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第六話 崖っぷちに吹く春一番


 三月は気候がいいせいか、外からの客が増加する。そのおかげで、ジェミアの観光関連職は大忙しだ。

 それは鳥使いも例外ではない。

「クロウ、十二時に四人の予定だ。迎え頼む!」

「はい!」

「クロウ、今日のデューパールの若いやつらの訓練頼んでいいか?」

「はい!」

「クロウ!」

「はい!」

 大きな仕事を優先しても数が多すぎて追いつかず、小さい仕事は余計に回らない。クロウは手が足りないものはなんでもやった。普段は苦手な観光客の相手だって怖気ついてはいられなかった。

 なにせ、残りわずかな期間で大量にポイントを稼がなければならないのだ。少しでも多く仕事をこなす必要があった。

 彼の状況については局内の全員が理解していた。自業自得だと不干渉を宣言する者もいれば、ここまで来たのだからと彼を支援する人間もいる。後者はなるべくクロウに頼みごとをしていた。そうやって彼が一点でも多く獲得できるように。

 クロウもそれをわかっているので、いっそう熱心に仕事に励んだ。質を落とさずに迅速にというのは骨が折れるが、甘えたことは口に出さない。それが、応援してくれている人々への誠意だった。

 しかし、必死にやれば疲れでくたくたにもなる。二月からはカフェに寄ることもできず、そのまままっすぐ帰宅する日々が続いた。

 ふらふらと道を歩くクロウの肩を不意打ちで叩く手があった。彼が振り向くと、アンジェリカが立っていた。

「お疲れ。今帰り?」

「うん……」

 彼女はクロウの顔を見る。疲れを隠す気力もないような有様だ。

「まだ頑張るの?」

「うん」

 アンジェリカは泣きそうな顔を見せる。

「あと何点必要なのかは、わかってるのよね?」

 三月も後半になった現時点で、ようやく一三〇〇まで回復したところだ。

 一発逆転のチャンスがなければ、昇格には届かないだろう。彼女の心配はよく理解できた。

「でも、最後まで諦めたら、今度こそみんなを本当に裏切ってしまうでしょ?」

 披露当日まで見守ってくれた人、アドバイスをくれた人、応援や励ましの言葉をくれた人。一月のあの日、彼らの期待に応えられなかった。

 ここで諦めたら、もう一度彼らをがっかりさせてしまう。今度は、挽回の機会など訪れない。

「ねえ、アンジェリカ<。僕、もうやめたほうがいいと思う?」

 ほう、と溜め息をついたのはどちらか。

「……それは私が答えてもしかたのないことだわ。頑張るクロウの気持ちも、諦めるクロウの気持ちもよくわかってしまうから」

 アンジェリカは一瞬だけ目をそらす。

「でもね、クロウ。私は、鳥使いになったあなたを見てみたい」

 クロウは言葉に詰まる。アンジェリカはそのまま行ってしまった。

 同じことを、彼は母にも言われた。かつて、父のロビンにも。

 一月の選択を後悔してはいない。けれども申し訳ない。

 見捨てないでくれている人がいる限り、やらなくてはならないと思う心が強くなる。それが、今一番の彼の原動力だった。



「すみません、局長はいらっしゃいますか?」

 総務部の男性が入ってきた。

 最も扉の近くにいたクロウが応対に出る。

「いえ、来客があって……」

「じゃあ、これ渡しておいてください。この書類はサインが必要なので、今日中にこっちまで持ってきてもらいたいんです」

「は、はい。わかりました。伝えます」

 男性は、事務室内を見渡す。

「鳥類局はのんびりでいいですねぇ。明日は式典なんだし、準備しっかり頼みますよ」

 紙の束をクロウに押しつけるようにして、男性はすぐに行ってしまった。

 ラークは肩をすくめる。

「最近、総務の人たちピリピリしていますね」

 シーガルは声を潜めて、クロウとラークを近寄らせる。

「下からまた無茶言われてるらしいぞ」

 ジェミアは一都市でありながら、特定の国家に属さず、独立国のようなものだった。世界政府からもそれは認められている。

 しかし、観光地としての人気はあるものの、国際的な立場はさほど強くない。

「僕が、迷惑かけてしまったから」

 こういう土地だからこそ外交は大切だ。食料や資源は輸入に頼るところも多く、ときには市民の生命に直結する。

 本来、一月の失態は未成年の見習いだとしても許されることではない。

「……確かにあれはまずかったですよね」

 言いながら、ラークは微かに笑う。

「でも、うちの母親が言ってたんですけれど、あれ以来オリバー王子はそこそこまじめに過ごしているらしいですよ」

 彼の母は通信局に勤めており、他国の最新情報に明るい。

「頭打ったんじゃないかって言われてるとか。クロウさん、むしろ感謝されるべきなんじゃないですか?」

「……うーん」

 市長とリチャード王子の判断で、あの事件はなかったことになっている。クロウ自身、あのときの選択に後悔はない。しかし、けっして胸を張れる立場ではないともわかっている。

 クロウが俯くと、シーガルが彼の頭を叩く。

「今もめてるのは、あの国じゃなくてロートルだよ」

 ロートルは、アルゼン、リングトンと並んで世界三大国家に数えられる強国だ。古くよりジェミアとの貿易や交流も盛んだが、そのぶん軋轢も多い。

「関税とかの見直しで、結構高圧的な態度をとってきているって話だ」

「ジェミアは立場弱いですもんね」

 精いっぱいの皮肉をこめたラークの口調に、シーガルは苦笑いになる。

「市長はがんばってるけどな」

 クロウは、数度だけ会ったことのある市長の顔を思い出す。オリバーとの件で大事にならずに済んだのは、彼のとりなしも大きい。

 市長はジェミアの独立性を高めようと、市内の産業の発展に意欲的だ。国際交流の機会も増えた。自身が地上への留学経験も二度あることから、市費留学制度を改革し、能力のある者に積極的に世界の知識や技術を学ぶよう推奨している。

