姫が椋馬と取っ組み合いの喧嘩を始め、楓が皿や椅子、テーブルの破壊音がまるで聞こえていないかのように、騒音で起きてしまったサクラの口に飲み物や食べ物を、親鳥よろしく運んでいる。
一見和やかな、微笑ましい情景だったが、この四人を囲む人々は恐ろしい物でも見るかのように呼ばれない限りこの輪に入ることはなかった。
恐怖と侮蔑と好奇。
様々な感情込めながら見遣った。
──かつて『死線上』と謳われ、誰からも畏怖されながら、現在は地に落ちた駒達を。
【一】
ある太陽系に、月を二つ従えた水の惑星がある。星の約七割を海が占め、残り二割弱が大陸で構成されている。太い三日月型の大きな大陸─一般に本国と呼ばれる─が赤道よりも北寄りに東西に延び、他には様々な形の小島が数百、大陸から離れた所に点在している。
そして、赤道をはさんで反対側に、大地の一割強を占める楕円型の大陸がある。
かつては不毛の土地であったが、本国の科学技術が発達する事で開墾され、現在はある定められたモノだけが住んでいる。
本国の人々は、この楕円形の島を一つの国家として、畏怖と軽蔑の意味を込めてこう呼んだ。
──盤国
盤国の住人は本国の人間の暇潰しの為に生かされている。殺し、殺され、捨てられる。余暇に、賭け事に、平和の維持の為に、特殊な白兵戦を行う盤国の住人を、いつしか盤の上に生かされる存在、駒と呼び、その駒が形成するチームをボックスと呼ぶようになった。
「朝・・・。」
荊姫が目を覚ますと、太陽はすでに頭の真上に移動しようとしていた。最早朝ではなく、昼に近い時間帯だったが、荊姫は特に気にしない。
ゆっくりと身を起こし、よく働かない頭で辺りを見渡した。
荊姫は盤の駒という立場上、盤国によって用意された宿舎がある。といっても、普通の学生が住む学校の寮のような鉄筋コンクリート製で、多くの人間が一所に住んでいるわけではない。
同じボックスの六人のメンバーのみが住む、洋館のような外観の風雅な佇まいの宿舎だった。食堂や談話室もあるが、個人使用のバスルームやキッチンまで完備された豪奢なもので、駒それぞれに与えられた個室もオーダーメイドで特注された家具や調度品を揃えている。
現に荊姫の部屋は洋館には似つかわしくないエスニック要素の強いシックな部屋だったが、サクラは花柄、もしくは花で埋もれるような植物園のような部屋に住み、椋馬の部屋は目が眩むような迷彩柄の壁紙でサバイバル気分を味わえるようなものだった。そして楓は、何故かお寺の境内のような部屋に住んでいる。
個人の趣味に口出しをするべきではないと思いつつも、自分の部屋が一番まともなのではないかと思いつつ、荊姫は着衣を済ませ、髪を梳く。腰まで流れる髪を丁寧に梳き、片耳に輝く拘束具に顔をしかめながら、化粧台に櫛を置いた。
フリルのついた木綿のワイシャツの首下では、カメオのブローチで黒味を帯びた赤いリボンを留めている。サスペンダーで吊ったハーフパンツ、黒のストッキングと茶色の編み上げブーツを履いた姿は、今から乗馬に行くと言っても通用するようなものだった。
身だしなみのチェックを終え、食堂に向かおうと部屋から廊下に出た荊姫に横から声をかける人物がいた。
「おはようございます、シールド。」
その声に振り返ると、荊姫は眉を顰めた。
洋館に似つかわしい赤絨毯の敷かれた薄暗い板張りの廊下に、ひっそりと男が立っていた。
黄土色の髪を撫でつけ、年代物の黒縁眼鏡の柔和そうな黄緑色の瞳を細めてこちらを見つめる、本来ならばここにはいないはずの青年。黒いローブのような長裾のスーツが、髪型と相まって余計に老けて見える。
荊姫の表情の変化に苦笑しながら、青年が距離を詰めた。それを見て余計に不機嫌そうに眉を顰めた荊姫だったが、一歩も引かずに相手と対峙した。
「・・・何であんたがここにいるのよ、槐。」
威嚇するような荊姫の言動に苦笑しながらも全く動じない槐は続けた。
「私はキングからの予定をお伝えする為に参っただけですよ。貴方方はキングや私が一緒にいる事を好みませんしね。」
「良く分かっているなら、予定なんてメールで知らせればいいでしょう?」
冷笑を浮かべながら反論するも、相手も少し困ったように笑いながら理由を説明した。
「ドールに伝言がありまして。」
「・・・これ以上、サクラに何をするつもりなの?」
サクラの役名が出た途端、荊姫は警戒を強めて低く問いかけた。その言葉に、心外だとばかりに槐は両手を挙げて無実を訴えた。
「その言葉では、キングや私が以前にも何かしたように聞こえますが?」
「してるじゃない、現に! あの子を苦しめて何が楽しいのよっ! 今は今、過去は過去でしょうっ! これ以上、サクラに重荷を押しつけるのはやめなさいよっ!」
激昂したように叫んだ荊姫の脳裏には、初めて出場した盤でのサクラの痛ましい姿がこびり付いていた。それ以降、サクラの頬笑みには影が纏わりつき、荊姫達が守れば守る程濃くなっていく。どんなに守りを固めても、傷付かないように配慮してもサクラは盤で必ず傷付いてきた。
──『踊れない踊り子』
この蔑称がどれほどサクラを傷付けているのか、荊姫には分からなかった。まだキングに慣れないサクラが、死線上と呼ばれたボックスの為にどれほどの重圧に耐えているかも分からない。
歯痒く思いながらも、荊姫達三人はサクラに言い聞かせた。自分のペースでいいのだと。
しかし、容赦なく入る盤がそのゆとりをサクラからどんどん奪っていく。
その盤を仕組んでいる目の前の男と、顔も見たくない男に荊姫は自分自身に対するやるせなさや情けなさを混ぜた怒りとしてぶつける以外に発散する方法が思い浮かばなかった。
しかし、無情にも苦笑しながら槐は言い放った。
「彼女には彼のキングのドールとして、最低ラインの技術を求めているだけです。」
表情は困ったように笑っていても、その声音はしっかりとしていた。自分は間違ったことはしていないと、信じて疑わない自信がそこに感じられた。
それが、荊姫を余計に苛立たせた。
「よく言うわよ。あんた達の基準なんて、半年前の死線上って言われてた時の基準じゃないっ! 私達はその上級盤上から堕ちたのよ。いい加減に現実を見て、それ相応の盤と人員配分を・・・っ!」
荊姫は言葉を詰まらせて、信じられない物を見た様に目を大きく見開いた。その様子にきょとんとした顔の槐が「どうしました?」と声をかけたが、反応は返ってこなかった。
そして、ややあって荊姫は喘ぐように言葉を発した。
「・・・キング」
囁きは吐息のように無意識に零れ落ちた。
廊下の突き当たり、ちょうど階段へと続く階段を上り切った場所付近にその男は静かに立っていた。
背の高い男だった。仕立てのいい長い上着を優雅に翻しながら近づいてくる。燃えるような紅い髪が白く、滑らかな肌の上を滑っている。顔に密着した目元と頬を覆う白く硬質な、無表情の仮面の上を。
槐の時とは違い、荊姫は一歩後退した。
高圧的に発される気配と威圧感に負け、廊下を踏むと木とヒールが擦れて高い音を立てた。
堕ちたとはいえ彼は荊姫のキング、主人なのだ。そしてかつてはバンコク全ての駒の頂点に手をかけた、王になりかけた選ばれた者だった。それは今もなお、変わらない。
「おいでになられたのですか?」
槐も荊姫ほどではないにしろ驚いた顔をしていたが、自分の方に向かってくる男に静かに道を譲って、自分は廊下の隅に体を移動させた。
「あぁ。」
短く答えた男は、荊姫の二メートル前で静かに足を止め、自分を愕然と見上げている荊姫を睥睨するように見下ろした。
頭上から降り注ぐ威圧感に荊姫は気圧されながらもゆっくりと口を開いた。
「・・・槐にサクラへの伝言を言いつけたんじゃないの? 何で貴方がここに来るのよ。」
その言葉にはこの場所に絶対に来て欲しくなかったという、縋るような祈りの念が込められていた。それを無視して、男は冷やかに告げた。
「貴様には関係のない事だ。」
しかし、この発言は荊姫の苛立ちを増幅させ、声を出す原動力になった。
「えぇ、そうね。貴方が私のキングでさえなければ、そしてサクラに危害を加えなければ、私にだって関係ないわ。」
軽蔑の視線で男を見上げると、薄く形のいい唇がうっすらと弧を描いていた。
男は、ぞっとするほど妖艶で底冷えするほど美しい笑みを浮かべていた。
仮面に隠れて目元は見えなかったが、荊姫は背筋に怖気を感じた。
「・・・何がおかしいのよ。」
不気味な笑みに困惑しつつ、問いただす。すると、くっくっと喉の奥でさも可笑しそうに笑いながら男は愉快そうに言葉を寄越した。
「相変わらずご執心だな。女の身でありながら、女を好いていると見える。酔狂なことだ。」
「あんたみたいな好色に何を言われようと関係ないけれど、サクラは私の大切なチームメイトよ。変な目で見るのはやめてちょうだい。サクラが汚れるわ。」
あまりにもあんまりな物言いにサクラが絡まずとも荊姫は気分を害した。目の前の男に言われる以上に嫌なことはない。
そんな荊姫の心情を見透かしたように、男はいまだに喉の奥で笑いながら意地悪く言った。
「少しは汚れてこの世界の厳しさを知るのもいい手だな。まぁ、俺はあんな子供に興味はない。せいぜい色々と教えてやるんだな、三人で。」
「貴方に・・・そんなことを言われる筋合いはないわっ! そもそも、私達以外に誰が・・・っ!」
言葉を続けようとした荊姫の前に、騒ぎを聞きつけて部屋から出てきたのだろう楓が進み出た。ワイシャツに黒いスラックスという質素な出で立ちは洋館の中では目立たないものだったが、この緊迫した空気の中では異様なほど存在感を露わにしていた。
手で荊姫を優しく後方に押しやり、落ち着くようにと目配せする。
荊姫がはっとなって正気付いたのを確認してから、楓が男に凛とした姿勢で向き合った。
「聞き捨てならないね、キング。僕達がキングではなくサクラ君を優先する理由なんて、分かり過ぎるほどに分かっているはずだよ?」
「小娘を囲って遊んでいるようにしか見えんな。どの道、いい御趣味なことだ。」
挑発的な物言いに楓は動じず、槐とは違ったにこやかな笑みを浮かべた。槐と荊姫の背筋を冷や汗が滑り落ちた。
槐の笑顔は自分の正義に基づくものだが、楓は相手の正義すら捩じ伏せるような悪意すら含んでいた。ある意味、対峙する仮面の男と非常に近い威圧感だった。
「君の認識能力がそこまで低下しているようなら、これからの盤にも大きく支障が出そうだ。言っておくけれど、これ以上の関係悪化で一番損をするのは他でもない君だよ。僕や椋馬の行動に制限ができる場合もあるし、サクラ君の成長にだって影響するだろうね。特に荊の防壁は大きく弊害を受けるだろう。君や君の右腕を直接個別に防衛することができなくなったら、厄介なんじゃないの?」
「・・・。」
そこで初めて、仮面の男が黙った。
荊姫は正論で男をやり込めた楓に感心と若干の薄ら寒さを覚える。
盤というゲームはチーム戦ではあるが、チームワーク以上に駒同士の関係性が勝敗を左右するという特殊なものだ。
プレイヤーをキングとし、その配下の駒として攻撃のソード(剣士)、守備のシールド(門番)、策士のタクティク(執事)、刺客のドール(踊り子)、替え駒のポーン(兵士)の6人で行う。
駒には一般人である只人の基準を大きく超える、または只人にはない能力を備えている。その能力をどのように、どのくらい盤上で発現できるかを調整するのがキングの役目の一つである。天気や気温、湿度、風の動きから盤上の具合ひとつとっても駒の能力は大きく変わってくる。その動向を瞬時に悟り、力の調節を行うには、いかにその駒との信頼関係が築けているかが重要になってくる。いわば信頼関係はキングと他の駒を繋ぐパイプなのだ。関係が良ければパイプについた調整弁を容易く調整できる、関係が悪ければパイプも調整弁も錆びついて使い物にならない。
このような複雑な読みを必要とするところが、盤を公営賭博として扱う本国の人間の遊び心に火をつける。頭脳戦のようなスリルがいいらしいが、それは駒である楓や荊姫にとっては理解できないものだった。自分達から離れた安全な場所で遊んでいる人間に吐き気さえ覚えたこともあった。
吐き気がするという意味では本国の人間とあまり変わらない目の前の男は長い付き合いであり、自分の駒の癖を熟知している。見なくても力の調節は難なくこなせるだろうが、その調節弁の役割を十分に果たすには遠距離であっても相手を捕らえられる良好な関係が必要になってくる。
そして現在、男と駒達の間には深い溝ができていた。これ以上溝が深まれば、なんとか力を維持している主戦力三名の能力にも関わってくると誰もが予想がついた。
だからこそ、しばらく距離を置いてお互いに落ち着こうとしていたのにも関わらず、男は駒達を挑発するような言動を取り続けていた。
楓にとっては自滅したいのかと思うような言動の連続に、自分のキングを振り仰いだ。しかし、言いたいことは一欠片も言葉となって口から出て来なかった。
以前はしていなかった仮面の下の双眸を思い出し、胸が締め付けられるような痛みを伴って胸中の問いかけを吐息として吐き出すしかなかった。
何を問うても、今のままでは溝を深めるだけだと理解していたからだ。
その時、小さな足音が階段を上って来たのを聞き取り、重い空気にのしかかられて俯いていた顔を上げると、透明な薄紅色と目があった。
「サクラ君・・・。」
自分の召喚獣である琥珀にそっくりの人形を胸に抱き、緊張した面持ちで階段を上り切った場所に立ち尽くした少女を男は振り返った。
詰襟やゆったりとした袖、裾に薄紅色の花弁の刺繍を施した白い上着に覆われた肩や腕、黒いタイトなハーフパンツと灰黒色のパンプスを履いた華奢な足が震えていた。冷凍庫の中に裸で放り込まれたような激しい震えが、どれほど目の前の男に恐怖を抱いているかを如実に語っていたが、荊姫や楓がサクラを庇う前にサクラは意思の力でその震えをぴたりと止めていた。
そして、冷や汗を滲ませた額を拭うこともせず、真っ直ぐに男を見据えて口を開いた。
「・・・キング。」
小さな呼びかけが空気を震わせた時、楓は思った。
──まだ、駄目だ、と。
言いたいことや伝えたいことがたくさんありながら、それを全て口にする事はできない。だからこそ、その時間を作る為の関係を持ちたいと健気にも望んでいることが痛いほどよく分かった。だからこそ、目の前の男がどんな反応を返すかも分かってしまった。
吐息のような、けれど精一杯の勇気を出して絞り出したサクラの呼びかけに応えることもなく、男は楓と荊姫に視線を戻し、自分の駒達に明言した。
「・・・明後日、格闘盤への出場が決まった。集合は十二時にオリンピア第六発着場。レベルはDの一。」
「なっ!」
階級を聞いて今まで沈黙していた荊姫も、一時は男を黙らせた楓も絶句した。
盤には娯楽盤と格闘盤の二種類がある。
娯楽盤はヒントを元に、盤上に隠された宝や椅子を探し出す等のアドベンチャー式の盤である。これは下位の駒でも楽しんで行えるもので、本国では老若男女問わず人気がある。効力を少し落としたとは言え拘束具を付けたまま行う為、たとえ負傷してもかすり傷、悪くて脳震盪か骨に罅が入るくらいだと言われている。
しかし、格闘盤は非常に危険なサバイバルゲームだ。
拘束具を完全開放し、本来の力で駒同士がぶつかり合う。死者が出ることは稀だと言われているが、これは本国への建前に過ぎない。
再起不能になって二度と駒として使えなくなり破棄されたり、ボックス自体が機能しなくなって解散したり、そのまま行方も知らないまま消えてしまった駒が何人もいたりする盤だ。
高額な賭けも格闘盤で行われ、本国の多くの富裕層によって絶大な支持を得ている。
盤のルールや勝敗はその都度大きく変わるのだが、基本的にはキングが倒された時点で負けである。この倒すには、もちろん死亡の意味も含まれる。
だからこそ、不完全なボックスで自分の命を危険にさらす目の前の男に槐以外のその場の全員が瞠目した。
当の本人は気にした様子もなく、こう続けた。
「今回の娯楽盤でもドールの力が発現しないのがよく分かった。ならば、本格的な盤で最終的な実力を見る。これによって、今後の駒の構成を変える。勝つためならば・・・俺は誰の犠牲も厭わん。」
それが自分の命であっても・・・そう言って男は身を翻した。長いコートがマントのように翻り、艶やかに空気を裂いてエントランスに向かう。
立ち尽くし、信じられないものを見るような目をしているサクラの横で一度立ち止まり、男は静かに呟いた。
「ドールという自覚があるならば・・・俺の為に力を発現させるんだな。それができないならば、他の方法で相手を殺すがいい。」
死神のような冷たい声音に、サクラは大きく目を見開いて男を仰ぎ見た。しかし、男はその視線を避けるように階段を下りていく。男の後ろを三歩下がって付いて行く槐が廊下に呆然と立ち尽くす三人に向かって小さく会釈をしてから、階段を降り始めた。
サクラがエントランスに向かう男達を目で追っていると、気配は静かだが、非常に派手な人物が柱に寄りかかっているのが見えた。
あちこちに跳ねさせた金髪はエントランスから入る日差しできらきらと輝き、金糸のように繊細な顔立ちを縁取っている。
あちこちにベンツが入った半袖の上着にダメージのあるスラックス、使い古された革のブーツやハーフフィンガーグローブという黒ずくめのラフな格好の椋馬が片手を上げて男に話しかけた。
「よぉ、R。もう帰んのか? さっき入ってきたばっかじゃん。茶でも飲んでけば?」
「・・・。」
そのどこか惚けているとしか思えない問いかけに、サクラの近くで動向を見守っていた荊姫が殺気立った。しかし、楓とサクラがそれを宥めているのをいいことに、椋馬は男に話しかける。
「最近“お茶会”にも出ないしさ。前はあんなに楽しみにしてたのにな。あんた、酒より紅茶のほうが好きだろ? あんたが好きな茶葉、まだここにたくさんあるんだよ。」
まるで離れてしまった友人に語りかけるような椋馬の言葉に男は立ち止まったまま動かなかった。槐も心なし、悲しそうに俯く。
「てゆうか、あり過ぎ。毎日毎日楓達が、特にサクラが嬉しそうに飲んでるけど全然減らない。むしろ何故か増えてる。このままじゃ、折角のファーストフラッシュのダージリンも日が立ち過ぎて風味が落ちちまう。あんたがここで毎日茶だけでも飲みにくれば俺らも助かるんだけど、そう言うわけにもいかないだろ、今はさ。だから、今日くらい飲んでけよ。茶菓子ならさっき楓が作ってたし。」
どうだというように椋馬が楽しそうに提案する。サクラはそんな椋馬に目を見開いた。
サクラが知っている椋馬は、こんなふうにキングである男を迎え入れようとする姿勢を見せたことがなかった。しかし今、何処か楽しそうに男をお茶に誘う椋馬には楽しげな、しかし懐かしい風景を思い描くような期待が感じられた。
椋馬の目に浮かぶ情景は分からないが、それは楽しそうだと賛成の声を上げようとした時、男が歩き出した。
「あっ・・・」
サクラの悲しそうな声に槐が申し訳なさそうに、後ろ髪を引かれるような顔をしたのを椋馬以外は知らない。
男が横を通ろうとした時も、椋馬は動かなかった。しかし、早口に告げた。
「別に俺はサクラの為だけに言ってるんじゃない。あんたが何を思って今の盤に臨んでるかなんてのにも興味はない。今更あんたと慣れ合おうなんてのも思わない。だがな、それでも以前のあんたを認めてた。盤ではあんたの統率力があったから、俺達は死線上なんて呼ばれるまでに成長もした。」
「・・・。」
その言葉に再度男が立ち止まった。視線は前方に固定されたまま、しかし、椋馬の言葉に静かに耳を傾けているのがよく分かる沈黙だった。
「あんたみたいな唐変木でも楽しそうにするのかと思えば、こっちだって茶に付き合うくらいの心構えはある。昔のままってのは無理でも、少しは肩の力を抜いて話し合うくらいの場を設けるくらい、あんたには訳ない。俺達にはそれが分かってる。そして俺たち以上にあんたは分かってる。」
「・・・。」
「だからこそ、俺はあんたに問う。」
椋馬の目には苛立ちや怒り、そして微かな哀れみや悲しみが見て取れた。やりきれない何もかもを詰め込むかのように、椋馬は言葉を吐き出した。
「あんた・・・どうしちまったんだよ?」
それは荊姫や楓が胸に、喉に詰まらせて口に出せなかった言葉だった。
悲しいという絶望や虚無感をめいっぱい詰めたその声に、サクラの方が泣きそうになって男に手を伸ばした。届かない距離のまま空気を掴むかのように手を伸ばした。
『キング。』
唇だけが、男の役名を呼んだ。声は、出なかった。
静かでありながら断末魔の様な、叫びにも似たその声を聞いても男は視線を向けることはなかった。話は終わったとばかりに再び足を動かし、今度は二度と立ち止まることもなく表で待たせていた黒塗りの車に乗り込んだ。
エントランスで律儀にも一礼して男に続こうとした槐が顔を上げた時、声がかかった。
「槐。」
「はい?」
「これ、持ってけよ。俺たちじゃ、無駄にする。」
そう言ってどこから出したのかよく分からない、赤いチェックの可愛らしい布の掛けられたバスケットの取手を掴み、横に移動させて無造作に手を放した。
重力に従って堕ちるバスケットに無意識に手を伸ばし、槐は中身を確認した。
中には英語がプリントされたシックな紺色の缶と、焼き立てなのかまだ温かいスコーンと、小瓶に詰められた数種類のジャムが入っていた。
「ありがとうございます。」
「・・・俺は、諦めたわけじゃない。」
何をと聞こうとした時、椋馬の雰囲気が一瞬で変わった。射るような目付きは鷹を思わせ、裏側まで見透かされているような気分になった。
それだけで、何を諦めたわけではないのかを悟り、槐は苦笑いした。
「できれば、早々に飽きていただきたいものです。」
「お前達の隠し事には慣れてる。いちいち詮索する気も最近はなかったんだが・・・今は事情が事情だからな、勝手に探らせてもらうぞ。」
「お手柔らかに。」
そう柔らかに、楽しそうに笑った槐は静かに踵を返して車に乗り込んだ。
槐が乗り込むのと同時に車が発進する。
「キング、紅茶とお菓子をいただきましたよ。」
「・・・。」
「紅茶はさっきソードが言っていたファーストフラッシュのようです。お菓子は・・・スコーンですね。こっちのジャムは苺に、梅でしょうか。他にもこの季節の果物を使った物がたくさんありますよ。」
槐は心なし楽しんでいた。過去の物になってしまったかもしれないと思った、椋馬の分かりにくい心遣いが心地よかったのかもしれない。いつの日か、また六人でお茶会ができたらいいのにと無意識に思っていたのかもしれない。
「そういえば、あの方もよく・・・」
その時、槐は隣に座っている男から漏れた苦悶の声にぎょっとして振り返った。そこには、身を折って苦痛に耐えるようなその姿は、かつて死線上と呼ばれたボックスのキングだった男が、過去に一度だけ見せた絶望の様子にひどく似た、痛ましい姿だった。
獣のような唸り声を上げる男に、槐は声をかけるべきか悩んだ。そして、同時に自分の軽率さを悟った。
──まだ、この話をするのは早すぎたのだ、と。
傍若無人な態度の下に隠れた、槐にも分からない苦しみにいまだに苛まれる男の姿を見れば、椋馬の最後の言葉が蘇る。
『勝手に探らせてもらう。』
それだけは絶対にさせない、まだ何もかもが早すぎる。仲間内にもまだ話せない。だからこそ、突き放してでも、幸せな夢を自分の手で踏みにじったとしても、椋馬に探らせるわけにはいかなかった。
決意も新たに、浮かれていた気分をいつもの冷めたものに切り替えた時には、苦悶に口元を歪めていた男はゆっくりと身を起こしていた。
車の背凭れに深く身を沈め、目元付近を覆う仮面を大きな掌で覆い隠し、ふぅっと深く息を吐いた。しかし、全身から発せられる殺気はいまだに消えない。
「キング・・・。」
苛立ちと悲しみを押し殺そうとするかのような呻きが再び漏れ、槐は体を少し震わせたが、男は何もないと具合を尋ねようとした槐を手で制し、代わりに気だるそうに手を振った。
「・・・それはお前が処分しろ。」
俺は食べない。
ひどく疲れたように窓の外に視線を向ける後ろ姿に何とも言えないものを感じながら、槐も自分の座席に近い車窓から外を振り仰いだ。
不似合いなほどに青空が綺麗で、眩しかった。
一方、男と槐が帰った後の宿舎の居間は大いに荒れていた。
「何なのあれ、何考えてるのっ!?」
「さあ・・・何が何やら・・・」
洋館に合わせた落ち着いた色合いの壁紙、怪足の長い絨毯の上には洒落た調度品が整然と並んでいる。どれも色は淡い色を基調にし、アンティーク調の棚には普段四人が使う食器や書籍が収まっていた。
窓からたっぷり光が入り、オープンキッチンと繋がっている居間には、猫足のテーブルの上に午後のお茶と茶菓子が所狭しと並んでいた。テーブルを囲むように並べられた広いソファーを一人で占領しながら椋馬は呆れた様な視線を荊姫に向けていた。
横にある一人掛けのソファーの上に行儀悪く胡坐をかいた荊姫が、先ほど訪れた男たちへの罵詈雑言をまくし立てていた。言葉に色があったならば、おそらく荊姫の口から炎のような色をして吐き出されていたに違いない。
突然の格闘盤への出場に怒りを露わにしたのは意外にも荊姫だけだった。
無論、納得できないことは多くあったが、すでに決まってしまったことは仕方ないと言う諦めが他の二人の間に漂っていた。無論、サクラは緊張で格闘盤への相談なしの出場に関しての抗議など最初から頭にない。
「どうしましょう・・・椋馬君、はい。」
「サンキュー。うーん、今から考えてもしょうがないし、一日、二日で魔法が使えるとは思えないからなぁ・・・とりあえず、護身術だけでもおさらいしといてくれると助かるな。」
荊姫の対面に位置する一人掛けのソファーに何故か正座していたサクラから紅茶を受け取り、最善の策を考える。
さすがに格闘盤では率先して守ることはできないと、椋馬は紅茶に口を付けながら言った。
椋馬には只人にない特殊能力はない。その代わり、ソードと呼ばれる駒は尋常ならざる運動神経と頑丈さを有していた。体力や瞬発力、持久力、腕力、脚力など人間の運動能力を極限まで引き出したのがソードという駒の特性だった。
サクラは見たことがないが、痩身で十代後半に見える椋馬は盤の最中にコントロールを誤って盤上の土を割ったことがあるらしい。無論、しばらく謹慎をくらったのは言うまでもない。
対するサクラのようなドールの駒は魔法と呼ばれる特殊能力が使える。そして、それによる遠距離攻撃を行い、キングを倒すことが唯一許される駒でもある。
小説や映画上のように万能ではないにしろ、姿を消したり、武器を使わずに攻撃を行ったり、想像上の獣を召喚したりと何かしら盤の局面を覆す力がある。
一人のドールがどんな、そしてどのくらいの数の能力を有しているかは本人達にも分からないらしいが、努力次第で増やすことができると言われている。
今現在、十代前半と幼いサクラは相棒の琥珀を召喚するだけで体力の限界を迎える為、ドールとしてはかなり低級な駒に分類される。しかし、魔法以外の点において、サクラは椋馬に次ぐ運動神経を発揮していた。跳躍力や脚力、動体視力などは椋馬とそう変わらない。コツさえ掴めば護身術で十分自分の身を守れるくらいには強かった。
いっそソードになった方がよかったのではないかと今となってはどうしようもないことを考えたこともあったが、直接的に刃物や素手で敵を倒すソードはどう考えてもサクラには向かなかった。そう考えると、駒というのはよくできていると思った。
「護身術・・・はい、頑張ります。」
素直に言ったサクラの頭を注意深く撫でてやる。少しの加減で大惨事になってしまうのがソードである椋馬には辛いところだった。拘束具をつけていても、コントロールを誤れば・・・想像したくもない光景が目の前に広がることははっきりしている。
「そうだね・・・格闘盤ならば狙われるのはキングばかりだし、サクラ君が上手に隠れていてくれれば僕達だけで早々に方が付くかもしれないね。」
いつの間にかサクラのすぐ横に、机を囲っていなかった一人掛けのソファーを運んできた楓がうんうんと何やら納得顔で断言した。
スコーンにこれでもかというほどの手作り苺ジャムと生クリームを乗せた楓に、椋馬とサクラは唖然とした。最早生クリームとスコーンのどちらを楽しみたいのか分からないほどだ。生クリームが本体に見えて仕方がない。
「・・・楓、糖尿病になっても知らないからな。」
「そんな心配はいらないよ、運動ならしているからね。」
そういうことが言いたいんじゃないと椋馬は思った。サクラは生クリームでできたバベルの塔が繊細な口に消えていくのを、まるでサーカスでも眺めるような心地でわくわくしながら見詰めていた。確かに、下手なサーカスより楽しいだろう。
椋馬やサクラと違い、楓にはこれと言った特殊能力がない。よって、体力を維持する為に食事を大量に摂取する必要もない・・・のだが、楓も量を食べる。しかも、甘いものばかり。
ポーンの楓は戦力的にも防御的にも他の駒に劣り、攻守を一通りこなせるだけの替え駒だと認識されている。ソードかシールドが失われた際、一定期間その代役を引き受けるのがポーンの役割の一つだが、ポーンは決してそれだけの駒ではない。ポーンは段階を踏んで覚醒し、飛躍的にその能力を伸ばしていく。その土台である本人に資質があればある程、どんどん強くなっていく。そんな面白みを秘めた駒でもある。
現在の楓は非常にバランスの取れた攻守の才能を発揮し、わずかではあるがタクティクのような能力も発現させていた。これからが楽しそうだというのは、槐の胸の内の言葉である。
「おいしいですか、楓君?」
自分は決してしないことをしている年長者に対して好奇心を刺激されたのか、無邪気に聞くサクラに、楓は笑顔で応えながら手にしていた食べかけのバベルの塔をその可愛らしい口に放り込んであげる。それを目にした椋馬が盛大にむせた。
「おいしいかい、サクラ君?」
「はい、でもちょっと甘いです・・・。」
想像以上の甘さに若干目眩を起こしているサクラに楓は艶やかに微笑んで、口だけでなく頬にまで付いた生クリームに手を伸ばした。
「サクラ君、付いているよ。本当にかわい・・・」
「あああああ、近付かないでっ!」
サクラの貞操の危機を察した荊姫が素早く魔の手からサクラを救い出し、椋馬と自分の間に座らせてその口の周りを紙ナプキンで拭いてやる。
只人ではあり得ない身のこなしでサクラを死守した荊姫はシールドという駒だ。
シールドはドールと非常に近い属性を持ち、盤上に結界と呼ばれる防壁を展開することができる。ただし、攻撃用の能力はない為、シールドは自分を守る際は結界かソードのように直接的な攻撃方法を身につけている。荊姫は前者も後者も得意とするタイプのシールドであり、結界の硬度も高かった。
シールドが展開する結界には多くの種類があり、弾力を持つ物や形が絶えず変わる物、その中に入った人間を視覚的に消失させる物、移動可能なものなど様々だ。これも、シールド自身の資質によっていくつもの特性が付加される場合がある。
「自分でできますよ。」
「駄目。サクラは擦ってほっぺが赤くなるし、髪にも飛び火するから。」
そう言って綺麗に拭ってやる目は、生き生きとしていた。基本的に荊姫は面倒見がいい。朝が弱い為、朝食は楓任せになってしまうが、その他のこの宿舎の家事はたいてい荊姫がこなしている。
椋馬はその様子を遠い目をして見守っていた。かなり昔に逆の立場で荊姫が同じ事をされていたのを思い出し、懐かしいような苦みが込み上げてきた。寂寥感に飲んでいた紅茶が渋くなったような気がした時、荊姫が声を上げた。
「ジャムがないっ!」
見れば荊姫が気に入っている小瓶入りのジャムが全て空になっていた。その犯人は探すまでもない。サクラを取られた腹いせに楓が生クリームのバベルの塔と共に驚異的な速さで胃袋に収めていくのを椋馬は温かい紅茶をすすりながら呆然と眺めていた。
自分とほとんど変わらない速さで食事をするこいつは本当にポーンなのだろうかと思いながら。
「楓、荊姫がご立腹だぞ。」
「彼女はいつもご立腹だよ。最近は特にね。」
平然と言ってのけるところがさすがだと思ったが何も言わなかった。そんなことを言おうものなら荊姫の怒りの火の粉で“お茶会”の時のようになってしまう。
騒がしく言い合いをしているが、何故か楽しそうに見えるから不思議だと椋馬が思っていると、サクラが羽のように軽い動作で椅子から立ち上がった。その動作に、椋馬はふとサクラに提案した。
「サクラ、何処か行くか?」
「え、うん、えっと・・・」
「あ、じゃあ、私もついでにジャムでも買ってこようかな。お散歩に行こうか、サクラ。」
一瞬迷ったサクラだったが、荊姫が誘うので小さな首をこてんと縦に振った。
それを見た荊姫は、楓の襟首を掴んでいた手をぱっと放してにこにことエントランスに向かう。いきなり支えをなくした楓はよろけてソファーに突っ伏している。どちらかと言えば椋馬に近い年齢の荊姫と、サクラに近い年齢の楓が喧嘩をした場合、十センチの身長差や腕力によって楓が宙に浮くことが多い。今回も、男性としてのプライドを大きく傷付けられた楓が恨めしげに荊姫を見上げるが、サクラと出かけると決めてしまった荊姫は上機嫌で気にもしない。
「・・・行きたいならお前も行ってくれば?」
あまりにも羨ましそうに女子二人がきゃっきゃと外行きの準備をしているのを見ていたので、呆れたように声をかけると、楓は小さく首を振って椋馬の横の一人掛けソファーに収まった。
「荊がいるなら・・・サクラ君は大丈夫だから、いいよ。」
一にも二にも考えているのはサクラの安全であると言って、楓は紅茶を口に運んだ。
「行ってきまーす。」
元気よく二人が声をかけてエントランスから宿舎を出ていくのを聞き届けてから、楓はおもむろに口を開いた。
「椋馬はさ、まだキングのこと、Rって呼んでるんだね。」
「ん?」
「僕は・・・気付いたら最近呼んでないなって思って。」
楓達のキングはRという名前だ。本名かどうかはともかく、公式的な名前がすでにRだったのだ。燃えるような髪とその名前から『紅皇』、『ルージュの王』などとも呼ばれていた時期がある。
ボックス結成当時からずっと、配下となった駒達はRと呼び続けてきた。
しかし半年前、死線上と言われた楓達が上級盤を堕ちた時からキングとの溝は広がった。それと時期を同じくして、確か槐がRのことをキングと呼ぶようになった。それが自然な流れのように、荊姫も楓もキングと呼ぶようになった。それは無意識に距離を置く行動だったのだと、椋馬がRと呼んだのを聞いて思い知った。それと同時に胸に風穴が開いたような空虚さと爽快感が生まれた。もやもやと胸に渦巻いた疑問が少しだけ吐き出されたような気がした。おそらく、荊姫も同じだろう。
「うちのキングってさ、何であんなに高圧的なんだろうね。さっき食ってかかってた時、正直冷や汗ものだったんだ。」
荊姫が必要以上に吠えたてるのも、楓が正論で理詰めにするのも、奈落の底に転がり落ちそうな威圧感に浸食されないように必死だったからだ。威圧に対して荊姫は怒りで、楓は理論で対抗したのだ。
しかし、冷静になって考えてみると、それ以上にあの気配の理由が知りたくなった。
もともと、Rを含めたキングと呼ばれる存在は他を無意識に圧倒させる。これはキングとして他の駒とは異なる教育を受け、誇りを身に付けてきたからなのだといつだったか槐が言っていた。
誇り云々が真実かどうかは分からないが、確かにキングと呼ばれる駒達には近寄りがたい高貴さと、頼りがいのある懐の深さを感じる。Rも同様だった。
しかし、今のRはそれが曇っているような気がした。自信が揺らぎ、それを悟られないように虚勢を張る事で生まれた威圧感が、敵どころか味方さえも萎縮させている。特に、幼いサクラに対してそれは顕著だった。それが、サクラを気にかける駒達との溝をさらに広げ、威圧感が増す。悪循環が続いている事に気付いた。
「どうにか・・・しないとだよね。」
「・・・Rは、苦しそうだったな。」
椋馬の言葉に驚いて顔を上げると、椋馬は楓の方を向いていなかった。その目には、かつてRがこの宿舎に住んでいた時によく読んでいた本の背表紙に向けられていた。ジャンルは主に落語やギャグなど、Rのイメージとはかなりかけ離れていた。
何故いきなりそんな本を読み始めたのかと驚きながら全員が突っ込んだ時、Rは真面目な顔で言った。
『俺は固いから、もっと楽しいことを考えろと言われたんだ。』
しかし、自分では思いつかないからと他人の力を借りようと思うと言った時のRに対して、全員が大いに笑ったことを思い出せば胸が詰まった。