 そうした働きが評価され、市民からは絶大な支持を得ている。その一方で、ジェミアの存在感が増すことを好まない一部の国からは警戒されている。

「でも、古い人たちは市長のこと、あんまり好きじゃないでしょ?」

 シーガルは最年少の後輩の口をあわてて塞ぐ。

「おい、ラーク。役所のなかであんまりそういうこと言うなよ」

 市民からは人気があっても、改革を好まない年長の役人受けはあまりよくないのは事実だった。

「ひとまず、俺たちは明日のことを考えよう」

 ジェミアの成立を記念する式典は翌日。鳥使いたちは飛行披露をすることになっている。

 クロウは今回乗り手にはならないが、その分裏方としての仕事があった。

 そのため、翌日も朝一番で、式典の会場となる旧市庁舎公園に彼は召集された。

 十代の若い人間は雑用で重宝される。他部署の人間からの指示で、公園のあちこちを走り回るはめになってしまった。

 式典が始まるまでまだまだ時間はあるというのに、クロウは早くもクタクタになった。春に比べてずいぶん体力は増したとはいえ、慣れない仕事はやはり辛い。

 きちんとした休憩をもらえるのは、昼過ぎの予定だ。そうしたら絶対、町で甘いものを食べようと決意した。確か、アンジェリカたちが花束クレープを売りに出しているはずだった。

「クロウ、その鳥貸してくれないかな」

 公園の隅から旧市庁舎前まで戻ろうとすると、いきなり設営担当に声をかけられた。

「ラーヴァですか?」

「ごめん、ちょっと西支部に至急の確認が」

 クロウはラーヴァの顔を窺う。

「……俺ハデューパールジャナイッテ伝エテクレ」

「これ、頼んだぞ。もう開始まで時間ないから」

 ラーヴァの声が聞こえるわけもなく、間髪入れずにメモを渡して担当は行ってしまう。

「ラーヴァ、お願い」

「ショウガナイナア。スグ戻ッテクルカラ、ソレマデチャントサボラズニイロヨ」

「もちろん」

 青い空に羽ばたく赤い翼を見送る。

「お兄ちゃん、鳥使いなの?」

 いきなり声をかけられる。

 幼学校の制服を着た子どもが二人、クロウを不思議そうに見上げていた。

「そうだよ」

「見えなーい」

 鳥使いには特に制服があるわけでもない。クロウが現在身につけているのも、兄のお下がりの背広だ。もちろん、オリーブバッヂもない。

 肯定したものの、自分はまだ正式な鳥使いではないことに気づいて内心慌てる。

「えっと……君たちも式典に参加するんだね?」

「うん、お歌で」

 式典に児童が合唱を披露するのも恒例の行事だった。

 クロウは周囲を見渡すが、幼学校の団体は見えない。

「先生たちのところに戻ろうね。連れて行ってあげる」

 子どもたちはクロウをからかうように走る。

「やーだよ!」

「あ、こら!」

 クロウは慌てて追いかけた。関係者以外立ち入り禁止のエリアもある。そこに迷いこんだら問題だ。

「ま、待って!」

 足の早さはこちらが勝っているが、ちょろちょろと物陰から物陰へと動き回る。しかも、彼らは二手に分かれ、一人を捕まえてももう一人確保しようとする間に手を振りほどかれる。

 握りすぎると、大げさに痛がるので、年下の扱いに慣れていないクロウは困惑してしまった。

 そうこうしている間に二人とも見失う。

「はぁ、どうしよう……」

 溜め息混じりで二人が消えていった市庁舎の裏に回る。しかし、やはりいない。

「どこ行っちゃったんだろう」

 どこかに幼学校の引率教師がいるはずだ。これで見つからなかったら、一度そちらに確認してみよう。

 そう思いながら見渡すと、壁に沿って設営用の資材が高く積まれているのが見えた。ただし、完全に壁につけているわけではなく、若干の隙間がある。

(あんなところに隠れてなんか……)

 もしも崩れて埋まったら大変だ。クロウは建物に近寄る。

 そこには地面に近い場所に換気用の窓があるだけで、子どもらの姿はなかった。

 それどころか、周囲に人がまったくいない。普段は警護兵が周辺を回っているけれども、表の会場に人手を取られているようだ。

「いない、か……」

 念のため上半身を隙間に入れるようにして確認するが、気配すらない。

「あれ?」

 窓は閉まっているが、ガラスごしに鍵が開いているのが見えた。

 クロウは違和感を覚える。

 四月にここに来たことを思い出す。あのときは確かラーヴァが内側から鍵を開けた。

(確か、ラーヴァが案内してくれたのってここじゃなかったよね)

 ラーヴァが開けたときに、上るのに苦労した覚えがある。あきらかに別の窓だ。

 自分たちが開けっ放しにしたわけではないことに安堵する。しかし、本来は施錠するべきことを考えると、ほっとしている場合ではない。

 手をついて動かすと、簡単にガラスはずれた。小さい子なら難なく入れる大きさだ。

「ま、まさかこんなところに入ったわけじゃないよね……」

 クロウはとっさに顔を入れて、内部を覗く。

 埃っぽい廊下だ。市長はこの建物の保護も検討しているが、他の政策に追われ、棚上げにされたままだ。

 幽霊が出るという噂もあって、建物のなかに入ろうと思う人間は少ない。むしろそれを利用して、肝試しをたくらむ人間もいるが、たいていは未然に終わる。

 静寂に支配された室内。四月のときと同じだ。

「やっぱりいないか」

 管理担当に一応知らせておかなければと思いながら戻ろうとすると、かすかに足音が聞こえた。

 上の階だ。

「え、ゆ、幽霊?」

 緊張が走る。

 彼は耳を澄ませた。足音は、複数人のものだ。

「あの子たち、ここまで入っちゃったのかな」

 奥に行くのはなんだか恐ろしかった。本能のようなものが警鐘を鳴らしているような。

 しかし、もしも足音の主が子どもたちだとして、誤って上の窓を開けて落ちたら一大事だ。

 ほんの数年前まで使われていた建物に幽霊などいない。そう自分に言い聞かせて、クロウは身体を窓のなかにねじこませた。

 四月のときの記憶を頼りに、階段を探して二階に上る。

 踊り場まで来ると、足音はより鮮明に聞こえるようになった。

「もう……」

 そのまま四段ほど進んで、クロウは目を開く。

 確かに足音はする。しかし、子どもではない。明らかに大人のものだ。

 息を潜め、彼はもう二段上がった。

 話し声がする。

「開始まであと一時間か。平和なものだねえ」

「そのうち騒ぎになるんだ。せいぜい楽しんでもらおうぜ」

 低い男の声がふたつ。

「あの市長さんも気の毒なことで。故郷のために尽くして、その故郷の人間に裏切られるなんて」

「物語みたいでいいじゃないか。皮肉なの、俺好きだよ」

(なんの話だろう?)