決して慣れ合うような、そんなに仲が良かったとは思っていない。他人からはどんな風に見えていたかは別として、椋馬自身はそう思っていた。
ただ、信頼だけは強かった。気を許せる仲間だった。しかし、安心して背中を預けられる関係はつい半年前に壊れてしまった。過去の居心地のいい環境に慣れていただけに、その損失は思っていたよりも大きく関係に罅を入れたのだ。
まして、駒である自分達には未来の補償などどこにもない。いつ死んでもおかしくないし、キングが破棄されれば他の駒もお払い箱になって盤国からも本国からもいらない存在になる。
だからこそ、尚更失われた時間に焦がれた。
「・・・Rが?」
「長い責め苦に遭っているようなやつれ方だった。近くで見ればコートの下でも分かる。あいつ、かなり体重が落ちてる。おそらく、休めていないな。」
楓が目を見開いているのを捉えながら、内心椋馬も動揺を隠せなかった。
キングと呼ばれる以上、盤以外でもいざこざに巻き込まれる可能性がある。だからこそ、Rは常日頃から鍛錬を怠らない真面目な男だった。今、その面影が全く見えないだけで。
Rは生真面目な男だと言った駒がいた。実直で誠実で、曲がったことができない不器用な、そして優しい男だと。
今はどこにもいないその駒の言葉を椋馬は実感できずに時は過ぎ去ってしまったが、椋馬は真面目なRを何となく気に入っていた。気が合うと言うのとは違うし、必要以上の馴れ合いはどちらも望まなかったが、共に行動する時は面白かった。
だからこそ、盤に勝つためならばどんな犠牲も厭わないと言ったRに、誰よりも椋馬は絶望した。
もし、彼のキングを優しいと称した駒が生きていたならば、今の椋馬以上に悲しんだだろう。親しかったその駒の悲しみが分かる分だけ、椋馬は苦しんだ。
その苦しみをやり過ごす為にRに歯向かい、半年もの時間をかけた。そして正面から向き合ったRの変化に大きな衝撃を受けた。
苦しいのだ、Rも、自分と同じように何かに苦しんでいる。しかし、Rはその苦しみをこちらに打ち明ける強さも弱さも器用さも持ち合わせていなかった。
──お互いに・・・不器用だな。いや、俺達は皆、素直じゃなくて、面と向かって聞けもしない。困ったもんだよな。
仮面の下に隠れてしまった真っ直ぐな瞳が濁っているのかと思うと、椋馬は余計に苦しかった。しかし、この胸に沈んで蓄積されていく言いようのない焦燥感や悲しみと重みを吐き出すには、自分達はまだまだ幼い。
「・・・こんな時こそ、あの人がいてくれたらいいのになぁって、俺は思うよ。」
「・・・。」
独り言に、はっとしたように楓は息を飲んだ。その瞳には、情けなく顔を歪めた若い男の顔が映っていた。それを映す楓も痛ましげに顔を歪める。
「俺たちじゃ、凍えた感情を解きほぐすなんてできない。自分達のも、他人のもな。」
どう足掻いても、何も知らないまま苦しみから解放するなどという高等技術を椋馬達が持つはずがなかった。しかし、椋馬はそこで諦めるような根性のない男ではなかった。
「・・・秘密があるなら、そこから攻略してやるよ。」
記憶の中の失われてしまった駒に誓いを立てるように、椋馬は笑った。
その笑みを間近で見ていた楓は、寒気を感じて自身の腕をさすった。
【二】
盤国の首都に正式名称はない。これは、所詮は駒の住む街なのだからという本国の人間の、盤国や駒を虐げる傾向が形として現れた結果だった。しかし、駒達の間では長く使われている呼称がある。
──桜華宮、と。
「わぁ・・・!」
「サクラは遠出、あまりしないものね。路面電車は初めて?」
意図的にレトロな作りにした渋い赤茶色の路面電車が、レンガ調に整えられた線路を進めば甘く柔らかな春風が頬をくすぐった。
外行き用の白いベレー帽を被ったサクラは、問いかけに荊姫の方を向いて目を輝かせている。
「はい、初めてです。」
車内には人はまばらで、木の座席には使い古された布で作られたパッチワークの座布団が敷かれている。そこに足を揃えて座る荊姫の頭の上の麦わら帽子の黒いリボンが風に揺れた。
「桜華宮はその景観上、レトロ建築を取り入れてるからね。エリスとは全然違うでしょう。」
駒はそのほとんどが生活の場として雑貨店や店が整えられた桜華宮の宿舎で生活をしている。荊姫達のキングや槐のように首都ではない場所に仲間と離れて住んでいると言うのは実は非常に稀なことだ。というのも、この盤国の道路網は一極集中型で、首都以外ではエリスと言われる地方以外電車やバスなどの公共交通機関がほとんど走っていない。
自動車による移動も可能ではあるが、車道も整備されていないので獣道を進むのに等しい。よって駒達は移動に不自由しない桜華宮近郊で提供される宿舎に住んでいる。
「そうですね、エリスはごみごみしてますもんね。」
エリスというのは桜華宮と並び称される大都市で、こちらは近代技術の粋を集めた高層ビル群が立ち並ぶ。桜華宮のような生活感は一切省いたこちらの都市にも多くの駒が住んでいるが、心静かにできる時間は皆無だろう。
何故なら、エリスは盤を主催するオリンピア競技団がある場所だからだ。
盤国で最も強い権限を持つ本国直属の機関であり、盤に関係することは会場準備や衛星中継から駒の育成、資金運用まで全てを管理している。
オリンピアには多くの発着場があり、そこに集まった駒達を会場である盤上に運ぶ必要があるので、必然的にエリスは近代的な街並みをするようになっていた。
エリスと窓の外に広がる桜華宮を頭の中で比べているのか、桜は空中に視線を彷徨わせている。
桜華宮は桜の木が町中に立ち並び、一年中春の様相を賑わせていた。
町の中心部に並ぶ洋館、郊外よりの日本家屋近くにも、一年中桜の花弁が舞っている。その淡い花達が余計に柔らかな印象を与え、駒達を癒していた。
「桜って私と同じ名前ですね。」
サクラの言葉に、荊姫は無言で頷いた。
駒には何故か植物の名前が付けられる。Rという例外があるにしろ、荊姫のボックスも全員木の名前が付いている。しかし、今までサクラという名前の駒は聞いたことがなかった。
桜というのは盤国の、駒の象徴だ。
儚く咲いて、一か月にも満たない内に散っていく。盤国の国中の桜は遺伝的にそのサイクルを一年の内に何度も何度も繰り返すように組み替えられている為、完全に全ての桜が散ることはない。それでも、散り際の桜を見上げると締め付けられるような胸の痛みを覚えた。
駒の寿命は短い。
娯楽として扱われる彼らの寿命は平均して三十歳。キングに至ってはその死亡率は他の駒よりも数倍高く、二十代前半で命を落とすものがほとんどだ。頂上にまで上り詰めたキングは別として、盤のレベルが高まれば高まる程その値は高くなる。
もちろん、単体として長生きする者は山ほどいるが、キングが死んだ場合、お払い箱になった駒達は破棄という名目上、何処かに消される。その何処かを知る者はこの盤国ではオリンピア内の本国側の人間だけだ。
駒を哀れんだ何人かの金持ちが、象徴とされる桜を遺伝的に操作し、この国に寄贈したのが約百年前。それ以来、皮肉ともとれる花が一時だけ駒達を癒すように桜華宮を満たした。
だからこそ、桜の名を冠する駒は今までいなかった。
存在自体が桜と言っても過言ではないにも関わらず、わざわざ桜の名をつける必要を感じなかったが、実際にサクラと名付けられた駒は荊姫に目の前にいる。
──サクラは・・・一体何を秘めているのかしら。
侮蔑と憐れみ、癒しと運命を象徴する盤国の桜。
その名を冠する少女が自分達の目の前に現れたのを機に、何もかもが変わった。他の人間からしてみたら些細な変化だろう。上級盤から転落するボックスはいくつもある。しかし、荊姫の狭い世界において、あの上級盤からの転落は単なるキングの配分ミスには見えなかった。敗北とは違う何かを引き寄せた様な違和感が燻り続けている。その代償は、あまりに大きかったけれど。
変化の波は上級盤からの脱落やキングの豹変、ボックス内の亀裂だけに留まるのだろうかと、荊姫は考えていた。何かもっと大きな波が何回にも分けてくるような気がしていた。
その波の一端に、サクラが関わっている気がしてならなかった。いまだ開花の兆しすら見せないサクラの才能の程が自分には分からなかったが、そこは荊姫も死線上と言われたボックスを支えたシールドだ。肌で感じるのだ。
この幼く、小さな蕾には、何か大きなものが秘められていると。
それが何なのかを知る術を持ち合わせない荊姫は、ただ淡々と過ぎていく日常に大きな波をもたらすだろう少女をせめてそれまでは守れないものかと思っていた。
「いーちゃん?」
呼び声に笑って手を伸ばす。柔らかな黒髪を耳にかけてやって、荊姫は慈しみを込めてサクラの手を引いた。
「着いたよ。」
何も知らない少女。盤国しか知らない可哀想な少女が自分の目の前に来たのならば、自分が与えられた優しさと同じだけの優しさを与えたいと思った。それが、荊姫にできる唯一のことだから。サクラと名付けられた、小さな蕾を守る為の。
路面電車から降りると、思い思いの格好をした駒達がぎょっとしたのが分かった。
「・・・何故でしょうか?」
「あー、うん。私は慣れてるんだけど、なんかこの髪が目立つらしくて。」
荊姫の髪は陽光に照らされて透けるような金色を帯びた若葉色をしている。駒の髪や目、肌の色は様々だが荊姫のように艶を帯びたカワセミの羽根の色に似た髪は珍しく、よく目立つ。それが、死線上時代によく知れ渡っているならば尚更だ。
「・・・気にする、サクラ?」
目立つことが嫌だったかとしゅんっとなってしまった荊姫にサクラはきょとんとした顔で聞き返した。
「どうしてですか? 皆、いーちゃんが綺麗だから見惚れてるんでしょう? 私も、いーちゃんの髪が大好きです。」
「・・・髪だけ?」
「いいえ、いーちゃんが好きなんです。」
不安そうな荊姫に慌ててサクラが言い換えると、荊姫は嬉しそうに笑った。それは本当に嬉しそうな、見ているこちらまで幸せな気持ちになる笑顔だった。
──いーちゃんは綺麗です・・・。
盤上でのシールドとしての彼女は凛々しくて、盤から退けば彼女は桜に対して姉のように優しかった。椋馬達とは取っ組み合いの喧嘩をするような勇ましさもあるが、基本的に荊姫はその面倒見の良さからサクラの姉のようなポジションにあった。
今も、サクラがはぐれないように手をつないでサクラをリードしてくれる。
「ここが、私のお気に入りのお店よ。」
そう言って投げかけられる駒達の不躾な視線を気にした様子もなく、荊姫は小さな雑貨屋の前で立ち止まった。
両脇に建つ建物が大きい分、その隙間に埋もれるように建ったカントリー風の店は少し窮屈そうだった。看板はなく、商品なのか店の前には手作りと分かる人形やぬいぐるみ、髪飾りやブローチが並んでいた。
「かわいい・・・。」
「このリボンなんかサクラの髪に合うわね。ついでに買っていこうかな・・・。」
繊細な、それでいて五月蠅くない控えめなレースの縁取りを気に入り、サクラと自分の分のリボンを手にし、サクラが目をキラキラさせて見詰めていた、何処が可愛いのかよく分からない丸いクッションに惚けた顔の描いてあるぬいぐるみを手に店内に入った。
駒にはそれぞれ金銭用のカードが配給され、オリンピアから配給される金で生活している。基本的な生活費の他に、盤に参加することで生まれる報奨金や賭けの配当金の一部も上乗せされる。盤に多く出場すればするほど、人気があって多くの掛け金をかけられ程、駒達の懐は潤う仕組みになっている。最も、それを管理しているオリンピアはその数百倍の儲けがあると言われているが。
荊姫は蝶番のベルを静かに鳴らしながら店の中に入った。すると、カントリー風のエプロンを付け、質素だが可愛らしいワンピースに身を包んだ女性が先ほどのサクラと同じように目をきらきらと輝かせて荊姫達を迎えた。
「沙紀さん、こんにちは。」
「久しぶりね、荊姫ちゃん。最近は楓君ばかりで姿が見えないから心配したのよ。」
豊かに波打つ薄い茶髪をバンダナでまとめて微笑む沙紀は駒ではなく、本国から盤国に商業目的で移民してきた祖先をもつ普通の人間である。しかし、身近に駒達と触れ合っているせいか、駒と只人という分け隔てがほとんど存在しない。盤国で商業を営む人間はたいていがそんな風になっていく。
完全に垣根が消えないのは、駒と只人の婚姻が禁止されているのが大きな理由だろう。そこはやはり、超人的な能力者を保存する為と混血を防ぐと言う駒への偏見がいまだに本国で絶えないからだった。
事実、沙紀の夫は只人であり、子供は本国に残しているのだと言う。離れ離れになっても盤国で働くのは、言わずもがなオリンピアによって特殊手当てが多く付くからなのだが、そこは敢えてどちらも突っ込まない。そんな事で言いあっても、得なことは一つもない。駒は駒としてしか見られないのだと、荊姫はその人生全てを以って理解しているのだから。
「忙しくて。今日はジャムを買いに来たんです。季節のジャムを一通りうちに配送してもらえますか?」
「いいわよ、お得意様の頼みですもの。新作クッキーもおまけしちゃうわ。」
荊姫の手の中にある物も受け取りながら、新作だと言うクッキーの試食を渡され、荊姫はサクラを振り返った。店内が珍しいのか、サクラは緊張した面持ちであたりをきょろきょろ見渡していた。しかし、どうにも落ち着かない動作に、荊姫はサクラの緊張を和らげようとクッキーを差し出した。
「サクラ、どれがいい? 抹茶と、バラジャムとウグイス餡子なんてのもあるわよ?」
「・・・。」
いつもきちんと返事をするサクラが無言なのに首を傾げる。
「サクラ?」
その呼びかけに反応したのはサクラではなく沙紀の方だった。
「あら、この子が荊姫ちゃんのところのドール?」
「あ、はい。サクラです。」
初めて見る沙紀にさらに緊張したような面持ちのサクラに、沙紀は屈託なく近付いて両手を握りしめた。駒としていくつもの修羅場を潜りぬけてきた荊姫の手とは違う、ふわふわとした柔らかい掌にサクラは驚いたように目を見開いて、自分と視線を合わせるようにしゃがみ込んだ沙紀をまじまじと見つめた。
「はじめまして、サクラちゃん。私は沙紀よ。」
「・・・沙紀さん。」
そう呼びかけただけで沙紀は幸せそうに微笑んだ。只人から駒に向けられる表情としては極めて珍しいものだった。
「今回もこれからもよろしくね、サクラちゃん。」
「はい!」
不思議な言い回しの沙紀に荊姫は小首を傾げながら、試食品のクッキーを一つ口に放り込んだ。咀嚼するうちに、抹茶の苦みと独特の甘さが口の中に広がって柔らかな気持ちになる。
「うーん、抹茶がいいかなぁ・・・でも、バラジャムも」
そう言って口の中の残り香を堪能するように感覚が鋭くなった。
──その時、背筋に痺れるような冷気が走った。
「荊姫ちゃん?」
サクラの髪に先ほど荊姫が購入した髪飾りを当ててやっていた沙紀は、急に言葉を切った荊姫に首を傾げて立ちあがった。
「どうしたの、もしかして、まずかった?」
「・・・いえ、何でもないです。サクラはどれがいい?」
試食を口に入れたサクラがもぐもぐと咀嚼した後に指し示したクッキーをおまけに選び、沙紀への挨拶もそこそこに荊姫はサクラとしっかり手を繋いで店の出口へと向かった。
店を後にした荊姫は、不自然にならないようにさっと周囲を確認するが、まだ殺気の正体は目には見えない。
「・・・いーちゃん。」
不安そうなサクラの声に、荊姫も苦虫を噛み潰したような表情で唸った。
「・・・まずいわね。ここから宿舎までは徒歩じゃ遠すぎるし、かといってバスとかじゃ何があるか分からないわ。」
公共交通機関には他の駒も乗り合わせているが、下手に巻き込もうものなら後々の処理が面倒だった。狭い車内では動きたいときに動けなくなる。さらに、拘束具の効力は現在最大にまで引き上げられている。
オリンピアでは駒の位置状況に応じて遠隔操作で拘束具の効果を自動で調節されている。桜華宮では駒と只人が接触する機会が多い為、その拘束力が最大にまで引き上げられ、能力を少しでも行使しようものならすぐに耳のピアスから特殊な波長の音波が流され、駒の動きを封じる仕組みになっている。そうなったら最後、捕獲要員が到着するまで駒は身動きを封じられる。それは今現在、荊姫にとって最も避けなければならない事態だった。
──ゼルトナーと呼ばれる集団がある。
盤国は本国への必要最低眼のアクセス以外は断たれているが、研究職や事業の関係で本国から盤国へ向かう人間は意外と多い。それ以外にも、盤国には只人が非公式に入国してくる場合がある。
たいていが、人気のある駒を本国で売り捌く、駒の恐ろしさを知らない只人が、時たま盤国に送り込む傭兵集団のことを言う。一応は只人ではあるが、よく訓練された尖鋭であり、しかも拘束具が最大限発動している桜華宮内で駒を襲う為油断できない相手だった。
このような危険を避けるべく、駒はよほど腕に自信がある者以外は二人以上で行動していたし、それに対する対処法も盤国では決められていたが、所詮盤国は本国の植民地と変わらない。オリンピアでは駒単体を売った方が盤を行うよりも儲けられると判断した場合、報酬の何割かと駒の本国における管理費を貰う形でゼルトナーとバイヤーの取引を黙認する場合があるというのがもっぱらの噂だった。それをオリンピア側は否定していたが、駒達の間では暗黙の了解として認識されていた。
死線上と呼ばれたが、今では低級盤に堕ちた荊姫やサクラの救援信号を無視することは十分に考えられた。
荊姫は即座に携帯端末を確認したが、見事に圏外扱いである。サクラの端末も圏外を示した。これも、意図的な妨害である事は言うまでもない。
「そう何回もあるもんじゃないと思っていたけど、まさか久しぶりの外出でこうなるなんて。」
むしろほとんど外に出なかったのが仇になったのかもしれないと自分の認識の甘さを歯噛みしながら、荊姫はとにかく喫茶店に向かうことにした。
店を営む只人を疑うことはなかった。盤国は桜華宮やエリスなども含めた様々な場所で、只人に対して絶対の安全を約束している。それがあるから多くの只人が盤国の主要都市でも店を構えている。よって、あくまで非公開な傭兵部隊のゼルトナーでも盤国在住の只人を駒の捕獲に利用することは禁じられていた。ここが、唯一駒が安心できる事だった。
ゼルトナーとは関係なしに悪意を持っている店主がいないとは言い切れないが、駒の殺害による盤への影響、それによる自分への悪影響は計り知れないので手出しをする只人はまずいない。
「どうしますか?」
公園の一角に移動式の喫茶店を見つけた荊姫は、さっぱりした柑橘系のフルーツジュースを片手に、近くのベンチに腰かけていた。
円形に形作られた公園もまた桜の花で溢れていたが、一部の場所は緑の木々が多く、大きな池や橋も設置されている。しかし、そこにはアスレチックにしては安全面と難易度にいささか疑問を抱かなければならない、高度で危険な遊具が並んでいる。地上十メートルを越えるジャングルジムや、ブランコに似たこれらの遊具は駒用に作られた訓練用でもある。
サーカス団の練習のような光景を眺めながら、木製のベンチに腰掛けて遅い昼食を摂る。
起きた時間が昼過ぎだった為、あまり遅くなるとそれこそゼルトナーの思う壺である。
不安そうに問いかけるサクラの手元には、ジョッキ並みの大きさのグラスに並々と注がれたトロピカルジュースと顔より大きいのではないかというハンバーガーが、両方とも半分の量にまで減らされて握られていた。
荊姫自身も只人より食べる方だが、サクラや椋馬を見ていると自分はまだまだ序の口だと思えて仕方がなかった。それを本人達の前で言ったことはないが。
不安そうながら生来の大食いさを発揮するサクラは、今までゼルトナーに狙われたことがない。対して、荊姫はうんざりするほどあった。ここ半年は特に多かったとも言える。故に、ゼルトナーに対しての対策は荊姫の方が適任だった。
「とりあえず、椋馬達の心配はしてないから、私達が無事に帰れればいいのよ。」
椋馬も楓も拘束具を身に付けていても、それを補って余りあるほどの攻撃方法を体得している。だからこそ、二人は一人でも町を悠々と散歩して、たまに数人の手土産を抱えて帰ってくるくらいだ。
荊姫もそれができたらいいのだが、彼女は一応シールドであり、女性でもある。椋馬達ほどの攻撃力はなく、一度に自分よりも体格のいい男を多数相手にして無事に済ませられるか分からない。ましてや、今回はサクラも一緒だった。暴れていてはぐれてしまったらどうなるか、想像するだけで恐ろしい。
走って帰ると言うのが、この際の荊姫の最も簡単な方法だった。それも、自転車やバイクという手段を手に入れれば確実だった。手持ちには余裕があり、桜華宮内には自転車やバイクの販売店、誰が利用するのかは謎だが、貸し自転車屋まである。
ただし、これは根本的な解決に全くならない。次回もサクラと出かけたら追われる羽目になることは分かっていた。しかも、楓や椋馬を一緒に連れていたらこちらには絶対に手を出してこない。荊姫とサクラが二人の時に殺気を露わにしたと言うことは、二人が狙いなのだから二人だけで片を付ける必要があった。
やるならば、ゼルトナーを生け捕りにして出所であるオリンピアに突き出すか、存在そのものを消してしまうのが有効だった。もちろん、後者はサクラがいる為行わないが。
「うーん、何人いるかしら。サクラには分かる?」
「はい、今のところ見張っているのは六人です。」
巨大ハンバーガーを平らげたサクラが真剣な顔つきで言うので、荊姫は片眉を上げて先を促した。
「えーと、沙紀さんのところから付けてくるのが二人。向かい側の洋服店に一人。楽しそうにご飯食べてるのが三人。今のところ、これだけです。」
サクラの気配を読む才能は椋馬のお墨付きだ。魔法が使えないと言うハンディキャップを補うかのように、サクラにはソードに近い能力が備わっている。それは脚力も含まれる。
「・・・二人で六人なら、何とかなるかしら。性別は分かる?」
「見える限りでは女の人も二人混じっています。」
「じゃあ、広い場所で片付けちゃいましょう。サクラ、準備するから手伝ってくれる?」
「頑張りますっ!」
ジュースを飲み終えたサクラが軽い動作でベンチから立ち上がった。
ドールとシールドの少女はこちらに気付くことなく人通りの少ない広場や道を歩いていた。これは駒に共通した行動で、盤上でも私生活でも誰かしらの視線を無意識に敏感に感じ取っているらしく、他人のいないところに自然と足を向ける傾向がある。
ゼルトナーとしては都合のいい性癖だった。
気付かれないように仲間たちと距離を置きつつ、しかし、少しずつ追い詰めるように追う。
そろそろ日が暮れると言う時間帯になって、当初の予定通りに駒の捕獲に移行しようと殺気を消して公園内を歩く少女二人の様子を窺っていた時、すぐ近くにいるはずの仲間が姿を消したことに気付いた。
最初は見えないところに移動したのかと思ったが、ドールの少女が目にも留まらぬ速さで走り出したのを見た時、作戦が露見したのだとやっと気付いた。
しかし、ドールを捕獲しようと一歩踏み出した足は膝からがくんっと崩れ落ちた。
「あら、弱い。堕ちたから見くびられたのかしら。余計な心配して損したわ。」
その声と共に、目の前が一瞬にして白く染まったかと思うと、階段から落ちた様な衝撃を受けて意識が途切れた。
自分達から適度に距離をとっていたゼルトナーの中の、最も近くにいた男の元に走り寄り、荊姫が護身用にと持っていた電気ショックを仕込んだ警棒で相手を気絶させる。同時に走り出していたサクラは身軽さを活かし、木の影に隠れていた相手に上から襲いかかっていた。数や武装はゼルトナーが上でも、奇襲と速さにおいて日々自分と互角以上の駒達とやり合っている駒にそもそも勝てるはずがなかったのだ。
気絶させた相手を他の者に見られないように隠し、様子を窺うように近寄ってきた他の人間の鳩尾に肘を叩きつけた。全体重を乗せ、尚且つ鋭い肘で突かれた男は苦悶の声を上げることなく倒れる。
サクラがそうして二人を片付けた時、荊姫が走り寄ってきた二人を同時に相手にしていた。一瞬そちらに気をとられたサクラだったが、荊姫に言われた通り、一番遠くにいた相手の元に全力で走り寄って逃げようとしたその無防備な後頭部と首の間に手刀を叩きこんだ。若干力を入れ過ぎた気がして焦ったが、相手がきちんと息をしながら気絶したのを確認して、サクラはほっと息を吐いた。
逃げられないように手首と足首を背後で縛ってその両方を繋げておく。その処置を終えてから、アスレチックの近くにいる荊姫の元に急いで向かうと、荊姫も同様に地面に倒れた男を縛りあげていた。
夜間解放のない公園内には街灯が少なく、夕方特有の暗さと静寂が満ちていた。周囲が森である為、よく見ないと何があるか分かりづらい。
「サクラ、無事ね?」
「はい、いーちゃんはご無事ですか?」
「案外弱かったわ。なんかこう・・・見くびられた感じがして逆にむかつくわ。」
そう言いながらも、油断なく縛りあげ、地面に転がした。
「さて、他の奴らも縛ってあるし、これで一応・・・」
その時、荊姫の体が一瞬で赤みを帯び、荊姫とサクラの周りに結界を展開した。
「えっ・・・?」
それと同時にその防壁に雹が大量にぶつかったかのような音が響き、結界が揺れた。
サクラは一瞬何が起こったか分からなかったが、拘束具が最大効力の場所で荊姫が結界を展開したという事態をやっと飲み込んだ時、荊姫が弾かれたように跳ね、そのまま地面に倒れ伏した。どさっという鈍いが、非常に重い音が響く。サクラが呆然と荊姫を見ると、荊姫は白目をむいて口から泡を吹いて痙攣を起こしていた。
「いーちゃんっ!」
拘束具の効果で荊姫が呼吸中枢に麻痺を起したのだと知るわけがなかったが、これが結界を張った為に起こったことだとは分かった。
通常は脳波に訴えた身動きが取れなくなるほどの頭痛で拘束を行うはずだったが、荊姫がとっさに張った結界が一般人を殺傷するレベルにまで到達していた為、オリンピアが緊急事態として特殊な措置をとったのだ。意識は数時間単位で奪われるが、麻痺は約十秒程度の軽いもので、すぐに自発呼吸を正常に行えるように拘束具は起動し始めた。近くの警備隊がすぐさま現場に向かってもいた。
しかし、今まさに現場にいたサクラはそれを待つ余裕はなかった。
荊姫の呼吸を確かめる隙もなく、今度はサクラに向かって大量の殺気を帯びた何かが飛んできたのだ。サクラは咄嗟に荊姫の上に覆い被さり、荊姫に当たりそうになった幾つかの飛来物を、自分を盾にして守った。
「・・・っ!」
幸い軌道が地面にほとんど水平だった為掠る程度だったが、ぎざぎざした鋭い何かが背中の皮膚を破き鮮血が滲んだ。鈍い痛みに微かに眉を顰める。
すると、先ほどの荊姫の結界で叩き落とされた飛来物が辺りに散らばっているのが見えた。
それは拳銃などの弾ではなく、ただの石礫だった。しかし、百キロを越える速さと数十もの数で放たれた礫は、命を奪い取る弾丸となって襲いかかってくる。
考えるよりも早く、サクラは荊姫の体を横抱きにして走り出した。
荊姫は決して大柄ではないが、サクラよりも長身で重い。サクラ自身が平均よりも小柄だった為、長距離を運ぶ事は不可能だったが、幸いにも近くにコンクリートで形作られた塀のようなアスレチックがあった為、そこに荊姫を匿う。
直後、第三打がサクラを襲った。咄嗟に大きく後ろに跳躍したサクラを追うかのように、次々に礫が降ってくる。
紙一重で攻撃を回避するサクラの顔や手足に礫が掠る。鮮血が飛ぶのを見つめながら、サクラは内心焦っていた。荊姫からどんどん離されているのだ。
荊姫が拘束具を振り切った以上、安全の為に気絶させられた駒を回収しに来る役割を持つ警備員が、荊姫を回収しに来るとサクラは知っていた。警察を呼ぶ時間もない今、とにかく自分達以外の第三者の存在が現れる事で狙撃手が計画を中止するのを期待する以外に、この事態を打開する方法を思いつかなかった。
しかし、常に街中で何かしらの仕事をしている警備員が到着するまでにあまり時間はかからないだろうと踏んでいたサクラにとって、短時間でも荊姫の近くを離れることはしたくなかった。荊姫が気絶しているだけだと、見えない狙撃者も気付いているはずだったからだ。
本物の殺気を込めた礫の主が、荊姫を殺しに来ないとも限らない。サクラは攻撃をかわしながら、狙撃手の位置を確認しそこに向かおうと膝に力を溜めた。反撃しないではやられるだけだと、防衛本能が働いた。しかし、
──ターーーンッ
甲高い、鉄板を金槌で叩いたような音と共に、サクラは自分の膝が砕かれたのを感じた。
それは礫を降らせていた狙撃手とは全く異なる方向から放たれた。
「・・・あっ!」
悲鳴さえ上げられずに地面に叩きつけられるように倒れ込んだサクラが衝撃をものともせずに自分の右膝を確認する。薄暗い視界の中、膝辺りから静かに染み出すかのように血が流れていた。動脈を傷付けていないようだが、サクラは足の動力を奪われ、血が滲むほどの力で唇を噛み、痛みを堪えた。そこへ容赦のない礫の雨の気配を感じ、サクラは残された足と腕力だけでその場から跳ね飛んだ。
着地した瞬間にまた跳ね飛ぼうとした時、先ほどの音が今度は左足を貫通した。
「・・・っ!」
両足の動力を奪われたサクラは、最早素早く動くことができなかった。悔しげに顔を歪めながら、荊姫だけでも逃がせないかと涙の滲んだ瞳で彼女が隠れている場所に目をやった。
そして、そこに近付く長い外套を羽織った影がある事に気付いた。
「・・・いや」
その影を確認した瞬間、サクラの瞳から涙が流れた。自分が殺されるならまだしも、こんな所で、こんな卑怯な手段で荊姫が殺される事が嫌だった。荊姫を目の前で失うのが嫌だった。どんな時でも自分の世話を焼いてくれる優しい荊姫が死ぬなど、そんなことを今まで一度だって思ったことなどなかった。根拠もなく、ずっと一緒にいられるのだと思っていた。
「いやっ、いやっ、ころさないでぇえぇっ!」
その声を嘲笑うかのように、影が手を振り上げた。
これが駒の運命だと言うのならあまりにも残酷だと、サクラは声の限りに叫んだ。こんな末路しかないのかと絶望に心が絶叫した時、声がかかった。
「何してんの?」
それは荊姫の近くにいた影の動きを完全に止めた。声の主は、地に伏せたサクラの前に仁王立ちで立ち塞がり、サクラを庇うように影と対峙した。その後ろ姿は荊姫と大して変わらない、ほっそりとした女性のものだった。
「・・・ふぅん。ライバル落とし? でも、そろそろやめたら? いくらここに警備員が来るのが遅いからって、悪ふざけのしすぎじゃない?」
声の主は怯えた様子もなく、影に話しかけた。
「この子も重傷みたいだし、見逃してあげるよ。だから・・・」
その時、三回目の金属音が響いた。
咄嗟に痛みに耐えようと目を瞑りかけたその瞬間、目の前の女性からきぃんという硝子が触れ合ったような涼やかな音がした。只人では捉えられなかっただろうが、サクラの目には中空が一瞬白くなり火花が散ったかと思うと、飛んできた銃弾が真っ直ぐ跳ね返って元来た道を帰っていったのが見えた。
「・・・命があるうちに立ち去りな。」
壮絶な殺意をサクラは感じた。温かな空気が一瞬で凍りつき、肌に痛い。自分に向けられたわけではないのに萎縮する。それほどに圧倒的な力の差を見せつけられた気がした。
影は跳ね返った銃弾に驚いたのか、殺気に萎縮したのか背を向けて一瞬で走り去った。
「まったく・・・嫌な時代になったもんだ。」
そう言うと、声の主はサクラを振り返って見下ろした。
「お譲ちゃん、大丈夫?」
今まで纏っていた殺気が嘘のようになくなり、女性はサクラの前に身を折った。
匂い立つような美しさの女性に、サクラは地面に突っ伏しているにも関わらず見惚れた。
逢魔ヶ時の薄闇の中、真っ直ぐに切り揃えられた黒髪は艶やかで、碧を帯びている。フリルのついたゆったりした長袖にジーパン、スニーカーというラフすぎる格好だったが、それでも失われない美貌が目の前にある。顔は小さく、配置よく並んだパーツも形がよくて小さい。何より、薄青く光る切れ長の瞳は金色を帯びた薄緑をしている。吸い込まれそうなほど澄んだ色に、驚いたように目を見開いていると、何を勘違いしたのか女性は慌てだした。
「あたしは怪しい者じゃないわよ? ここが毎日のトレーニング場で、今日はちょっと遅くなっただけだから! あ、この目? あたし、ドールだから光っちゃうのよ、気味が悪いでしょうけど我慢して? それよりお譲ちゃんの足を診たいんだけど・・・その・・・触って大丈夫?」
さっきまでの威勢の良さは何処へ行ったのか、女性は急にしょんぼりとなって年下のサクラに気を遣う。その様子に、サクラの肩の力が抜けた。それを見た女性も、安心したように息を吐く。
「でも、よく見たらお譲ちゃんも目が光ってる。ドールなんだね。だったら、怯えないか。」
他の駒は怯えるからと照れ臭そうに言う女性に、サクラは安心したようにそっと微笑んだ。
ドールはその身に魔法を体得している為か、暗いところでは目が光る。それは暗いところもよく見えるようにという生理反応のようなものだったが、サクラはその光が他のドールよりずっと鈍かった。真っ暗闇で辛うじて輝いて見える程度だが、どうやら今は体内で魔法の力が活性化しているらしい。
「お、ようやく笑ったね。傷は・・・」
「あ、回復は早いので少ししたら塞がると思います。あの・・・」
魔法を随意的に使えないサクラだったが、その代わり治癒力は数百倍にも跳ね上がっている。足を貫通した傷も、見てはいないがすでに血が止まっているようだった。
それよりもサクラは荊姫の容態の方が気になった。這ってでも確認しようと思ったが、今は下手に体を動かせない。すると、サクラの心情を悟ったのか女性は膝を伸ばして立ち上がった。
「そっか、それならよかった。ちょっとあっちのお譲ちゃんも見てくるね。」
そう言って倒れている荊姫を静かに見て、再び桜の方に戻ってきた。
「拘束具の拘束を振り切ったのかな? 今はもう気絶してるだけみたいだから、心配いらないかも。一応、主治医のところに行くんだよ。お譲ちゃんも結構出血してるから、貧血とか起こすかも。あ、座る? その体勢きつくない? なんならあそこのお譲ちゃんのところまで運ぼうか? 背もたれあった方が楽だもんね。それとも膝枕しようか?」
「いえ、このままで大丈夫です。下手に動かすと治りが悪くなってまた出血するので。」
荊姫が無事なことに安堵の意思を示す暇もなかった。
矢継ぎ早に好意の言葉をかけられたが、申し訳なさそうにサクラはそれを辞退する。相手を不快にさせたのではないかと心配する心もあったが、下手に動いて出血した過去の惨事を思い出し、わずかに身震いした。あんな経験は二度とごめんだと全身で語っている。
その様子にそれもそうだね、皮膚がまだ薄いもんねと納得して、女性はサクラのすぐ横で体育座になる。腰を落ち着けると右手でサクラの頭を撫で、左手でジーパンのポケットから携帯端末を取り出し、手早くメールを打っている。手は今日出会った沙紀のように柔らかくなく、肉刺が目立つ硬い掌だったが、とても温かかった。その温度にサクラは安心する。
「一応、私から警察に連絡しとくね。ここってさ、警備員の巡回場所同士の間でさ、あんまり危険もないだろうって見落とされやすいから遅いんだよね。知ってた?」
「いいえ、初耳です。」
そもそも警備員の巡回場所はオリンピアの機密事項に入るはずだ。ルートを知られて、警備員が駆け付けるまでに犯人が逃げてしまったら意味がない。
メールを終え、ポケットに端末をしまった女性は上体を腕で支えながら少し後ろに傾ける。
「だよね、だってゼルトナーも知らないもん。うちのタクティクが計算したら、夕方から次の日の明け方にかけて警備員の巡回割合が他のとこの半分になるから意外と危ないんだよ。だから、今後はその時間帯は近寄っちゃだめだよ。」
めっと言って人差し指を突き立てた女性にサクラはきょとんとした後に声を立てて笑った。こんなに茶目っ気のある駒は初めて見たからだ。
「そうそう、女の子は笑顔が一番だよ。お、ほんとに塞がりだしたね。安心安心。」
心がカラッと晴れるような笑顔を浮かべ、傷口が小さくなっていくのを見て、女性は満足そうに頷いた。
「あ、はい。助けていただいて本当にありがとうございました。何とお礼を・・・」
「いいの、いいの、好きでやったんだから。そんなに畏まんなくていいし・・・それにしても・・・性質の悪い駒だったね。」
不快そうに眉を顰める女性が先ほど奇襲を仕掛けてきたのを思い出しているのだと悟った。