 クロウがもう一段上がろうとしたとき。

 いきなり後頭部を思いきり殴られた。

「あ!」

 視界が回る。

「なんだ!」

「ガキだ」

 すぐそばから、別の声。

「ガキ?」

 離していた二人が近寄ってくるのが聞こえたが、顔を上げるどころか意識がどんどん遠のいていく。

「どうするよ?」

「無駄玉を今使ってもしかたないだろう。まずは本題優先だ」



 気絶していたのは、ほんの一瞬のような気がした。

 急に世界に光が現れたような感覚。瞬きすると、見覚えのある光景が目の前にあった。確か、塔の最上階だ。

 動こうとしても動けない。腕が後ろ手で縛られていることを悟ったのは、一拍遅れてからだった。

「なんだ、もう目が覚めたのか」

 視線をさまよわせる。三人の男がクロウを見下ろしていた。声をかけてきたのはそのうちの一人、帽子を目深にかぶった男だ。

 全員、動きやすいが式典にいてもおかしくない程度に整った格好をしていた。設営関係者だろうか、とクロウはぼんやりした頭で推測した。しかし、彼らがなぜこんなところにいるのかは見当がつかなかった。

「あ、あなたたちは――」

 声を出そうとした瞬間、顔を石の床に押しつけられる。

「お前、誰だ?」

 クロウは沈黙した。

「いい子なら、大人に聞かれたことには素直に答えようぜ。な?」

 長髪の男がクロウの胴を蹴る。一瞬、痛みで呼吸を忘れる。

「おい、子ども相手だ。ほどほどにしてやれよ」

「子どもねえ」

 ひときわ背の高い大男が、クロウの紅茶色の髪をつかんで顔を確認した。

「せいぜい中等生ってとこか」

「専門職ならこのくらいの歳でもいるぜ」

 大男は髪から手を離すと、クロウの襟の後ろ側を持ち上げる。首のあたりが一気に圧迫された。

「どうしてここに入ってきたのか、聞かせてくれよ」

 クロウは必死に頭を働かせる。迂闊な発言をするわけにはいかない。

「専門職……。確か、影使いには若いので目立つのがいたな」

「ああ。でも、こいつじゃない。市長の警護しているの見たことあるけど」

「ぼ、僕は!」

 大きな声を出そうとするがうまくいかない。

「南区の、中等学校の……」

「中等生が、どうしてここに?」

 そう微笑んで尋ねてくる帽子の男のまとう空気にぞっとする。しかし、ここでひるみたくはなかった。

「その、せっかくだから、式典の写真を面白い角度から撮りたくて……。僕、新聞部なんです」

「学生証は持ってるか?」

 身分証なら上着の隠しポケットに入っているが、見せられるわけがない。

 もしもクロウが現時点で級持ちになっていたら、おそらく見えるところにバッジをつけていたはずだ。それで公務員だと彼らに知られてしまっていたかもしれない。今回は見習いであることが幸いした。

「ぶ、ぶぶ、部室に置いてきました」

 疑わしい視線が降ってくる。

 床についた胸から聞こえる心臓の音。それはとても大きく思えた。

 今までピンチが訪れたときは、彼の周囲には常に誰かいた。しかし、ここにはトーレスもラーヴァもいない。

 吸いこんだ埃は容赦なく彼の喉を痛めた。

「とりあえず、市長のあとに始末か?」

「そんな暇あるか?」

「さっき殺さないって言ったのお前だろう。でも、さすがにこいつ運ぶのは手間じゃないか?」

「いっそのこと保険で人質ってことでどうだろう。一般市民なら迂闊に手出しできんだろう」

「おいおい、俺たちの仕事わかってんのか?」

「だから、万が一だよ。成功すれば別に荷物はいらん」

 クロウのことはそっちのけで交わされる会話。

(市長……)

 そのとき、ようやく長髪の男が担いでいるものに気づく。銃だ。

 クロウは息をのむ。彼の視線の先にあるものに気づいたのか、その隣にいた帽子の男は、にこりと緑の目を細めながらクロウの頭を撫でる。

「ちょっと待ってろな。順番だ」

「そろそろ観客もそろってきたな」

 男たちは耳を澄ます。会場に集う人々のざわめきが風に乗ってここまで届く。

「大声出されたら邪魔だ。そいつ、口でもふさいでおくか?」

 六つの目が彼に集中する。

 クロウは震える。彼らがなにをしようとしているのか、考えることを脳が拒否する。

 しかし、この状況ではいやでも事態を把握してしまう。

(この人たち、市長を狙っているんだ)