「駒・・・でした?」
しかし、よく考えればあんな高速で石礫を降らせることが、只人にできるとは到底思えなかった。
「うん、その辺に転がってるのは只人だけど・・・さっきの奴は違う。遠くからライフルで撃ってきた奴はさすがに分かんないけど、駒である確率は高いね。」
荊姫とサクラによってあられもない姿に縛りあげられ、気絶しているゼルトナーを一瞥しながら女性がそう結論付けた時、サクラはあることに思い至った。
「・・・そういえばさっきっ!」
「ん?」
いきなり大きな声を出したサクラに驚いたのか、女性はきょとんとした顔でサクラを覗き込んだ。
「大丈夫なんですかっ? 魔法を・・・」
この女性がどれほどの実力者か分からないが、街中で能力を使うことに例外はない。大きな力を使えばそれだけ拘束具による安全対策とやらでひどい拘束を受ける。
しかし、女性はけろりとしたまま、拘束具の拘束を受けているようには見えない。
「ん? あぁ、あれはエフェクトだから平気。」
それを聞いて、サクラは即座に納得した。同時に驚いた。
稀に、生まれつきエフェクトと呼ばれる無意識下での魔法の効果を生み出すドールがいる。これは能力行使の範囲外として拘束具の拘束を受けない。サクラの異常な治癒能力も細かく言えばこのエフェクトに分類される。
エフェクトは低級でも発動させられるが、キングのレベルや自分自身の実力が向上するにつれて効果は強くなり、いくつも発現することがある。
しかし、目の前の女性のようなエフェクトをサクラは見たことがなかった。ライフルで遠くから狙撃されたと言われたが、音速を越える弾を弾き返せる強固なエフェクトが存在するなど初耳ならぬ、初見だった。
なんだかすごい人に助けられたものだと思っていると、遠くの方から数人の足音と椋馬と楓がサクラ達の名前を呼ぶ声がした。
「お、警察が来たみたいだね。お仲間も来たみたいだし、あたしはこれで退散しますか。」
そういって立ち上がった女性が、今まで自分が不安にならないよう、サクラ達が再び何かに巻き込まれないようにわざわざ付き添っていてくれた事にようやく思い至った。
何の未練もなく、それじゃあねと言って立ち去ろうとした女性を、サクラは慌てて引き止めた。
「あ、あの、名前を・・・」
「ん? どうせお譲ちゃん、お礼しようとか思ってるんでしょ? なら、今度偶然会ったらでいいよ。あたしが好きでやったんだし、一日一善っていう日課も守れたし、逆にあたしが感謝しちゃう。」
感謝すると言う言葉に、今のこの状態を鑑みるとあまり嬉しい気分にはなれなかったが、一応役に立てたならば嬉しい。近付いてくる足音に女性がそわそわしているのを見て、サクラは長く引き止める方が迷惑だと悟り、うつ伏せになった状態で頭を下げた。
「・・・ありがとうございました。」
「うんうん、そうそう、その言葉だけでいいよ。」
茶目っ気たっぷりにウィンクをして、ふと穏やかで寂しげな表情を見せた後、女性はくるりと背を向け、ひらひらと手を振った。
「じゃあ、またね。目が桜色のお譲ちゃん。」
颯爽と闇の中に去っていく女性をうっすら白い光を纏った薄紅の瞳が見詰めていたが、やがて近付いてきた聞き慣れた声に安堵したように闇の中に落ちて行った。
【間章】
『すごいじゃない、そんなのも召喚できるようになったの?』
友人の声にそちらを向けば、驚き半分喜び半分、悔しさ少しと言った感じに顔に様々な表情を含ませている。
『ふふ、綺麗でしょう?』
私も初めて召喚した生き物は、白銀に輝いて誇らしそうに立っている。
『それにしても、あんたはすごいわ、やっぱり。』
突然真剣な表情で言ってきた友人に、私は驚いてみせた。その声音にちょっとした羨望を感じたことも驚きに拍車をかける。この友人が、他人を羨むなんて珍しい。
『どうして? 私は貴女の能力も好きだわ。』
本心を語ると、友人は『あんたがあたしの能力が好きなのは知ってるけど、そこじゃない』と言って私の新しい友人を見上げた。頬にうっすらと赤みが差しているのを見て、本心自体は受け入れてくれたのだと知って嬉しくなった。
『そうじゃなくて・・・想像上の生き物を現実世界に簡単に呼び出すのができるなんて、あんたくらいでしょ?』
『大袈裟ね、そこまで大したものじゃないわ。』
『でも、この子は綺麗な、幸せそうな目をしてる。』
柔らかい声に導かれて新しい友人の目を見れば、一瞬笑ったように見えた。濃厚な蜜色に輝く目は、先日頂いた琥珀によく似ていた。
『だって・・・私が会いたいって言った友人ですもの。』
『会いたい?』
『そうよ、会いたいって願い続けて、自分の中のその子に語りかけ続けるの。その姿が振り返った時が、私の召喚の完成よ。』
『そんな簡単に行くものなの?』
『簡単には行かないわよ。想像の世界と言っても、この子たちはれっきとした私とは違う生き物ですもの。性格が違うからね。でも、共通するのはこの子たちは私の想いの結晶ということ。それが私の中の魔法と合致した時、その姿がこちらに来るの。』
『そんなものなの? コツは?』
『コツはね・・・』
【三】
「昨夜なのですが・・・。」
報告をしながら、槐はふと深夜に珍しく電話をしてきた椋馬を思い返した。普段、電話もメールも苦手だと言う時代錯誤な彼が、草木も眠る丑三つ時に突然連絡してきたものだから、槐はどんな非常事態かと身構えた。
内容は確かに非常事態だった。しかし、最後まで聞けばとりあえずは眠っているRを起こすほどの事態ではなかった為、朝食時に報告することにした。
そして今がその朝食時である。
「何だ?」
言葉を切ったまま動かない槐にRが先を促す。朝食の皿は、もうほとんど空になっているのを見て、管理人の女性が何も言わずにコーヒーの準備を始める。
Rと槐は現在、宿舎の別邸に住んでいた。桜華宮にある宿舎の本邸とは違い、休暇などで訪れる場所で桜華宮の外れにある。桜の木と緑の森が混在する静かな田舎に居を構える別邸に二人だけで生活していると、静かで落ち着くが物悲しい気分になった。
近くに住んでいる管理人の初老の夫婦がこのぎくしゃくした二人を見かねて、家事や庭仕事の世話をほとんどやってくれているのだが、意外とRはこうした人々に寛容で、只人の彼らとの交流は大切にしているようだった。夫妻も、遠く離れた本国に置いてきた家族を懐かしんで、自分の子供のように何かと世話を焼いている。
──世話好きやお節介が周りに多いですね。
などと仲間内の名前を思い出しながら、管理人が気を利かせて去った後、槐は直立不動で殊更事務的に用件を述べた。
「ソードから事後報告です。昨夜、シールドとドールが外出中に六名のゼルトナーを捕獲したそうです。」
「・・・。」
ゼルトナーと聞いてもRは全く動じなかった。只人であるゼルトナーに倒されるような駒ではないという認識はあるらしい。さらに、サクラだけならともかく、荊姫も一緒だと聞いて全く心配はしていない様子だった。事実、朝食を早々に片付け、食後のコーヒーを堪能している。
槐はここまで予想済みだったが、その後の報告は慎重に口を開いた。
「その直後に別の対象によって奇襲を受け、シールドは拘束具によって気絶。ドールも、遠距離からの狙撃を受け負傷しました。」
その時初めて、Rが鋭い視線を向けてきた。仮面をしているから見えないが、荊姫が拘束具を振り切ったり、遠距離からサクラが狙撃されたりというのが気になったらしい。
「それで?」
「精密検査の結果、両者ともに命に別状はありません。湯沢氏の見解ではドールの足の骨や筋肉、血管は今朝の時点で完全に治り、過去のデータを参考にしただけですが、明日までには元の動きを取り戻せるとのことです。」
鋭い問い返しに事務的にサクラのことだけを口にしたが、黙って聞いていたRが重々しく口を開いた。コーヒーが冷めてしまうのも構わず、深く座った椅子の上で腕を組んでいる。
「・・・シールドはどうした。」
Rの懸念を察しながら、槐は言いにくい気持ちを押しこめてはっきりと報告した。
「意識はまだ回復していませんが、オリンピアに潜入して拘束度数を解析したところ、数日間は盤に支障が出るくらいの後遺症が見込まれます。拘束規定違反についてですが、現場や目撃者の証言からして奇襲に遭った証拠は十分得られましたので、謹慎処分は免れています。」
とりあえず、明日に迫った格闘盤への出場許可は下りたままだが、シールドである荊姫は使い物にならないと言外に告げると、Rはふと全く違うことを聞いてきた。
「・・・自力で危機を脱したのか。」
それはサクラが自分で奇襲をしてきた人物を撃退したのかというものだった。その心情は何処か期待を含んでいて、槐は胸が詰まった。
「・・・残念ながら、近くを通りかかった上級盤のドールによって救出されています。そのドールの口添えもあり、謹慎は無効になっています。」
さぞや落ち込むかとも思ったが、Rは逆に安心したように他の質問をしてきた。
「奇襲はゼルトナーではなかったのか?」
「ドールの話では一度に数十の石礫が時速百キロほどの速度で襲いかかってきたそうです。遠距離射撃については、おそらくライフルかと。銃弾もきちんと二発分残っていました。もちろん本国製ですが、解析の結果、野外の狩猟でも使えるように駒の使用も許可されています。近距離狙撃者と遠距離狙撃者、両者の関係は不明ですが、基本的にゼルトナーは駒を殺したりはしません。明らかに殺傷能力が高く、今回のような特殊な攻撃手段から判断する限り・・・」
「犯人は・・・駒か。」
吐息のように呟いたが、Rは大して気にしているようには見えなかった。今まで、ライバルの駒達を秘密裏に始末して生き残ろうとしたボックスが存在しないわけではないからだろう。
「・・・いかがなさいますか?」
「どうもしない。」
冷めてしまったコーヒーを口に運び、新聞を大きく広げた姿は若年ながら一家の大黒柱という風格を備えていた。何事にも動じないその態度に槐は憧れを寄せているが、今回ばかりは返答に目を剥いた。
「・・・まさかこのまま格闘盤に出場なさるおつもりですか?」
「ああ。」
一瞬、無礼を承知で気でも狂ったのかと思った。
「・・・お分かりだと思いますが、ドールが使い物にならない以上、シールドの守護なしに低級とは言え格闘盤に参戦なさるのは些か危険すぎます。」
キング本人が狙われる格闘盤で、キングの守りが薄いと言うのは笑い話にもならない。殺して下さいと言っているようなものだ。しかし、Rは自分の命の心配など微塵も気にしていなかった。
「なおさらちょうどいいな。ドールには死ぬ気で頑張ってもらうさ。」
「キング・・・。」
いい加減に真面目に答えて下さいと言い募ろうとした時、Rは槐を睨め付けた。仮面で隠されているはずなのに感じるのは、氷の礫のような冷たい視線だった。全身が音を立てて凍りついたようだった。
「言ったはずだ、俺は勝つ為ならばどんな手段も選ばない。たとえ、誰が犠牲になろうとな。」
視線に射すくめられた槐は、最早何を言っても無駄だろと察し、一礼して食堂を後にした。
「ほんと・・・二人とも倒れてる時は心臓が止まるかと思ったよ。おまけにサクラ君は足に穴が開いてるし。」
「見事に貫通してたもんな、サクラのソックス。」
小言を口にする楓と椋馬に、サクラと荊姫は返す言葉もなかった。
今朝、サクラが目を覚ました時、いつもの宿舎の自室の天井ではなく、真っ白で薬臭い天井が目に飛び込んできた。隣のベッドには荊姫が様々な機械に繋がれていたが、顔色はいつものように赤みを帯びて美しかった。
「おや、サクラちゃんは目が覚めたみたいじゃの。」
よっこいしょと言いながらサクラのベッドの近くにある椅子に座った白衣の男は、Rのボックスの主治医である湯沢吉郎で、頭髪の薄くなった赤ら顔の人のよさそうなおじさんが近くにいるのを確認し、そこが駒専用の病院であることを確信した。サクラが今いる場所は、現在、Rのボックスの駒が負傷した際に運び込まれる病室で、南向きの窓からは朝の柔らかな日差しが降り注いでいる。
聴診や触診を一通り終え、湯沢は思案顔でサクラを見る。
「ふむ・・・他に痛いところはあるかね。精密検査はしたが、もう傷は塞がっておったからの。」
「大丈夫です、違和感があるだけですから。あの・・・いーちゃんは・・・?」
通常よりも数百倍の治癒能力を持つ自分よりも、拘束具で痛めつけられると分かっていながら結界を展開した荊姫の方が心配だった。拘束具での規制は、下手をすると身体的・精神的な障害を一生背負うことになる。
「外傷はないのぉ、ただ拘束がきつめにかけられているからの、しばらく痺れるかもしれんな。」
「治り・・・ますか?」
湯沢の言葉に最悪の事態を考えたサクラだったが、湯沢は豪快に笑って言った。
「数日すれば元に戻る。安心せい。」
ぽんぽんと頭を撫でられ、ほっとしていると湯沢は病室のドアに向かっていく。もう帰るのかと思ったが、ドアを勢いよく開けた湯沢は早朝にもかかわらず大声を出した。
「何しょぼくれとるんじゃ。サクラちゃんが目覚めたぞ。」
湯沢が病室のドアの進路を譲ってやると、椋馬と楓が凄まじい勢いで病室に雪崩れ込んできた。
「サクラ、大丈夫なのかっ!」
「サクラ君、具合は・・・!」
「五月蠅いぞ、若造ども。荊姫が寝とるんじゃ、静かにせんかっ!」
小さなサクラを押し倒し、押し潰さんばかりに身を乗り出す駒二人の襟首を掴んで、耳元で一喝した湯沢の声に、サイドテーブルの上に置かれた水差しの水面が揺れた。
その怒声が効いたのか、荊姫も五月蠅そうに目を覚ましたが、起きた瞬間の第一声は
「お腹すいたんだけど、何か食べられるものない?」
という緊張感の欠片もないものだった。椋馬が容赦なくその頭に拳骨を落とし、その椋馬は湯沢の手刀を脳天に受ける羽目になっていた。
ひとまず、栄養食という湯気の立ったおいしそうな食事を五人しかいないにもかかわらず、十五人前も看護援助機械に頼み、サクラと荊姫のベッドの間に他の三人が座って、朝食を摂りながらの意見交換となった。
サクラは荊姫が無事なことに、荊姫はサクラが無事なことをことのほか喜んだが、手足が若干痺れると言ってうまく動かせていないことをはっきりと告げた。ベッドのリクライニング機能で上体を起こしたが、自分からは全く動こうとしなかった。
湯沢の見立てでは歩けるくらいまでには今日中に回復するかもしれないが、精密操作を必要とする結界の展開は難しいと言うものだった。案の定、守られる事で荊姫をこんな状態にしてしまったサクラは落ち込んだ。しかし、荊姫は全く気にしていなかった。そもそも、後悔する暇もないほど目前に格闘盤は迫っていた。
「でも、これはサクラを守れた証でもあるし、サクラは私が気絶した後守ってくれたんでしょう? だから、おあいこね。」
責任を感じたサクラだったが、確かにあの石礫にはどんな回避をしても間に合わなかったという自覚があったので、素直に感謝だけを述べた。胸の内に燻る未熟な自分への灼熱の後悔や苛立ちは消えることはなかったが。
「殺気がしたのよ。膨大な数のね。もしかしたら、ゼルトナーの時に感じたのはこっちだったのかも。ゼルトナーを隠れ蓑にしていたのかしら。まあ、どっちにしても結界展開はほとんど無意識だったわ。だから私が語れることはゼルトナーのことだけよ。でも、そっちは片付いたんでしょう?」
湯沢の手によって朝食を食べさせてもらいながら、予想というよりは確信に近い口調で荊姫が尋ねると、楓は槐伝手に調べたところ、捕獲されたゼルトナーは一応本国にて罰せられる予定らしいが、それが本当かどうかは分からないらしいと答えた。
オリンピアが裏で糸を引いていた場合、無罪放免なのは目に見えていたからだ。それに文句を言っても始まらないと、荊姫は自分が気絶した後の出来事を聞いてきた。
要点を定めて話せないくらいには色々あったサクラは、自分達に起こったことを質問されるがまま話していた。二重の奇襲や長距離射撃、強烈なエフェクトを持つドールのことも。
「・・・サクラ、頑張ってくれたのね。」
自分が気絶した後のことを聞いた荊姫は、私の為に身を呈してくれるなんて・・・と感動も露わに、逆にサクラに感謝した。頭を下げる荊姫にサクラは慌てていたが、あらすじを把握していた他の三人は運のいいサクラにひたすら感心していた。
「命拾いしたね。」
にこにこ笑顔でさらっと言った楓に、椋馬は若干青い顔色のまま食ってかかった。
「冗談に聞こえねえよ。」
「まぁ、事実じゃからのお。」
楓特製の手作りプリンに舌鼓を打ちながら、湯沢はふむふむと頷いていた。
「おっさん、それ見舞い用。あんたのは別に菓子折り、持ってきただろう。何勝手に食ってんだよ。」
「硬いことぬかすな、脳内筋肉馬鹿め。」
「おっさん、刺身にでもされたいのか?」
一触即発の雰囲気を無視して、楓は槐が調べ上げた二つ目の奇襲について語った。
「ライフルは駒でも所要許可が下りているものが使われたそうだよ。石礫は全力で投げれば力を使わずとも駒になら可能のようだしね。」
「そもそも、サクラを助けたドールが駒だって言ってたんだろう?」
「はい。」
日本人形を彷彿とさせる彼のドールは確かに駒だと言った。ライバル落としだとも言った。
荊姫は駒の証言を警察が信用している事に疑問を抱いたのか、楓に尋ねた。
警察は一応自衛団の役割を果たしているので、オリンピアとの癒着はないと言うのが売りである。もちろん、完全に信用できないのが現状だ。
「そのドールの身元は?」
「槐も調べたらしいんだけど、かなり上級の盤の駒らしくてはっきりしないようだね。ただ、それだけ上級の駒の見立てだから、警察もその証言とかには信頼を置いてるってさ。」
エフェクトだけでライフル弾を弾き返すようなドールならば、相当高位のドールだとは思っていたが、改めてサクラはその凛々しい立ち姿に感動した。自分の目指すべき駒像としては申し分ないものだった。
「案外、明日当たる盤の相手かもしれないのお。一番可能性が高いからの。」
湯沢がプリンを完全に片付けてしまったのを呆れたように見ていた椋馬が頷いた。
「槐もそっちを探っているらしい。ただ、Rは明日の格闘盤の棄権の意思はないみたいだな。このまま、参加させるだろう。襲撃については、それからゆっくり調べるらしい。不幸中の幸いと言うべきか、怪我の治りが早いとはいえドールは重傷、シールドは盤に支障が出る怪我だからな。盤に出場して勝ったとしても警察が動いて、罰則がなくなることもない。」