 危険を下に知らせなければ。しかし――。

 腕に力をこめても、固定されているのでまったく自由はない。足も縛られている。

 こんな状態で床に転がされては、身じろぎするだけで精いっぱいだ。

「あー、ちょうど使えるものがないわ」

「まあ、ここで騒いでもあっちには届かんだろう。さて、そろそろちゃんと位置についておこうか」

 長髪の男は銃を持ち直して、いじる。

「十時ちょうどに開会、五分ごろに演説だ」

 彼が覗きこんだ窓のガラスは、不自然に穴が開けられていた。そこに銃口を当て、角度を調整する。

 クロウは会場の図を思い浮かべた。客席と待機スペースを挟んだその正面に壇がある。

 この場所は、ちょうど人々の後方かつ上方に位置する死角で、さらに登壇する人物と向かうあうという、襲撃にはうってつけの場所である。

「お、始まったか」

 ラッパの音が響く。開会を告げるものだ。

「経路確保は」

「心配ない。打ち合わせどおりな。じゃあ、俺は先に下のやつらと合流しているから。お前はこいつ頼むな」

 帽子の男は確認するかのようにクロウを蹴って、階段を下りていった。

「ったく……」

 大男は、面倒くさそうにクロウに近づいた。

「ん? なんだこりゃ」

 彼はクロウの首元に注目する。先ほどのやりとりで襟元が乱れ、銀色の鎖がかすかに隙間から覗いていた。

 男はそれを指にかけて引っ張り出す。クロウがいつも身につけている鳥笛が姿を現した。

「笛か?」

「……お守りです」

 クロウの答えに、大男は口の片端を上げる。

「こいつを鳴らせば助けにくるとか?」

 クロウは唾を飲みこんだ。

 鳥笛は、人間の耳には聞こえない、鳥だけ届く音が鳴るようにできている。

 真下には鳥類局の者たちが待機している。彼が吹いてくれれば、誰か異変に気づくかもしれない。

 少なくとも、ラーヴァは今ごろクロウがいないことを疑問に思っているはずだ。彼ならきっと気づいてくれる。

「鳴りませんよ。壊れていますから。……それ、父の形見なんです。試してみてもいいですよ」

「へえ」

 鎖ごと笛を取り上げた大男は吹き口を拭いて、自分の唇をつける。それを見た長髪の男は顔をしかめた。

「おい、笛なんてこんな場所で使うなよ。勘違いされたらどうするんだ」

「わかってるって」

 大男は鳥笛を放るようにして、クロウの脇に投げた。

 失敗か。クロウは顔をゆがめる。

 危険を知らせようと無理に叫ぼうとしたところで、さすがにここからでは声は伝わらない。

(やっぱり、笛を……)

 男たちの視線が会場に向いている隙に、クロウは必死に身体をよじる。

(早く、早く……)

 自由を制限されているとはいえ、ほんのわずかしか動けない身体がもどかしかった。

 音を立てないようにしながら、すこしまたすこしとゆっくり距離を縮める。首を伸ばしてもまだかすかに遠い。

「お、市長さまのご登場だ」

 長髪の男が銃を構える。

(くそ……!)

 クロウは床に歯を立てるようにして、鎖をくわえる。

「声、聞こえるか?」

「ちょっと遠いな」

「あっち開ける。俺が手を挙げたらそのまま撃て」

「最初の挨拶が終わったタイミングでだぞ」

「おう」

 大男はクロウの横を通り、別の窓をわずかに開ける。市長の声がかすかにクロウの耳にも届く。

(逃げて……)

 男たちに悟られないようにいながら、クロウは首をすこしずつねじる。そうやって、笛を口の届く位置まで持ってきた。

 大男の手がぴくりと動く。

 クロウは首を伸ばして唇をつけ、思い切り息を吐いた。それは、押し殺したような銃声よりも数秒早かった。

「エ、エ、エ!」

「ナニ、笛?」

 鳥たちのざわめきが聞こえた。レインアローだ。

 長髪の男が舌打ちをする。

「くそ……外した!」

「当たったんじゃないのか?」

「殺し損ねた」

 ばたばたと翼を動かす音がする。同時に、人間のざわめきもどんどん大きくなる。

「なんだ?」

 ガツ、と大きな音がする。

「なんだ、こいつ」

「オイ、坊主! ラーヴァノ坊主ダロ!」

 目を開ける力がない。首を動かすのに精いっぱいだ。

「オーイ、ココダ! 誰デモイイカラ来テクレ!」

「邪魔だ、どけっ!」

 鳥の声はますます騒がしくなり、ガラスを叩く音も増える。

「くそ、レインアローが」

「はあ? なんで」

「まずい、気づかれたかもしれない。中止だ。おい、そいつ盾にするぞ」

 大男はクロウの胸ぐらをつかんで無理やり起こそうとする。

「足だけほどけ。自分で歩かせろ」

 曖昧となった意識で立たされ、クロウは引きずられるように塔の階段を下りる。

「あれも鳥使いが?」

「かもしれないな」

「他の鳥は飛ばさないって話だったろ?」

 大男は苛立った様子でクロウの肩を押す。

「おい、坊主。死にたくなかったらしっかり役に立てよ」

「クロウ!」

 その声がした瞬間、クロウの視界はぱっと明るくなる。待ちわびていた赤い色が目の前にあった。

「ラー、ヴァ……?」

「あ? なんだ?」

 首を傾げた瞬間、大男の身体が天井まで浮かび上がった。

「うわああ!」

 そのまま一気に叩きつけられる。

 とっさに長髪の男がクロウを押さえつけ、銃口を彼の頭に当てる。しかし、その感触はすぐになくなった。

「ご愁傷さま」

 その言葉と同時に、彼の身体は壁に吸い寄せられ、縫い止められる。

 クロウは数度瞬きをした。

「……トーレス」

 彼以外にも、ラークや警護兵たち数人が駆けつけてきた。

「おいおい、これどういうことだよ」

 トーレスは、クロウの腕を自由にさせる。

「えっと……」

 トーレスは長髪の男の腕をつかみ、手錠をはめる。大男は、小柄な警護兵が拘束する。

「お前がいなくなったから、ラーヴァも心配したみたいだぞ」

 聞けばラーヴァは、西から戻ってすぐにクロウがいないことに気づいた。鳥使いに聞いても行方は誰も知らず、ずっと相棒を探して飛び回っていたらしい。

 そこで出会ったのが、野の鳥たち。彼らは公園の周辺にクロウがいないか探し回ってくれた。その最中に鳴った、鳥笛。

「アレ、オ前ノ笛ダッテスグワカッタヨ。下手ダモンナ」

 野の鳥の顔役は笑いまじりに言う。

「あれは、腕もまともに動かせなかったから……」

 クロウの居場所を野の鳥たちから告げられたラーヴァは、ラークを伴ってトーレスのもとを訪れた。

 それで、単独で駆けつけたところ、ちょうど警護兵の一隊と合流したというわけだった。

「そうだ、し、市長は?」

 トーレスはかすかに笑む。

「命に別条はない」

 突然鳴った鳥笛に、レインアローたちはいっせいに驚きの声をあげた。それに反応して市長は一瞬、身体をそちらのほうに向けた。そのおかげで急所は避けられたのだ。

 クロウは、自分が捕まってからの出来事を簡単に説明する。

「まさかこんなやつらが……」

 トーレスは、長髪の男の顔を覗く。

「あ、完全に気絶してる。事情は聞けないか」

「ロートル人ですかね?」

 制服がやや合っていない小柄な警護兵が、彼らの身につけているものを確認しながら呟く。

「そもそも、俺たちが巡回してるのに、なんで……」

 クロウは手を叩いた。

「そうだ、もう一人!」

「え?」

「もう一人いる! 帽子をかぶった男の人。その人が言ってたんだ」

 ――俺は先に下のやつらと合流しているからな。

「まだいるのか?」

 トーレスは周辺を見渡す。

 廊下の奥の部屋から、金髪の警護兵が一人、顔を出した。

「こちら異常なし!」

「上、誰もいません」

 そう言いながら下りてくるのは、黒眼鏡をかけた警護兵だ。

 同時に、階段を上がってきた警護兵が二人。

「下も確認済みです」

 トーレスは難しい顔をしながら考えこむ。

「……ミラ班長、どうしましょう」

「とりあえず一度、局長に報告だ」

 ミラと呼ばれた中年男性の言葉に、トーレスは頷いた。

「局長だったら、今、市長のところにいらっしゃるはずですよね。俺、行きます」

「あの、僕は……」

 おそるおそる尋ねるクロウに、その場の全員の視線が集中する。

「クロウ、悪いけど一緒に……」

「彼、怪我しているじゃないですか」

 金髪の警護兵が駆けよってくる。

 言われてみて、クロウが自分の頬に手をやると、かすかに血がついていた。

「一度、医務員に見せるべきでは? 連れていきますよ」

「そうだな」

 班長は頷く。

「君、よろしく」

「友達なんで俺が連れていきますよ」

「トーレス、お前は周辺の警戒にあたれ。まだ油断できないんだから頼むよ」

 クロウはおろおろする。

「えっと、僕」

「クロウ、甘エテオケ」

 そう諭すのはラーヴァだった。

「俺ハ、パロットニ報告シニイク。アイツモスッゴク心配シテタカラナ」

「うん、お願い……」

 ラーヴァはラークを引っ張るようにして連れて行く。

「では、行こうか」

 金髪の警護兵に促され、クロウもその場をあとにした。



 式典は急遽中止となったため、公園内は警護兵でいっぱいだった。その場にいた民衆は留めおかれ、不安そうな表情だ。

 クロウは今さらズキズキと痛む身体を引きずるように歩いた。

「大丈夫かい?」

 警護兵はクロウの肩に手を置いて、後ろから支えるようにして横を歩いてくれた。

 正直、トーレス以外の警護局関係者はほとんど知らない。一緒にいるとなんだか緊張する。

「……平気です」

 笑顔を作って見上げて、緑の瞳と目が合う。

 その瞬間、世界が止まったかのような感覚になった。

 肩に食いこむ指が痛い。

「遅い、ようやく気づいたか」

 そう囁く声は優しい。

「やっぱり、中等生じゃなかったんだな。鳥使いだって?」

 クロウはなにも返答しなかった。しかし、彼の目の前でラーヴァと会話したうえに、トーレスとのやりとりも聞かれている。否定のしようがない。

「だったら、どうするんですか?」

「さあ、どうしようかね」

 言いながら、彼は短銃を取り出す。

 クロウは思わず身じろぐが、彼は逃がしてはくれない。

「悪いけれども、まだ死にたくないならつきあってもらおうか」

「……どこに」

「来ればわかるさ」

 彼はクロウと自分の身体で銃を隠しながら、一歩踏み出す。押されて、クロウも進むしかなかった。

 せっかく助け出されたと思ったのに、さきほどよりも状況は悪化している。

 背に当てられた銃口は、ひんやりと冷たい。

 どこに連れて行かれるのだろうか。クロウは周囲を見渡す。

 彼が警護兵の格好をしているせいか、周囲はクロウたちを怪しむことなく行き交っている。鳥類局の面々がいると思われるエリアは遠い。

(……外?)

「ご苦労さまです」

 とある場所にさしかかったところで、男は正しい姿勢でその場の警護兵たちに敬礼する。

「その子は?」

「ああ、さっきの騒ぎで怪我してしまったらしくて……」

「悪いが、一般人は誰も出さないようにって――」

「ああ、この子は鳥使いです」

 警備兵はクロウの顔に注目する。

「あ、トーレスの……」

「ああ、オリバー王子のときの。しょうがないな、邪魔にならないようにしろよ」

「了解」

 愛想よく返事した男は、そのままクロウを押しつつさらに進む。

「なんだ、案外顔広いんだな。ちゃんと名乗ってもらおうと思ったのに」

 トーレスの友人であることとオリバーの件で、警護局の一部には顔が知られているのだ。

 クロウの足はだんだんと重くなる。

 彼は、クロウを利用し、まんまと逃亡しようとしているのだ。

(この人をこのまま公園から出してはいけない)

 そう考えた瞬間、クロウは思わず振り返って男の腕を払いのけた。

「な……」

 誰か、と叫ぼうとしたが、こんなときに喉がかすれる。うまく声が出せない。

「あとちょっと我慢してりゃいいものを」

 男は銃を構える。クロウは身体が硬直した。

(撃たれる……!)