駒に人権は保証されていない。盤国内で辛うじて人間のように扱われているだけだ。それが傷付けられたくらいでは取り合ってくれないが、盤の運営などのオリンピアに不利に働く場合は積極的だった。今回のように荊姫が支障をきたすような襲撃があった場合、犯人を捕まえて盛り上がるのも本国の楽しみらしい。本国の人間は勧善懲悪を好むと言うが、全くひどい勧善懲悪もあったものではないというのが駒の一致した意見だった。
「・・・明日、あるんですか? いーちゃんがこんな状態なのに?」
「サクラ、うちのキングは言ってたじゃない。何を犠牲にしようとも勝つって。」
淡々とした口調だったが、怪我をして一番大変な荊姫自身の言葉でもサクラは納得できないと言うように言い募ろうとした。しかし、それを楓が止めた。
「サクラ君、気持ちはわかるけど僕達はキングには逆らえない。その点でいくら荊を思って文句を言っても、荊が困るだけだよ。」
「・・・はい。」
不条理なことを言っているようだったが、楓は敢えて現実的な話をサクラにした。
「その代わりと言っては変だけど、明日は荊の分までサクラ君が頑張ってくれるかい?」
「はいっ!」
元気よく返事をしたサクラは、踏めば違和感で痛みが走る足のリハビリをする為に湯沢と共に部屋を後にした。
「いーちゃん、私、頑張ります!」
「無理はするんじゃないわよ?」
「はい。」
「お前さんのリハビリも組んであるから、すぐに迎えに来るからの。」
そんなやりとりの後、残された駒二人は荊姫を見た。
「・・・おい。」
「・・・サクラの前だから言わなかったけど、起きているのも辛いわ。」
手足にうまく力は入らず、脱力感に支配されている。指先は震え、明日の盤に出場することは不可能なことがよく分かった。
「でも、うちのキングがやめないだろうって言うのは分かってたわ。」
考えてることはおかしいけど、行動自体は同じだと荊姫は言った。
「だからって、本当に明日出るのか。下手したら・・・死ぬぞ。」
キングを倒せば格闘盤は終了となる。逆に言えば、キングが倒れるまでどの駒が倒れようが死のうが盤は続行される。だからこそ、格闘盤でのシールドの位置は極めて重要なのだ。そのシールドがうまく働かない事でどれだけボックスが苦戦するか、荊姫は知らないはずがない。
「そうだよ、荊。僕達だってサクラ君も荊も守ったままじゃ・・・」
「守らなくていいわ。少なくとも私は。キングを・・・守って。」
サクラではなく、キングを守れと言う要望に、自分は守らなくていいという要望に、二人は瞠目した。簡易なパイプ椅子から、思わず椋馬が立ちあがる。
「お前、自分が何言ってるかわかってるのかっ!」
「分かってるから言ってるのよ。私は自分の身くらい自分で守れる。それがシールドとしてしか価値を置かれなかった私自身のプライドよ。」
駒として生まれ、駒として生きてきた荊姫には、シールドとしての役割こそが自分の誇りだと思っていた。自分を守ること。仲間を守ること。それが、自分が盤上に立つ存在意義だと。それを他の誰かに任せることは自分の存在価値を自分で踏みにじるようなものだったが、盤を棄権できない以上、選択肢などないに等しかった。
「あっちのボックスの仕業じゃないかもしれない。でも、あっちのボックスが勝たないと不都合な奴の仕業なのは確かでしょう?」
「その可能性は高いけど。」
言いづらそうだが今考えられる最も有力な説だけに、楓も否定はしなかった。もし永遠に犯人が分からなかったとしても、相手側にとって楓達が負ける方がなにかと有利だというのが分かっている以上、その利益を待っている相手を虱潰しにしていけば自然と代償は払われることになる。その手段が今のところ格闘盤だった。
そして、荊姫には別の懸念があった。
「勝ち進むしかないなら、勝ってきて。私も最大限努力する。」
「だけどな、荊姫。それにしたって何で・・・」
「もし今回キングが負けて、このボックスが破棄されたら・・・サクラはどうなるの?」
無理して作った明るい笑顔で病室を出て行ったサクラを思えば、復讐に近い盤への参加よりもそちらの方が余程深刻だった。
懇願にも近い、泣きそうな声に椋馬と楓はキングを守れと言われた時以上に驚いた。荊姫は決して弱さを見せない鋼のような女だったから、尚更だ。
「サクラ、何にも知らないのよ? どうして街に出たがらないか、知ってるでしょう?」
サクラは人前に出たがらない。それは自分を見る好奇と侮蔑の視線を敏感に感じているからなのだろう。だからこそ、街の様子も、外にある許された些細な楽しみですら知らない。勝利を皆で喜ぶことも、達成感も何一つ知らない。それはそうだ、気付かないうちに荊姫達がサクラを守っていたのだから。サクラが行動する前に荊姫達が片付け、サクラを危険から遠ざける。サクラは、ドールとしては最下層の力しかなくとも、駒としての能力は十分備わっているにも関わらず、だ。
そして、友人さえ知らずに今を過ごしている。まして、常に行動を共にしているのはかつて死線上と呼ばれた兵ばかり、息苦しくないはずはなかった。
そして、自分が侮蔑されるよりも、自分と一緒にいることで侮蔑や好奇に晒される他の三人のことを気にしていた。いくら気にしないと宥めても、サクラは自分が無能であるということを周囲から刷り込まれている為、どうしても負い目を感じているのだ。
挙句、キングの言動がサクラにさらなる不安やプレッシャーを与えていた。
その全てからサクラを守ることが、荊姫達にはできない。否、サクラに親身になっている三人だからこそ守れないのだ。
幼く純粋な瞳、細く小さな体を思えばサクラの委縮具合がいかなるものか想像を絶した。
何も知らないからこそ言い訳も弁明も八つ当たりもできないサクラは、荊姫からしてみれば丸裸だった。萼も棘も花弁さえも纏わない柔らかな花の芽が、吹雪を避ける術も知らず、ただ一身に受けているようなものだった。いくら守っても、庇っても、サクラは隙間風に萎縮する。背中を冷たくしながら笑顔の三人が自分の場所を暖めている分だけ、余計に委縮する。だからこそ、吹雪自身が温かい春風になる必要があった。それを行えるのはサクラだけだ。それがたった一人だけだとしても、サクラの現状を大きく変えるだろう。
サクラの生き方は駒としてはあまりにも過酷で、純粋すぎる生き方に見えた。虚勢という硬い殻を纏った者たちからしてみれば、羨ましいほどの純粋さだ。それが、逆に周囲との溝を深めている。能力が追いついてこない分、余計に苦しむ事にもなる。
「このまま破棄されて、悪くしたら本国で奴隷みたいな扱いを受けるの? あんなに優しい子が? 私とサクラ、まだ出会って半年しか経ってないのに、私を守る為にあんな無茶した子を見殺しにするなんて、私にはできない。」
ほとんど意識がない中、荊姫がどうしてその声が拾えたか分からなかったが、泣き叫ぶサクラの声を聞いた。
荊姫を殺さないでくれと必死に乞うような声が痛みとして胸に広がった。
ライフルで足を貫かれ、自分自身もいつ頭を撃ち抜かれて即死するか分からない状況でも、サクラが荊姫を一番心配していたのを知った時、荊姫は泣きそうになった。
荊姫は自分のことだけを考えて生きてきた。生き残る為に、傷付かない為に、周りを気にしている余裕がなかったと言ってもいい。シールドという攻撃手段を持たない駒である荊姫の生き方とは、そういうものだった。
だからこそ、弱いサクラが強い自分によく懐くのは分かったが、そのサクラ自身が荊姫を守る為に身を呈してくれるとは露ほども思っていなかった。だからこそ、庇われたことに衝撃を受けた。同時に自分の思い違いを恥じた。出会って僅か半年、自分よりも実力のある者たちに囲まれ、守られているという肩身の狭い思いをしていたサクラを本当に守るには、結界に頼るだけでは駄目なのだと。サクラ自身が自分を守れるようにしなければならないのだと。
守るという大義名分でもって、サクラの行動を制限していた自分達が変わらなければ。
それは偶然にも、Rが半年間打ち続けた盤の予定と行動に見られるものだった。
『死線上』に恥じないドール。
そんなもの、簡単になれるものではない。荊姫達が数年かけて骨身を削って造り上げたその栄誉に、簡単に辿りつかれてしまってはこちらの立つ瀬がない。だが、それに近付くことはできた。それを為すためにはサクラ自身の行動力が、荊姫達が守りを緩めることが必要だった。
「何かを・・・変えなくちゃいけないんだと思う。最初はすごく辛いかもしれない。本当はひどい事してるのかもしれない。でも・・・このままじゃ、サクラは何も知らないままだわ。」
初めて立った盤がどんなものだったか、荊姫は覚えていた。楓も、椋馬も例外ではない。殺されるかもしれないという恐怖、自分のせいで誰か死んでしまうかもしれないという重圧をまだ平然と受け流せなかった頃を、サクラに味合わせようとしているのだと思うと、ひどい罪悪感に見舞われた。それでも、やらねばならないことだった。
自分が駒としてではなく、荊姫として心配されている事実を再確認すれば、サクラ自身の為にもどうしても今回の格闘盤に勝たなくてはいけなかった。それも、サクラ自身が行動することで。
「桜の名を冠するならば・・・返り咲くよ。」
荊姫の心中に何かを察したのか、楓はそんなことを言った。
「返り咲きか・・・盤国の国花なら、そうだろうな。」
椋馬も笑ってそう言った。
盤国の桜は、一年に何度も何度も咲く。咲いては散り、また咲いては散る。決して枯れることなく、咲き続ける。
それを冠する少女に期待を寄せた。
「サクラ君の行動力には僕も驚かされた。まさか荊を横抱きにするとは。僕は躊躇うね。」
「そうだな、ついこの前までぴーぴー泣いてた雛鳥が、いきなり逞しくなったみたいだった。」
「・・・その話はいいから。」
憶えていないとはいえ、自分よりいくつも年下のサクラにお姫様抱っこをされたことがよほどショックだったのか荊姫は項垂れた。
「でも・・・よく考えたら、どんな能力を秘めてるのか楽しみだよな。」
椋馬が何やら納得しながら言う。
「なんでだい?」
「だって考えてみろよ。俺達皆、一応異名が付くほどには強いんだぜ?」
「うん、それで?」
自分に異名が付いているのは知っていたが、それがなんだという楓に、椋馬は呆れたように繰り返した。
「だからさ、俺らはキングのレベルに合わせてボックスを組まされてるんだ。言い換えれば、Rは全員が異名持ちになるくらいには高レベルって事だろう?」
「そうね。」
荊姫もいまいち椋馬の言いたいことが分からなかった。椋馬は察しの悪い二人に噛み砕いて説明した。
「だったらさ、サクラもそのくらいの素質は十分あるってことなんだろうな。」
【間章】
『戦うのが怖いって思ったこと・・・ない?』
私が問いかけると、友人は変な物でも見るように私を見た。
『な、なに?』
『あんた・・・熱でもあるの?』
『な、ないよ。ただ、どうかなって思っただけ。』
『ふぅん、まあ、あたしは最初こそ思ったけど・・・今は全然。』
『ふぅん・・・。』
私は友人が強いと思った。彼女は恐れず突き進む。私は恐れながら歩く。
『・・・あんた、まだ怖いなんて言ってるの? いったい何回上級盤をこなしてると思ってるの? その度に大活躍してるくせに。』
『だって・・・盤上で戸惑ってたら、私の大切な人が死んじゃうかもしれない。』
『そうだね、同じ方向に向かう勢力同士がぶつかったら自分を殺すか、相手を殺すしかない。あんたはぶつかることを選んでいるみたいだけど。』
『・・・自分勝手な考えだよね。』
『あたしたち駒は、そんなものでしょ。』
私たち駒に選択権は最初からない。用意されているようで、実は全部同じ内容だったなんてことはよくある。
『恐怖や怯えを振り切る為に勇気があるんだと思ってた。でも、実際の恐怖を目の前にして勇気を振り絞れる人って、実は少ないのね。』
『観念的なことをいってるようだけど・・・勇気なんて後付けだと思う。』
『・・・どういうこと?』
『絶対に譲れないものがあたしたちにはある。あんたの場合は自分の仲間で、あたしは自分の居場所。そこを守る為に必死になる。それが後々勇気になるってことでしょう?』
『うん・・・。』
『・・・元気出しなさいよ。あんた、それでもあたしの友達なんでしょう? しゃきっとしなさい、しゃきっとっ!』
気合を入れるように背中を叩かれ、私はむせた。
『・・・強いよ。』
『ごめんごめん・・・ちょっと力入れ過ぎた・・・。』
『そうじゃなくて・・・貴女が強いなって。』
『はぁ? 何言ってるかな、この子は。』
『ふふ、元気出た、ありがとう。』
【四】
「サクラ。」
呼ばれて、慌てて夢から覚めた。そこは、病院でも宿舎でもないモノレールの中だった。
「着いたよ。」
「・・・はい。」
荊姫の震える手を自分の震える手で握り締め、サクラはモノレールを降りた。
桜華宮とは違う、ピンと張りつめた空気。敵意すら感じる視線が痛くて、サクラは被っていたベレー帽を深く被りなおした。
──第一主要都市 エリス
ガラス張りのプラットホームが多数存在するセントラルステーションからは、エリスの高層ビル群がこちらに覆い被さるように歪んで見えた。緑がかった青い色で統一された建物の間を、空中道路と呼ばれる車専用の管状道路が縦横無尽に走っている。下を見れば、歩行者天国と化した道路を人々が一定の方向で流れていた。
セントラルステーションで下車すると、そのモノレールに乗っていた多くの駒達が一斉にある方向に歩きだした。
セントラルステーションと連結橋で結ばれたオリンピア競技団本部。盤の行われるフィールドまでの発着場は、ここにある。
「多いな。」
「今日が休日だからね。ほら、一般車両もギュウギュウ詰め。」
セントラルステーションの二階は駒用、一階と三階は一般人用のプラットホームになっており、上の階からエスカレーターで下ってくる只人が、好奇の視線で駒達を眺めている。
「暇人どもめ。」
生中継される盤をわざわざ現地で見ようという酔狂な只人に、椋馬は些か不機嫌になった。
「どうせ僕等は見せ物だからね。」
歩き始めた楓と椋馬に、荊姫とサクラはゆっくりついて行った。
──結局、荊姫はゆっくりとした自立歩行はできるが、跳ねたり走ったりできるまでには回復しなかった。本人はじっと立って結界くらいは展開できると言っていたが、果たしてどこまで行えるかは分からない。
「いーちゃん・・・。」
「大丈夫、第六発着場よね?」
「おう。」
オリンピア本部の入り口ですぐに個体情報を読み取られ、入館すると、中は天井まで吹き抜けのドーム状になっていた。地下と一、二階が実質的な本部であり、地上に出ているほとんどが発着場だ。
荊姫や椋馬の髪色は非常に目立ち、嫌でも好奇の視線に晒され、サクラは意思が挫けそうだった。それでも荊姫の普段は震えない手が震えるのを感じれば、逃げ出すことなどできなかった。ひたすら視線やひそひそと囁かれる声を無視して、無人のエレベーターに椋馬達に続いて乗り込んで、少しだけ息を吐いた。
「ふふ、すごく眉間に皺が寄ってるわよ。」
陽気に笑ってサクラの眉間の皺を揉み解す荊姫に、サクラはちょっと不機嫌になって尋ねた。
「いーちゃんは不安じゃないんですか、今日。」
「全然。」
平然としたものだった。そこには少しの躊躇もなかった。そんな荊姫をサクラは驚いたように見上げた。
「どうしてですか? すごく危ないんですよ?」
羨ましさを含みながら尋ねれば、荊姫は微笑みながらも震える指先をサクラの眉間から離して言った。
「だって、サクラが私を守ってくれたんですもの。今日じゃないわ、一昨日よ。あの時の私は今より役立たずだったでしょう。でも、生き残った。サクラと一緒に。だから、今日はお茶の子さいさいだと思っているわ。」
その自信に、サクラは唖然とした。そんな自信の持ちようがあるとは全く思わなかった。その考え方はサクラにはないものだった。
「いーちゃんは・・・強いんですね。」
いまだに不安でしょうがない自分を叱咤するように俯けば、荊姫は笑って首を横に振った。
「そんなことないわ。ただ・・・今日は負ける気がしないの。何故かしらね。」
根拠のない自信だと荊姫は笑ったが、サクラはその日の気分だけで自信など持てなかった。
エレベーターが三階に上がり、発着場への扉が開くと、すぐに見知った男が出迎えた。
「ああ、来ましたね。こちらです。」
槐がそう言って先導すると六つある発着場の内、電光掲示板に『第六発着場』と記された自動ドアの前まで案内された。エレベーターから一番遠いドアまでの道中、槐は荊姫とサクラに近寄って調子を聞いてきた。
「先日は大変でしたね。今日はお加減はいかがですか?」
荊姫達に言わせれば胡散臭い笑みだったが、キングの右腕として活躍しているタクティクの槐はサクラの尊敬する先輩の一人でもある。緊張しながら大丈夫ですと返すと、それは結構ですと言われた。
「シールド、どうですか?」
「はっきり言って芳しくないわ。今回はあてにならないと思っていいわね。」
胡散臭い笑顔に嫌そうな顔をしながら、自信満々でそんな保証をした。はっきり言えばあまりありがたくない保証に、サクラ自身も固まってしまった。
「・・・困りましたね。」
心底困るかと思いきや、槐は溜息をついて「今日は楽にはいきそうにありませんね。」と言いながら、早速思考にふけり始めた。
「・・・相変わらず難解なことが好きだな。」
あれは中毒だと言う椋馬の言葉に、サクラ以外がそうだねと言って頷いた。
「どういうことですか?」
意味が分からないサクラに楓が苦笑して注釈を入れた。
「楽に勝てない方が槐は嬉しいんだよ。」
「・・・何でですか?」
楽に勝てる方が安全でいいじゃないかと言うと、それじゃあ何も得られないと楓は言った。
「ゲームだからね、盤は。心理戦でもある。策士は自分の策で相手を打ち負かすのが楽しいんだ。難解なら難解なだけ、力が試される。うまくすれば、僕たち駒の能力も上がるからね。」
そんなに楽しいのだろうか。サクラにとって盤とは恐怖の対象だった。楽しめる要素がなかったが、確かに槐は盤の最中イキイキしている。それは椋馬や楓、荊姫も少なからず感じられる高揚感だった。
──キングは・・・どうなんだろう?