 クロウが目を閉じた瞬間、風を切る音がした。

 ラーヴァだ。彼はまっすぐ男の手に突撃し、短銃は弾け飛んだ。

 舌打ちした男は、懐から何かを取り出す。

 笛。クロウがそう認識すると同時に、彼は二度それを鳴らした。

 一拍遅れて、どこからか盛大な爆発音が轟いた。クロウの髪を浮かせる爆風は、悲鳴と煙を運んできた。

 ひるんだ隙に、男は身を翻す。

「ま、待て……」

 クロウは腕を伸ばしたが、その間に混乱した民衆たちが割って入った。

「オイ、クロウ! 大丈夫カ?」

「ラーヴァ、どうして……」

「ソリャア、医務員ノイル場所とは反対方向ニ向カッテルノ見タラ不思議ニ思ウサ」

 ラーヴァはクロウの袖を引っ張り、彼を公園の端へと誘導する。

「ケドヨ、銃持ッテルヤツニ丸腰デ飛ビカカッテドウスルンダ! コノ無鉄砲!」

 返す言葉もなかった。

「ラーヴァ、ごめん、ありがとう……怪我はない? 思いきりぶつかったけど」

「ソンナコト気ニシテル場合カ!」

 ラーヴァは小言を続けようとしたが、ふと人混みに視線をやると高く飛んだ。

「トーレスダ!」

「クロウ、大丈夫か?」

 濁流のような人混みをかき分け、トーレスがやってきた。

「ラーヴァは目印になるな。お前、さっきの男どうした?」

「ア、アッチダ!」

 トーレスはラーヴァを見上げ、首を傾げる。彼にはラーヴァの言葉がわからないのだ。

「ラーヴァが見つけたみたい」

「じゃあ追うぞ」

 人々の波に乗るようにして、トーレスは駆け出す。クロウは友人の姿を見失わないように必死で追いかけた。

 走りながら、トーレスは苦い顔になる。

「ミラ班と合流したときと、お前と会ったとき。人数が違った」

「え?」

「あいつが一人増えたんだって気づいて、それで慌ててお前を探したんだ。そうしたら、ああなって」

 トーレスは舌打ちする。

「警護兵は人数が多いうえに、今回みたいなときは臨時の編成になるからな。油断した」

「で、でも、あの班長さん? あの人は……」

 ミラは何事もなく彼にクロウを預けた。

「グルだったんだ。ミラ班長は、反市長勢力だ」

 男たちを旧市庁舎のなかへ侵入させたのも、金髪の警護兵――帽子の男に制服を用意したのも、彼だ。

「さっきの爆発も、班長さん?」

「いや、ミラ班長はすでに押さえてる。でも、まだ他にもいたんだ。ちくしょう!」

 トーレスは走りながら強く石畳を蹴る。

「あいつだけは絶対に捕まえる」

 今までにないほど、トーレスは頭に血が上っている。クロウは戸惑ってしまうくらいに。

 しかし、なんとしても逃がしたくないのは、クロウも同じだった。

「ラーヴァ、どっちに向かってる?」

「港ジャナイ……西ダ」

「西?」

 クロウの言葉を聞いたトーレスは、舌打ちをする。

「西……か。クロウ、ラーヴァにうちの局長たちへの伝言を頼んでくれ」

「うん!」

 ラーヴァを一度呼び寄せ、クロウは応援を頼むように言う。ラーヴァは了解し、すぐにその身を翻した。

 ジェミアの西側は商業地区だ。ジェミア成立記念日に合わせ、どの店も気合いを入れて商戦を繰り広げている。式典に興味のない人々は、ここでの買い物や大道芸を楽しむ。

「あんなところに隠れられたんじゃ厄介だな」

「オイ、坊主! 今度ハナンダ?」

 飛びながら下降してきたのは、野の鳥の顔役。

「どうしたの?」

「ラーヴァニ頼マレタンダヨ。アイツモ鳥使イノアライヤツダ」

 こんなときだというのに、クロウはすこし笑ってしまう。

「警護兵の格好をした男の人が、西に向かって走っているのが見えない? その人を追っているんだ」

 顔役は上昇する。

「アイツカ? マッスグ外レノ方ニ向カッテルヤツナラ」

「トーレス、外れのほうだって」

「……まさか、城壁から直接逃げるつもりか? くっそ。クロウ、悪いけど先行くぞ。対象がわかってるなら話は簡単だ」

 トーレスは思いきり地面を踏み、跳躍する。

 彼の影が高く伸びる。その勢いに乗るようにして、トーレスは手近な屋根に上がる。

 そしてそのまま影を前方へ伸ばして、風になったかのように進んでいく。

「すごい……」

「坊主、立チ止マルナ。オ前モ進マナイト」

「うん」

 旧市庁舎公園の爆音は、ここまでも届いたようだ。不安にかられて宿や港のある北へ向かう旅行客、逆に南の自宅に戻ろうとする市民で道の流れはめちゃくちゃだ。

「迂回シロ。次の赤い屋台を左だ」

 顔役が、進みやすい道を教えてくれる。

「ありがとう!」

「コレデ貸シハ二倍ダナ! イヤ、サッキノト合ワセルト三倍……イヤ、四倍カ? 必ズ返セヨ」

「出世払いで」

「チョットデモ出世シテカラ言エヨ」

 城壁がだんだん迫ってくる。

 走りすぎて、どんなに息を吸いこんでも、まったく酸素を取りこむ感覚がなかった。足ももう、存在しているのかどうかもわからなくなってくる。

 しかし、夢中で走ったかいもあり、城壁をのぼる道がはっきり確認できるようになった。上のほうに、トーレスらしき人影が見える。

 自分も向かおうとしたとき、クロウはこちらへやってくる警護兵二人の姿を見つけた。

 一瞬、あの男かと思った。しかし、両方見知らぬ顔だった。

「ど、どうしたんですか?」

「旧市庁舎公園で爆破があったんだろ? その応援に」

「え、じゃ、じゃあ、城壁には……」

「伝令役が残ったよ。まったくただでさえ人出があっちに取られてるのに」

 伝令役。いやな予感がする。

 クロウは話もろくにせず、そのまま坂道を進んだ。

「おーい、城壁での肝試しはなしにしてくれよ」

 のんきな警護兵たちの声も、彼の耳には入らなかった。

 城壁から逃げる気か。トーレスはそう言った。

 仲間が小型の飛行機かなにか用意して待っているのだろうか。しかし、いくらなんでもそんな不審なものがあったら、あの警備兵たちだってのんびり交代に応じるわけがない。

 クロウは疑問に思いながらも、急いで階段を駆け上ろうとすると、突然銃声が響いた。

「うわっ!」

 驚いたクロウは、転んでしまう。

「う……」

 今日は痛い思いをしてばかりだ。このまま意識を手放してしまいたくなる。

「シッカリシロ! 上カラ聞コエテキタゾ」

 トーレスの顔が思い浮かんだ。クロウは膝や手の埃を落として、今まで以上の速度で進む。

 頂上にさしかかったところで、トーレスの怒鳴り声が耳に入った。

「くそ、待て!」

「トーレス?」

 そこにいたのは彼だけで、あの男の姿はなかった。

「あいつ、直接降りやがった」

 中途半端に伸びた影を漂わせながら、腕を押さえたトーレスは険しい表情で言う。

「はあ?」

 クロウは柵の外を見ようと背伸びして、一瞬震える。萌える草原を背景に人影がひとつ、どんどん小さくなっていくのが見えた。

「飛び降りた? し、しし、死んじゃうよ!」

「いや、装備抱えていたからきっと……」

 狼狽する友人を横目に、トーレスはふらついた足取りで柵に手をかける。その肌は真っ赤に染まっていた。

「トーレス、それ……」

「クロウ、ここ頼むな」

「え、え?」

 友人の返事なんか聞かず、トーレスは自らを宙に放り出す。

「トーレス!」

 血相を変えて、クロウは自分も身を乗り出すが、トーレスの足につながる黒い筋に目を留める。

 たしか、秋に子どもを助けたときに使っていた技だ。それは城壁を伝って、どこまでも下へ下へと伸びていく。

 トーレスがあとすこしで追いつくというところになって、緑の布が花が咲くように開いた。それは一瞬、草原と同化して見えた。

「な、なにあれ!」

 クロウは目を丸くする。パラシュートはジェミアではあまりなじみのない道具だ。

 緑の影とトーレスの影が重なる。

「トーレス……!」

 もつれるように、トーレスと男は接近しては離れる。

 城壁に残った影はどんどん薄く、地上へと伸びる影も細く頼りなくなっていく。いくらトーレスでも、負傷しては限界があるのだ。

「ど、ど、ど……!」

 クロウは周囲を見渡す。応援の姿は見えるが、まだ距離がある。

 こうしている間にも、トーレスたちの姿はどんどん小さくなる。

(いつものトーレスだったらなんてことないはずなのに)

 彼がこの場に残した影も、もう限界が近づいていた。

 このまま見ているしかないのだろうか。クロウは鳥笛を握る。

「坊主、鳥笛使エ」

「え、今?」

「マッタク、マダルッコシイ!」

 顔役は窓から出て上昇し、大きな声で鳴く。

 それに呼応するようにして、大きな羽音が響いた。

「クロウ!」

 ラーヴァだった。その横にはゲイル。

 ゲイルはすぐに下方の様子を見て状況を把握する。

「乗レ」

「うん……!」

 飛行用の装備なんてなにひとつ身につけていない。けれども、クロウにためらいはなかった。

 手綱をしっかり手に絡めて、ゲイルを急降下させる。

 風が今までにないほど強く、クロウの全身にぶつかっては通り過ぎていく。息ができないほどに。

 しかし、ここでひるんではいけない。クロウは唇を噛んで意識を保った。

 次第に二人の姿が近づく。

 何条にも分かれた影。男をその渦のなかに閉じこめてはいるが、トーレスの顔色は悪い。

「トーレス!」

 クロウは手を伸ばす。

 顔を上げたトーレスは、右腕を上げる。クロウはその手をつかもうとするが、タイミングが合わずうまくいかない。すぐに遠ざかってしまった。

「ゲイル、もっと近寄って」

「了解」

 ここまでくると、ジェミアよりも地面のほうがよほど近い。トーレスを支える影がさらに細くなっていく。男の拘束に全神経をそそいでいるのだ。

 そして、ふっと音を立てるようにして、ジェミアと彼をつなぐ糸が消えた。

 男とともに、トーレスが真っ逆さまに落ちていく。

 クロウは無我夢中で手を伸ばした。そして、トーレスの袖を握る。

 重力が一気にクロウの腕にかかった。

 ぶるぶると震える自分の身体にむち打つようにして、クロウは友人を影の塊ごとゲイルの背中に引っ張りあげる。

「……ありがと、助かった」

 ゲイルの羽毛に手を埋めるようにして、トーレスは座りこむ。

 それを目にした瞬間、クロウの膝もそのまま崩れ落ちそうになり、トーレスが慌てて支える。

「お前の腰が抜けてどうするんだよ」

「な、なんか……安心したというか……」

 夢中になってトーレスを追いかけたが、彼を回収しただけなのに気が抜けてしまった。

 そんな友人を見てトーレスは苦笑し、顔をしかめながらも腕を上げる。クロウも同じようにして、思い切り彼の手を叩いた。

「いって……」

「あ、ごめん……」

 トーレスの腕に真一文字の傷があった。クロウは焦ってハンカチを差し出す。

「お、ようやく来たか」

 トーレスはジェミアを見上げる。他のレインアローの姿があった。

「任務終了だ」

 いつの間にか、太陽は子午線を越えていた。



「どうしてそんなに無鉄砲なんだ!」

 警護局長の怒鳴り声が庁舎の一室に響く。

「ちゃんと捕まえましたから、無鉄砲ではないと思います」

「ちょっとは突撃以外の方法も覚えろ! 指示を待てんのか、この暴走小僧!」

「待っていたら逃げられました」

「思いつきで行動するなって言ってるんだ!」

 自分のことを言われているような気がして、クロウはびくびくしてしまう。しかし、当のトーレスは余裕しゃくしゃくな態度だ。

「あのまま逃がしたら、市民も不安でしょう。ところで、あの狙撃犯たちは口を割りましたか?」

「まだだ」

「ロートルですか?」

 警護局長は忌々しげな表情を見せる。

「ミラたちはそう証言しているが、どうだかな」

「まだ他にも反市長派っていうのはいるみたいだからね」

 包帯を巻いた市長は曇った笑顔で口を挟む。

「誰がどこにどうつながっているかはまだ不明だからな。これからますます忙しくなるぞ」

「では俺……僕も取り調べに参加します」

「腕の怪我どうにかしてから言え。おい、医務員呼べ、医務員!」

 鳥類局の面々はぽかんとそのやりとりを見つめていた。一方、警護局のほうはそれどころではないようだ。

 市長の狙撃を許しかけたこと。自分たち警護局の者の証である制服が外部の人間に渡ったこと。変装した犯人の言に乗せられて持ち場を離れた者がいること。そしてなにより、自分たちのなかに裏切りものがいたこと。彼らには問題が山積みだった。