今までキングとまともに話したことはない。盤の最中、キングの声はサクラに回ってこないから、余計にどうなのか分からなかった。
発着場の壁に背を預けている真っ赤な髪の白い仮面の男が、こちらの足音に気付いたのか俯きがちだった顔を上げた。仮面は目元の部分にアーモンド状の彫り込みがあるだけで穴は開いていないから、Rからサクラ達は見えないはずだ。しかし、まるで見えているような仕草だった。
「・・・来たようだな。」
「何だよ、まだ乗ってなかったのか。珍しいな。」
いつもならば発着場の自分の搭載艇に乗っているはずなのに、Rは珍しく全員の到着を待っていた。
椋馬の疑問には何も返さず、一頻り全員を眺めた後、サクラを見て少しだけ首を傾げていた。その機微に反応を示す時間もなく、キングが発着場のゲートへと向かう。
「行くぞ。」
「では皆さん、頑張りましょうね。」
静かに背を向けるRと意気揚々と言った感じで発着ゲートに向かう槐を目で追って、椋馬と楓も歩き出した。
「まっ、あんまり緊張するなよ。」
「僕達も頑張りましょう。」
サクラと荊姫の背中を、気合を入れるように叩いて、二人がゲートに向かう。
「・・・行きましょう。」
サクラも前線に赴く気持ちで一歩を踏み出したが、荊姫に立ち襟を引っ張られた。
「待って、サクラ。」
「ふぇ・・・?」
すると、振り返ろうとした頭をそのまま固定され、髪にリボンを巻かれた。
「・・・これ。」
一昨日沙紀の店で荊姫が見立ててくれた桜色に細かなレースをあしらった髪飾りだった。
「無事だったんですね。」
「ジャムと一緒に配送してもらったもの。これはお守り。今度はゆっくり、沙紀さんのお店に行こうね。」
「・・・はい。はい、きっと、きっとですよ?」
約束は、サクラの緊張した体をゆっくり解かしていった。
今の荊姫が縛ったリボンは少しだけ不格好だったが、サクラには何よりも嬉しい。
「いーちゃん。私・・・頑張りますからね。」
「ええ、お互いに。」
笑いあって、サクラと荊姫も発着ゲートを通り抜けると、三列の送迎艇レーンがあった。
中央の中型艇二艇は、盤終了時にそれぞれの駒を回収するものだ。
それを挟んで、小型艇が六つずつ軒を連ねている。これは送り用のもので、各ボックスの駒をそれぞれのスタートレーンに送る自動操縦型小型艇だった。盤は広大なフィールドを有効活用する為、敵に全く出会わなかったり、一対多数で出会ったりすることをなるべく回避する為、開始時は離れ離れの場所から行う仕組みになっている。ただし、タクティクはキングの補佐であり、策士担当であまり戦闘に関係ない為、キングのすぐ近くか離れていたとしても比較的安全な場所で仲間達に中継を行っている。それでも、タクティクの死亡率は他の駒と大して変わらないのが現状だった。
サクラは自分用に用意された小型艇に乗り込むと、その中に用意されていたフックにコートとベレー帽を被せる。普段着ている袖口のゆったりした立ち襟の白い上着は一応防弾仕様であり、ズボンもソックスもブーツもなるべく肌が見えないものを選ぶ。コートなどは邪魔になるので小型艇に置き、代わりに遮光や防塵用だという薄緑色のゴーグルをかけた。
座席に座り、シートベルトを着用すると、フロントガラス上部で点滅していた赤いランプが準備完了を告げる青色に変わった。すると、全小型艇の準備が調ったことを知らせるアナウンスが小型艇内に流れた。
【格闘盤Dの一の離陸準備が完了しました。ただいまより離陸を開始します。尚、到着と同時に本日の盤上の簡易地図を配布し、衛星中継を開始いたします。駒の皆さんは、着陸後、本戦開始の合図があるまで迎撃ゲートを出ないでください。】
アナウンスが流れている間に、駒の乗った小型艇が宙に浮く。小型艇は最初、助走をつけるように緩やかに、静かにレーンを走っていたが、やがて加速してトンネル内を猛スピードで走り出した。間合いを開けて、同ボックスの駒の小型艇もそれに続く。
トンネル内のオレンジの光の中、入り組んだルートを進んだ小型艇が外へと続く扉に向かって急上昇した。急激な重力の負荷に一瞬息を詰めた後、外に飛び出した小型艇は眩しい光に包まれた。
「わぁ・・・!」
出た先は・・・広大な海の上だった。日差しがぎらぎらと照らし、波が白くうねっているように見える。半年間、盤をこなしてきたが、海上に出たのはサクラにとってこれが初めてだった。
小型艇は離れて二列に並びながら飛び続け、ある小さな島が見えてきた時、初めて列を乱した。
【只今より、フロントガラスを遮断いたします。また、画面に本日の地図を配布いたします。】
フロントガラスに黒いカーテンのようなものがかかり、近付いた島と仲間の行き先を覆い隠す。そして、座席の目の前に設置された画面に、立体的な島の全貌と地図が映し出された。
「・・・無人島。」
名前もないその島の現在の気温は三十五度、湿度もかなり高い。しかし、生い茂るのは毒を持つ植物で、待ち受ける虫や獣も人体に害をなすものもいる。蒸し暑いだろうが、半袖になるわけにはいかない気候だった。
「・・・雨、降らないといいな。」
もしくは降る前に終わって欲しかった。雨の中では自分の機動力を大いに削がれてしまう。
再び憂欝になり出した自分を叱咤して、大体の島の地理を頭に入れる。本当はこんな事をしなくとも、槐が把握しているのでいいのだが、それが途切れないとは言い切れないと言って荊姫達に頭に入れておくようにと念押しされている。
サクラが大体の地理を頭に叩き込んだ時、小型艇の速度がゆっくりと落ち、やがて静かな揺れと共に止まった。
【キングRのドール、サクラの輸送を終了しました。十分以内に迎撃ゲートにて準備を終了してください。】
シートベルトが自動で取れ、同時に自動ドアが開いた。サクラがドアを潜りぬけると、予想していた通り、生温かいむわっとする湿気の多い空気に包まれた。撥水使用で汗が早く乾く素材の服だったが、それでも汗が滲んだ。
鬱蒼と茂る木々や蔦に怯みながら、サクラは腐葉土でふかふかの地面に足を降ろし、鉄パイプで組んだだけの低い柵に囲われた道を通って、異様な存在感を放つ箱と言うより檻のような迎撃ゲート準備室に入った。サクラが入ると後ろの扉が閉まり、隅にあった備え付けの棚が開いて、ウエストポーチや小型のナイフをサクラに見せた。これは、支給品アイテムで、あらかじめ申請して置いた持参の武器以外に使える消耗品だった。揃えられるものであれば、期日の制限はあるが、携帯食料や武器も揃えてくれる。サクラはウエストポーチを素早く腰に巻きつけ、小型ナイフの付いたベルトを斜めに腰に巻きつける。
他にもいる物を体中に仕込んでから、サクラは青く光る第一迎撃ゲートの前に立つ。すると、鉄でできた扉が横に滑り、サクラに進路を示した。外に出ると後ろの扉が閉まり、ロックがかかった。駒が逃げ込まないようにする為だ。奥は準備室に行くまでと同じように鉄柵で囲まれた通路になっており、正面には同様に鉄柵で封がしてある。これが実質的な迎撃ゲートであり、本物の戦場への入り口でもある。
サクラは突き当たりから一メートル離れたところで足を止めた。
鼻から吸い込み、口から吐き出す呼吸を繰り返して瞑想状態でアナウンスを待った。
【本日の格闘盤D戦を行います。】
やがて鬱蒼とした木々の上から無機質な声が響いた。中継用と監視用のカメラ兼スピーカーが空中を旋回している。
【本日の盤は密林フィールドで行います。先にキングを倒したほうが勝ちとなります。なお、キングが倒れたと判明した瞬間にゲーム終了とし、キングが無事なボックスを勝者とみなします。】
簡単な盤の説明をしてから、スピーカーが一拍置いた。
【総員、配置についてください。】
線で示された立ち位置を確認し、サクラはじっと目を瞑った。耳に、敵味方の駒が配置に付く足音が聞こえた気がした。
──不思議。
【格闘盤D戦開始五秒前】
いつもなら体から飛び出るほどの鼓動を撃つ心臓が、今日は静かだった。荊姫の分まで頑張ろうという気合の為かとも思ったが、そうではなかった。
【四、三、二、一】
──落ち着く。
不思議な安心感に身を包まれ、サクラはそっと目を開いた。
【ゲーム開始。拘束具解除。】
瞬間、サクラは走り出していた。
耳に装着された拘束具の電磁波を一切感じない。騒音が鳴りを潜め、視界がクリアになった。邪魔なゴーグルをポーチの中にしまいながら走り抜けると、頭の中に声が響いた。
『現時点からタクティクの私がキング補佐として皆さんに指示を出しますので、よく聞いて・・・って、ドール。先走らないでくださいっ! まだ貴女は動かなくていいんですよ、余計なことはしないでくださいっ!』
サクラの行動をいち早く見咎めた槐が焦ったような、怒ったような声を発したが、サクラは引き寄せられるかのように足を進めた。足場はあまり良くなかったが、茶色のブーツは一度も滑ることなく主の動きに従っている。
『ドール、何処に行くんですかっ!』
「なんだか・・・」
『はい?』
「なんだか・・・懐かしい感じがするんです。何でかは分かんないんですけど。」
息も乱さずに密林を走り抜けるサクラがそう口にした瞬間、押し黙った。僅かに息を飲んだような気配を感じたが、それは溜息によって消された。
『・・・仕方ありません。皆さんの現在地はソードが六時、ポーンが十一時、ドールが三時、キングが九時、私が九時半の位置です。尚、シールドの現在地を秘匿します。』
引き寄せられるように走っていたサクラがその時、心を乱した。
「えっ?」
『現在、敵の一人がこちらに接近中。これはポーンにお任せします。今の場所から右に三百メートル進んでください。ソードは五百メートル直進。ドールは・・・まあ、まだ何もありませんので、そのまま進んでください。』
──行方が分からない?
荊姫の居場所を何故秘匿にしたのかは言うまでも無いが、それでもサクラは心配になった。
「・・・。」
『ドール、気になることを先に片付けてください。』
「でも・・・」
『ドールとはそういうものです。飛び出して言った理由をはっきりさせて、盤に集中しなさい。』
それきり、槐は指示を出さなくなった。サクラは後ろ髪を引かれる思いだったが、しばし速度を落とした後、再び全速力で走りだした。
「シールド。」
呼びかけに応えない荊姫に、槐は近くにいるRを見た。
目立つのも気にせずに苔むした大きな岩の上に腰かけ長く黒い外套を広げる姿は、他人の手がほとんど加わっていない自然の中にあってひどく浮世離れしていて、幻想的だった。白い仮面に覆われた目は閉じられているように見えた。
「呼びかけに応えませんね。やはり、無理をしていたんでしょう。」
タクティクは策士の駒であり、キングの補佐が主な役目で、情報収集・処理能力はスーパーコンピューターに匹敵すると言われている。情報を仲間内に伝える為、テレパシーを備える。特に槐の能力は行き来自由のネットワーク式テレパシーを組んで、自由なやりとりを成功させている。こんな事をしているのは上級駒だけだが、低級盤に堕ちても槐にはそれが可能だった。
槐とRの信頼関係は、現在ボックスの中で一番強く、槐の能力は長時間、広範囲に及ぶ。
本来、キングはタクティクと同様に広大な情報収集能力を有する為、盤上のあらゆることを知覚できる。しかし処理能力はない為、それを解析して作戦を立て、仲間内に伝えるのはタクティクの役目だ。キングに備わるテレパシーは個人向けであり、仲間への連絡には不向きだからという理由もある。
こう考えると、タクティクがキングと言われた方がいいような気もするが、タクティクはどうしても情報を机上の物として処理する傾向があった。キングのようにリアルタイムの仲間の情報を、生きた人間の変化を読むことに長けていなかった。言ってしまえば、人間同士の理論では説明できない突飛な現象に耐性がなかった。
キングがタクティクよりも上位に位置付けられるのにはこの差が大きかったからだ。頂点に立つ者に必要なのは、仲間を引きつける才覚であって、優れた机上の作戦ではない。賢くある分には構わないが、ずる賢くあることは必要ではない。だからこそ、キングにはそこで大きな役割を担っていた。
盤上において、キングとの精神的な信頼関係が駒の攻撃力、守備力、魔法やエフェクトに深く関係する。
現に、Rとの精神的繋がりが最も少ないサクラの能力は、全く開花の兆しが見えない。横たわる信頼がなければ、駒は只人より少しだけ能力の高い人間と変わらないのだ。サクラの現状はまさにそれだった。
そして、キングが倒れた瞬間、全ての力配分の基礎が失われ、そのボックスの駒は今のサクラのような状況となる。だからこそ、最大の急所としてキングは格闘盤で狙われるのだ。
「おそらく、精神的に消耗が激しいから、雑音混じりになって拾えないんだろう。」
「貴方でもわかりませんか?」
駒に関しては、槐は自分の情報よりRの意見や情報を優先する。逆に、作戦はRが槐を優先した。お互いの得手不得手がよく分かっているからだ。
「位置情報やなんかは分からないが、少なくとも攻撃を受けているわけではないな。」
身を隠している状態だろうと言っているうちに、Rが微かに顔を上げた。
槐も微かに顔を上げる。
「ソード、及びポーンが交戦中。どうですか?」
「・・・こちらは二人使えないんだ。おまけに結界もなし。」
厳しいというのが、Rの見解だった。
走っていた椋馬が背筋に悪寒を感じて飛びのくと、小さなナイフが大量に頭上から降ってきた。
「・・・っ!」
いつもは荊姫の結界があるが、今日はそれがない。やはり駄目かと思っていたところにこの奇襲をかけられ、椋馬は焦った。しかし、内心とは裏腹に鍛え抜かれた戦闘本能はやすやすと刃物をかわし、その降って来た方向に袖に仕組んだナイフを投げた。
「うわぁっ!」
そんな声と共に落っこちてきた小さな影にすかさず駆け寄って、愛用の剣を突き立てたが、すぐに引いて飛び退った。直後に、変色したナイフが、椋馬がいた場所に刺さった。獲物を確認していたら、毒の塗られた刃が首に直撃していたことになる。
「ちっ!」
厄介な相手との遭遇に、椋馬は歯噛みした。
落ちていたのは只の人形だった。人型を模しただけの簡単なものだったが、重さも声も確かにその人形から発されていた。
──ドールか? いや、ポーン?