「……無鉄砲でも結果を出すか出さないかが、お前との違いだよな」

 口を開いたのは、クロウの後ろにいたカイトだ。

「成果をあげれば、ひとまず仕事が速い人間として扱われる。お前の場合は、勝手な判断でトラブル巻き起こすってことになるが」

 クロウは苦笑いになる。

「いや、結果を見れば、クロウだって十分仕事をしたさ。トーレスの補佐だけではなく、自分でも」

 パロットの言葉に、市長も頷く。

「おかげで命拾いできたからね。恩人だよ」

 そう心をこめて言われると、どうしていいのかわからなくて、そわそわしてしまう。

「あ、あの……オリバー王子の件のときは……」

 市長は瞬きをし、今度は本当に明るい笑顔を浮かべる。

「まだ気にしていたのか。もう済んだことなのに」

 そんなことを言われようと、市長には迷惑をかけたどころの話ではないことは事実なのだから、こうして面と向かうとつい謝罪の言葉は出てしまうものだ。

「リチャード王子も、またぜひ来たいと仰っていたよ。そのときは君の成長した姿を見せればいい。あのことは、今回の件で帳消しだ」

 そうだ、と市長はパロットに視線を送る。

「鳥類局長、彼にあれを」

 パロットはクロウの前に立つ。

「クロウ・フェアウェザー。君には四〇〇点を与える」

 クロウは、一瞬、上司の言葉を理解できなかった。

 そもそも、点数のことなど頭からすっかり抜けていた。一月の事件から今日まで、そのために頑張り続けてきたというのに。

「え、あ、ぼ、僕にですか?」

 一度に四〇〇点なんて、今まで聞いたこともない得点だ。

 戸惑うクロウをよそに、パロットは小さな布箱からなにかをつまんで取り出す。

「これで君も正式な鳥使いだ」

 差し出された両手に落とされた、わずかな重み。金色に輝くオリーブと鳥の意匠。

 オリーブバッジ。この二年と数ヶ月、ずっと得られずにいた存在だ。

 約一年前の四月、憂鬱な気持ちで四月を迎えた記憶がよみがえる。

 あのときは見習い卒業には全然足りなかった。飛ぶのが怖かったし、鳥たちにだって見くびられていた。先輩たちからの信頼もなかったし、アンジェリカからはしきりに心配されていた。

 初夏になって、ゲイルに乗って初めて地上との往復をした。自分しか動けない――その状況に動かされ、勢いのまま空に飛び出したようなものだった。

 夏の日、自分よりずっと有能なアンジェリカが壁にぶつかってそれを乗り越えたのを目の当たりにした。

 秋を迎え、ラークが入ってきた。好きで鳥使いの道に進んだわけではないという彼に、鳥使いの楽しさを教えたいと願った。結局、トーレスに助けられてしまったけれど、子どもを助けた一件でずいぶん距離が縮まった。

 そして冬。賓客のオリバーを怪我させるという、あってはならない事態を起こしてしまった。それで、大勢の人たちに迷惑をかけてしまった。

 あの一件で、もう手にできないのではないかと心のどこかで思っていた。

 今、自分がいるのは現実だろうか。夢ではないのだろうか。頬をつねりたくなるほど、信じられないことだ。

 けれども、握ると冷たく、ところどころ尖った感触が確かにあった。

 ふと思い浮かべるのは、鳥使いになったクロウが見たい、と呟いた父の顔。

「ヤッタナ、クロウ!」

 ラーヴァが、軽くクロウの頭をつつく。続いて、主任やシーガルなど先輩たちが手を握ってぶんぶんと勢いよく振る。

 実感がそこでようやくやってきて、クロウは満面の笑みで頷く。

 本当に長い二年半だった。そのなかでも、この一年は特に大切な年月なのは間違いない。

 レイドを助けたあの四月からこの三月まで、クロウは自分でも驚くほどの変化をとげたのだから。

 もう、未熟な見習いクロウはどこにもいない。

 クロウは窓の外からジェミアの町並みを見つめた。

 この喜びを早く伝えたい人たちがいた――やっと鳥使いになれたのだと。



 そして、新しい朝がやってきた。いつものようにラーヴァに起こされ、クロウはベッドから下りる。

 服を着替え、忘れないようにオリーブのバッジをつけた。金色の輝きがなんだか落ちつかない。

 ラーヴァに急かされ、家を出る。花の匂いが風に乗って届く。

 一年前も同じようにこの香りが空気中に漂っていた。しかし、あのときと今とではまったく心境がちがう。クロウは感慨深く深呼吸した。

 ふいに、背後から声がする。

「おはよう」

 そう言いながら肩を叩いてきたのはアンジェリカだった。

「おはよう」

 彼女の視線は、クロウの胸元に注がれる。なんだかすこし嬉しそ弾んだ表情に見える。

「昨日の話、聞いたわよ」

「本当?」

「トーレスが大活躍だったんでしょ」

 一瞬反応に困ったクロウの顔を見て、アンジェリカはニッと唇の両端を上げる。

「それも、元はクロウのおかげだっていうのもね。まさか、クロウがねえ」

「うん、なんというか、ちゃんと話せば長くなるんだけど」

「じゃあ、夕方にでも聞かせてくれる? まだ早いんだけど、紅果実のタルト、お試しで作ったのがあるの」

「本当?」

 一秒で顔をこのうえなく輝かせる幼なじみに、アンジェリカはおかしそうに笑った。

「お店には出せないから持って行くわ。私、今日は後片づけ中心で早めに上がれるの」

 そう言って顔をしかめる。

「ごめん。そんなわけで出勤いつもより早いの。先行くわね」

 ブーツの踵を軽やかに鳴らして、アンジェリカは駆けていく。

「相変わらず忙しいんだなあ……」

 のんびりとした口調の相棒に、ラーヴァは喝を入れる。

「ホラ、クロウ。オ前モ行クゾ! 級持チニナッタンダカラ、モットモットキリキリ働ケヨナ」

 見習いを脱したところでまだ九級。鳥使いとしてはむしろこれからが本番だ。

「うん!」

 クロウは元気よく駆けていく。もう、中央役所までの道のりで迷いは生じなかった。

 今日から鳥使いとしてのクロウの新しい一年が始まるのだから。




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