ソードのようにただ単に攻撃するだけの駒は、実はドールのような化かし合いを得意とする駒を相手にするのは不向きだった。その上刺客の駒と言われるだけあって、非常に動きが素早く身軽だ。
姿が見えず、軽い武器でちょこまか動くドールは厄介だった。しかも、魔法を連発されたらもっと厄介だった。基本的に、ドールの魔法は避けるか、結界で防ぐ以外に方法はない。どこから撃ってくるかも分からず、結界もない今、非常にまずかった。これが身軽なだけのポーンならば、話はまた変わってくる。
『ソード、相手の姿は見えますか?』
「見えねぇな。」
独り言のように呟いて、椋馬はさらに走った。姿が見えない上に、身軽で軽い武器を有している場合、一所にいるのは危険だった。なるべくジグザグに進む。すると、後を追うようにナイフがその道に突き刺さっていく。
『いちいち貴方に構っていられませんのでこうしましょう。あなたの前方、右側三本目の木を前に倒れるように切ってください。切ったら大きく後方に跳んでください。』
ひどい台詞に若干の苛立ちを感じながら、椋馬がそのまま剣を横に払うと、細い木は簡単に倒れて前方の道を塞ぐように倒れる。言われた通り、それが地面に当たる前にソードは大きく跳躍した。十メートル以上離れた時、前方から凄まじい威力の火柱が立った。
「・・・トラップ。」
盤上には罠と言うには洒落にならないトラップが仕掛けられている事が多く、見つかるようにしてある物から、タクティクにも見つからないようにしてある物まである。今回は前者だったようだ。
火柱が収まらないうちに、椋馬は辺りの不自然な音に反応して、手にしたカラーボールを思い切りそこに投げた。
と、同時に、斬りかかった。
「・・・っ!」
いきなり上がった火柱に注意を逸らされたのか、足音が丸聞こえだった駒は頭にカラーボールをくらったのか、上半身ずぶ濡れで若干呆然としていた。しかし、咄嗟に避け、赤いペンキに塗れた透明人間が椋馬の攻撃をかわした。
「よお、やっと会えたな。お前、ドールか?」
「さぁ、どうだろうね。」
サクラより年上で、槐より年下そうな少年は、見つかったことが悔しそうに唇を噛んだ。その服の前面は、椋馬の斬撃で綺麗に裂かれている。
『彼はポーンです。』
「はぁ?」
椋馬は見えない相手に弱くとも、見える相手には強かった。どんなに身軽でも、全体的な運動能力を飛躍的に進化させた椋馬には通用しない。まして、覚醒段階のポーンでは話にならない。
「ドールじゃないのに姿が見えなかったが・・・プロモーション、してるのか?」
椋馬の斬撃をかわし、手にした投擲用のナイフを間断なく投げながら応戦するポーンらしい少年を追いかけながら、誘導しながら話しかけると、槐は応えた。
『違いますね。相手方のドールの魔法ですね。』
「近くにいるのか?」
『ドールのエフェクトなのか姿消しの魔法なのかはわかりませんが、僕もキングも捕捉できません。』
姿を消す能力を有する場合、タクティクもキングもドールが何処にいるのか分からなくなる。
「厄介だな。」
椋馬がそう言って剣を突き出すと、相手は頭を仰け反らせて首への斬撃をかわしたが、同時に足元ががら空きだった。軸足を蹴り、地面に叩きつけられたポーンに向かって剣を振り下ろした時、薄青い結界に剣が弾かれたのと同時に椋馬は大きく跳躍した。
「・・・シールドだな。」
槐によって補足された場所を見れば、うっすらと青みを帯びた人間のシルエットが遠くに佇んでいる。
ポーンを庇うように現れたシールドに、椋馬はわずかに舌打ちした。ポーンを仕留めきれなかったのが痛かった。
二体一だが、ドールでないならまだやりやすい。後方支援向きのシールドの結界も、椋馬は何回も自分の力で破ったことがある。要は本体の方を隙を見て倒すか、力任せに砕いてしまえばいいのだ。
しかし、別の問題があった。自分のところにドールやソードが来ていないということは、他の場所に行っているということだ。
楓のところに行ったのならまだいい。それが両方を相手にする事になったとしても勝算はある。しかし、Rのところにどちらか一方でも向かわれた場合、最悪だった。誰も守る者がいないのだ。可能性は五分五分だった。
サクラが魔法が使えないことは有名だった。かつて死線上と呼ばれた名高いボックスに配属されながら、無能だと言われていたからだ。だからこそ、あちら側は確実にサクラを攻撃はしないと思っていた。するだけ無駄だ。
同時に、槐の捜査網にも引っ掛からない荊姫を見つけるというのも考えにくかった。
つまり、あちらが狙ってくるのは自分と楓、槐、Rに限定された。この場合、戦力になるのは一応、椋馬と楓だけだ。そして、自分達は低級盤に堕ちたとは言え、異名持ちであり、今もその実力は変わらないと周囲は言う。つまり、警戒しないはずがなかった
自分のところにシールドとポーンがいるならば、確実に戦力を削ぎに来ているという証明でもあった。楓にドールとソードの両方が回っている可能性が高いとみた方がいい。しかし、不測の事態が起き、どちらかが別に行動していた、または極めて低い可能性ではあるがキング自らが出向いているとなると・・・
「まずいな・・・。」
正眼に構えた剣が、鬱蒼と茂る森の中で、不気味に輝いている。構えた敵に椋馬はどちらかを確実に倒すか、両方の機動力を削ぐかに決めた。
「早く片付けないと・・・」
ポーンが再び姿を消すのを見て、ドールが目印のペンキをも覆い隠したと知れた。完全に最初に逆戻りしたが、椋馬はここで負ける気はさらさらなかった。
さっき触れた限り、このボックスのシールドにはまだ付加能力がない事を知った。荊姫のように元が強く、付加能力も付いていたら勝てなかったかもしれない。
一歩を踏み出そうとした時、異変に気付いた。足が両方とも動かないのだ。
足元を確認すれば、青白い結界が自分の足元を覆っている。足を拘束されたのだと知ると、唇を吊りあげた。
「これは・・・ご苦労なこった。」
足が千切れなかったことは幸いだった。伊達に荊姫の結界によって鍛えられているだけのことはある。足を切り離されなかったことに力を得て、椋馬は自分の剣を強く握りしめた。
足は強い締め付けに血流を妨げられ、ジンジンと痛んだが、それが逆に目を覚まさせてくれた。
久しく忘れていた感覚だった。
足を奪われ、敵も見えない時の戦い方なら昔、学習した。その時の相手はドール一人で、しかも攻撃に抜かりがなく、椋馬はぼこぼこにされたが解決策だけは見つかった。それを褒められた時は、幼い自分は喜んだものだ。後になって、他の仲間にさらにぼこぼこにされたが、今となってはいい思い出だ。
「・・・懐かしいな、姐さん。」
柄にもなく昔のことを思い出しながら、凄まじい勢いで体に襲いかかってくるナイフを前に、椋馬は自分の剣を振り上げた。
ここで時間を取るわけにはいかなかった。たとえ、自分が勝ってもRが倒されれば意味がない。胸のざわつきを懸命に殺しながら、椋馬は剣を振り下ろした。
鮮血が薄暗い密林に散った。
「・・・っ!」
一方の楓は、椋馬の予想通りドールと闘っていた。しかし、椋馬が予想した以上の苦戦を強いられていた。
「ふふふ、すごいわっ! 君、本当にポーンなの? 私の攻撃をここまでかわした人って今までいないわ! やっぱり、上級盤はこんなものじゃなかった?」
はしゃぎ、手を打ちながら、高みの見物と言うように高い木の枝と枝の間にかかった蔦をブランコ代わりにしている少女にこんなに苦しめられるとは思わなかった。
苦笑する胸の内を知るはずのないドールは、ほーいっと暢気な掛け声をかけて手を振り翳した。そこから放たれた光線は、確実に楓の頭を狙っている。戦闘不能にする気などない。最初から殺す気で来ていた。
低級盤とは言え、D盤はDからFまである低級盤の中でも上位盤に分類され、AからCの上級盤に上がろうという勢いのあるボックスが多い。特に、ここはDの一で、実質的にはC盤とあまり実力に差がない。あとは運と相手次第ということだ。経験不足とも言う。
そんなボックスにドールもシールドも動けない状態で挑むのは些か無謀ではないかと思ったが、些かで済まない事態に直面していた。
このボックスのドールは桁違いに強かった。
動きやすいハーフパンツに綺麗な紅色のブラウス、上品な茶髪を小さな帽子型のピン留めで綺麗に結いあげた、非常に密林に似つかわしくない少女だったが、次々に繰り出される攻撃は隙がなく、そして強力だ。最初こそ姿が見えなかったが、自分に襲いかかってこない楓を気にしなくなったのか、姿を現わしていた。
魔法と言うものを使えない楓だったが、魔法自体を使うことがどれだけ体力を消耗するかは知っていた。少なくとも、楓が汗だくになって反撃もできないくらいに魔法による攻撃を繰り出したら、どんな上級のドールも倒れるだろう。
楓はこの時知らなかったが、この時のドールは仲間にも姿を消す魔法を遠距離で効かせていたので、実際にはもっと多くの魔法を駆使していた。
「ふふふ、『紅皇』、『降魔の椋馬』、『薔薇籠の荊姫』、『文書の槐』、『尾裂きの楓』かぁ。うっとりしちゃうくらい素敵な人達がいっぱいっ! でも残念、私、ドールと闘ってみたかったのに。」
楓は驚いた。
半年前、自分達は確かに皆そう呼ばれていた。しかし、槐は意外と知られていない。タクティクと言う、戦闘には直接関係のないタクティクの異名は、実は広まりにくいのだ。ここ半年、聞いたことがなかった。しかし、それを目の前の少女は知っている。
「僕達のファンだったのかな? まさか槐の異名まで知っているとは、ね。」
楓が応えてくれたのが嬉しかったのか、ドールの少女は攻撃をやめて、足をばたつかせた。
「知っているわ。だって、うちによく来る人がずっと話しているもの。」
「・・・え?」
「うちが貴方達と闘う予定が入ってるって言って、うちの宿舎を訪ねて来た人がいたの。その人が、貴方達を潰してくれたら望みを聞いてくれるって言ってたの。正確にはドールを。でも変なのよ、貴方達のドール、『踊れない踊り子』って言う渾名の通り、すごく弱いんでしょう?」
「・・・。」
楓の眉が、ぴくりっと反応した。
「その人に、『踊れない踊り子』を消すのかって聞いたら、そうだって。ついでにキングとタクティクも消してくれって言われたの。」
一瞬、何の話をしているのかと思った。
自分達を始末しようとする存在には心当たりがあった。これから上にのし上がっていくボックスにとって、低級盤にいながら元上級駒揃いの楓達が邪魔なのは目に見えていた。事実、先日は荊姫とサクラがゼルトナー以外の奇襲を受けた。
しかし、ドールのみを消せというのはおかしな話だ。しかも、キングとタクティクがついでとは。
サクラは今、非常に弱い。キングが負けてボックスが解散した場合、貰い手もなく破棄されることが予想された。しかし、その彼女を警戒するような発言をする存在に疑問が浮上した。
サクラに知られてまずい事でも掴まれたのかと思ったが、ここ半年、盤以外でろくに外にも出ないサクラにそんな機会があったとは考えにくかった。秘めた力を恐れているにしても、その兆しすら見せないサクラを殺してまで警戒する理由が分からない。
分からなかったが・・・非常にまずい事を聞いた。完璧に無視されると思っていたサクラの方に、攻撃が向いている事に、だ。
何かよく分からないことが起こっているようだと感じたが、ゆっくり考えている時間はなかった。
「私ね、強い人と闘いたいの。キングって偉そうにしてて弱いでしょう? だから、私、異名持ちの戦闘駒に割り振ってもらったの。本当はソードが好みなんだけど、『降魔の椋馬』ってしつこいんでしょう? だから、貴方にしたの。」
ドールの手の中に再び光が集まり始める。
「・・・椋馬にも困ったね。彼があんまりしつこいから、女性の相手はいつも僕に回ってくる。」
「嬉しい?」
「そうだね、僕は、女性は嫌いじゃないよ。特に、君みたいな子はね。」
褒められて気をよくしたのか、ドールはにこにこ笑いながら手の中の光を大きくした。
「嬉しいっ! 私も貴方みたいな優しい人が大好き! そうだ、うちが勝って貴方が生きてたら、一緒にご飯を食べに行かない? なんなら、うちに来ればいいのよっ!」
上機嫌で言うドールだったが、我が目を疑った。
「そうだね、だけど僕はこの盤が終わったら早急に調べないといけないことができたし、なにより・・・」
楓の目は、鈍色から銀色に光っていた。
「僕の可愛いサクラ君とデートをしようと思っていたんだ。」
耳元で聞こえた声にぞくりとするような官能的な響きと恐怖を感じ、ドールは乗っていた蔦を蹴って地上に舞い降りた。
「どうしたんだい、そんなに青い顔をして。」
今までと位置が違った。優位に立っていた自分と、劣勢だった少年の立ち位置が変わっただけなのに、少女は非常に嫌な感じを覚えていた。
「そうだね、サクラ君は弱いよ。キングは自主的には戦わないし、椋馬はしつこいし。」
楓は正中に構えていたナイフを逆手に持ちかえた。
「だけど・・・君みたいに力だけに固執して、相手を見る目を養わなかった努力知らずの小娘より、ずっと努力をしてきたのを僕は知ってるよ。」
サクラは血反吐を吐くくらいには努力をしている。それでも、現実は付いてこなかった。
過去にRの、あの真面目な男の掌が、血肉刺が潰れすぎて食器も持てないくらいだったことだってあった。
椋馬がソード向きでないくらい優しい性格で、それでも自分の攻撃力を必要とするチームメイトを守る為に、自分が倒すと言った駒を必ず仕留めてきた。
槐が寝る間も惜しんで作戦を考え、全員が戦いやすいようにひどく消耗するコミュニケーションネットワークの維持を行っていた。
『このボックスが破棄されたら・・・サクラはどうなるの?』
そう問いかけてきた荊姫の顔を思い出す度に、胸が痛んだ。引き絞られるような痛みだった。
サクラにチャンスを与えられなかったのは、荊姫だけのせいではない。過保護にするだけがサクラを守っていると思い込んでいた椋馬と楓にも責任があった。
──取り戻せるなら・・・
チャンスがあるならそれをサクラに捧げたい。それで彼女の笑みに翳りがなくなるのなら、尚更だった。
その笑顔を取り戻す機会を、利益の為に外から潰そうとしたことが許せなかった。
ボックスの努力を・・・弱いという一言で片付けられるのが、楓には我慢ならなかった。
「君には他にも色々と聞きたいことがあるんだ。でも、僕には時間がない。キングとサクラ君、両方の手助けに行かなくちゃいけないから・・・」
楓は極上の笑みを浮かべてドールに言葉を紡いだ。
「ほんのちょっとだけなら、付き合ってあげるよ。」
壮絶な笑みに狂気を感じたのか、ドールは姿を消して一目散にその場から離れ──ようとした。その耳元で、楓は囁いた。
「尾裂き狐って言葉を知っていたら・・・君はもうちょっとましに物事が考えられただろうね。」
サクラは何かに引き寄せられるように島の中央付近に来ていた。
密林だという島の中央には切りたった崖になっており、栄養不足の細い木が断崖絶壁から生えているだけの底も見えないようなほぼ垂直な壁、底の見えない谷からは激しい水の流れる音が聞こえる。自然が作り出した深い闇を覗き、懐かしい気配がその谷から来ている事にどうしたものかと首を傾げた時だった。
凄まじい轟音と共に島の中心付近で火柱が上がり、驚いたサクラが崖から離れるよりも早く、斬撃の音が耳を掠めた。
同時に起こったことに関連性がなさ過ぎて、サクラの反応は遅れた。何とか谷に落ちることは回避したが、風切音と共に髪飾りのリボンがはらっと地面に落ちた。それを見る余裕もなく、サクラは喘ぐように呟いた。
「・・・なんで?」
サクラも無能と評される自分をわざわざこんな山奥まで追いかけてくる駒がいるとは思わなかった。おそらく、槐もそれを見越して単独行動を許したのだろう。
しかし、現れた相手を認識した瞬間、一瞬自分の目がついにおかしくなったのかと思った。
サクラの目の前で鋭い目つきをした少年。表情や手を見えれば、ソードだとすぐに分かった。剣を持つ手は肉刺の後が色濃く残っている。ソードの掌は小さい頃からの訓練で皮膚が非常に硬くなっている。そして何より、獲物を捕らえたような目付きは椋馬が盤で見せる物とよく似ていた。
「Rのドール、サクラとはお前だな?」
名前を確認されたことも初めてだった。驚きに目を見開きながらも、サクラは答えずに、地面の髪飾りを慎重にポケットに入れ、腰のナイフを握りしめた。
「質問を変えようか、『踊れない踊り子』とはお前のことか?」
その言葉は、サクラの心を深く傷付けるもので、反応したくもないのに肩が大きく跳ねた。
「返答、ありがとう。そして、さようなら。」
その言葉がサクラの耳に届いたか否かの間に、ソードの剣がサクラを切り裂いた。
「・・・っ!」
後一瞬避けるのが遅かったなら、首と頭が切り離されていたかもしれない。そのくらい素早い斬撃に、背筋に悪寒が走った。本気で殺しにかかってきたことを信じていなかった自分がいたが、そんな真偽を考えている場合ではなくなった。
機敏さを生かして避けたものの、空気を斬る音だけで肌がびりびりと痛んだ。甘皮一枚分裂けた皮膚の薄い喉に鮮血が滲んだ。威力の凄まじさは一発で大事な骨を砕くには十分だった。ましてや剣を使われているのだから、胴が切れるかもしれない。
反撃しようにも相手の攻撃が速すぎる事で避けるのに精いっぱいだったサクラは、次第に脇が甘くなっている事に気付かなかった。
「動きはいいが・・・隙が多いのが欠点だったな。」
背後に回り込まれたことを理解するより早く、前に転がった。いや、転がろうとした。しかし、その動きを読んでいたのか軸足を払われ、地面に叩きつけられる。一か八か谷に飛び降りようとした時には足に激痛が走った。剣で足を貫かれたのだとぐらぐらと痛みを訴える頭が理解した時には、振り上げられた逆手の剣がすぐ目の前まで迫っていた。
「・・・っ!」
公園で襲われた時のように跳ね飛ぶ隙もなかった。もう駄目だと思った時、目の前が真っ赤になった。
「・・・結界・・・?」
荊姫の赤い結界だと思い、荊姫を探そうとしたその時、槐の声が割り込んだ。
『ドールっ!』
それは初めて聞く、槐の焦った声だった。その声を聞いた瞬間、サクラは大きく咳をした。
──ごほっ
くぐもった、大きな水音を含む声に何が起こったのか一瞬理解できなかった。
「・・・えっ?」
赤い血が、手に、顔に、服の胸元にべったりとこびり付いていた。大きな剣は深々とサクラの胸を貫いて、その傷口からどくどくと血が溢れている。それと同時に、胸の中にしまわれていた温かな何かが急に煮え滾り始めたのを感じた。
「ぶっ・・・ごほっ・・・」
呼吸をするのもままならず、サクラの身体から押し出された血液が口から逆流した。
「まずは一人。」
剣を抜かれた身体は大きくバランスを崩し、谷底に放り出されたのが分かった。暗く愉悦の滲んだソードの顔が視界から消え、浮遊感と共にまっさかさまに谷底に落ちて行く。
「・・・次はキングとタクティクだな。」
そんな声を聞いた時、サクラは冷えたように動かない指で懸命に宙を掻き、唇で言葉を紡ごうとした。
──だめ、キングは・・・駄目っ!
何もできない自分が歯痒かった。どんなに頑張っても役に立てない自分がどれほど惨めな思いをしてきたかを思えば、余計に空虚感で押し潰されそうになった。
──踊れない踊り子
サクラに名付けられた、お似合いの名前。
駒として、その存在を示す術もなく、示す意味も持たないサクラにとって、それは侮辱以前に当然の意見だと思った。傷付くのは確かだったが、それを言われるだけの事をやっている自覚がサクラにはあった。
上級駒だった荊姫や椋馬、楓が守ってくれたから今まで生き残っただけで、彼らが怪我をしたり、傍にいてくれなかったりすれば、サクラは何もできずに死ぬしかなかった。当然の結果が、今行われているにすぎない。
それと同時に、自分がいなくても大丈夫だという予感もあった。
元々が卓越した技術を持つのだから大丈夫だと、その安心感と虚無感こそが自分の役割を果たせなかった事から逃げているのだとか、所詮は仲間としては見られていなかったのだという事を何処かで分かっていた証だと思うと、サクラは無性に泣けてきた。
荒れ狂う水面に叩きつけられ、抵抗する力もなく水中に沈められ、息もできずに空気の泡を吐き出した。耳に轟音と、自分が吐き出した泡の潰れる音が聞こえた。