六番目の話「偽物達の死闘」
「風見の言っていることを要約するとこうね。洸君は神様とは使い魔の関係であるから、まず彪が説得すると見せかけて隙を見せたところを風見が封印して、瀧さんがその黒幕をやっつけるまで確保しておくと。事件が終わったら弱った洸君と彪が契約する。こういう作戦ね?」
「ああ……そうなんじゃないか?」
「でもそうなると彪も使い魔を持つ陰陽師になっちゃって風見のところに弟子入り。さらば普通の生活! みたいなことになると」
「うむ……そうなるんじゃないかね?」
遅くまで練習する運動部がお疲れ様でしたーなんていう時間、生物部には三人の人間がまだ残っている。中では三つの机が並べられ、孜朗乎の向かいに俺と一文字が座っていた。
「………………なんでお前がここに居るんだッ!」
昼休みに俺が風見に連れられたとき、一文字は一人で食べることになってしまう。でもその久しぶりの寂しさに耐え切れず、かといって話しを邪魔するわけにもいかないので、部室の外でご飯を食べていたそうだ。当然会話は丸聞こえ。俺の洸に対する話しを聞いてしまった彼女はこうして協力を申し出てくれたのだが……。
「なあ一文字、お前は別に関係ないだろう? 俺達は今から危険な所へ行くんだ。お前にもしものことが有ったら……瀧が悲しむと思う」
「関係あるわよ!」
俺としては瀧からコイツのことを任せられたようなものだし、危険から遠ざけたいという自身の思いもあったのだ。
だが一文字が提示した『関係性』は、感情で動いている俺達にとって、無視できなかった。
「アタシには友達が居たの。とっても大事な親友が。でもアタシの身勝手なお願いのせいであの子の……ひかりのは居なくなる原因を作っちゃったの」
「…………ッ! なんでその名前を、というよりどうして覚えてるんだ?」
「ボク等の話しを聞いて思い出したんだろう。君だって何かの拍子に記憶の断片が繋がった口じゃないかね?」
「まだボンヤリだけど……ひかりがとっても大事な友達だったってことと、そのひかりが居なくなったときの悲しさははっきりと思い出せるわ。だからね、洸君が助かるなら助けた方がいいよ。彪、アンタにだってこんな悲しい気持ち味わわせたくない!」
俺が一文字の肉体的外傷を心配しているのに、コイツときたら俺の精神的外傷を案じていやがる。お節介な奴だ。
「ボクは彼女を連れて行ってもいいと思う。なぁに、御心配なくゆかりさん。貴女のことはこの風見 孜朗乎が命にかけて、いや違う。ボクの命よりも重い撮り溜めたアニメのDVDにかけて守りましょう!」
「え、何? 孜朗乎お前、いざとなったらゆかりの前にコレクションの山でも築くんか? そいつは見ものだなー!」
孜朗乎が言うには、使い魔は主から力を供給してもらうことで生命維持しているらしい。なので洸とその神様の術的なパスを切ることが出来れば、洸を無力化することも可能……だそうだ。そうなったら洸には新しい動力源が必要。成功した後で俺が洸と契約を結べば、洸はもう人に危害を加えなくなるらしい。あくまで成功すれば……の話しだが。
成功した場合、俺は孜朗乎や瀧と同じ『世界』の人間となり、洸を制御・生存させる為の修行をしなければならんという。そこは孜朗乎が紹介してくれるらしい。
しかし失敗した場合。
「全力でトンズラしよう。ボクもこんなことやったことは無いからね。まあ何とかするさ。それじゃあ各自準備が出来次第、十八時にこの場所に集合だ!」
※
「つーか、ここかよッ!」
俺と孜朗乎は夜の有馬公園に来ている。日は完璧に落ちているため、公園にいくつかある灯りを離れると行く先は暗黒。目的地は絹川山の中。山中の暗さを考えるとぞっとする。
「まあそんなに奥でもない。それにボクの力を使えば、視界は充分に確保出来るさ」
風見 孜朗乎はそう言っていくつか小声で呟いた。すると、孜朗乎と俺の近くが一気に明るくなる。
火の玉だ。小さな拳くらいの火球が二人分中空に浮いている。赤い火が結構な距離まで視界を確保してくれている。何だこの超常現象は?
「君こそ何を驚いているのだね? こういうことが出来る人間だともう知ってるだろ?」
「実際見てみると、まあ驚いてしまうものだよな……」
この光量なら躓いて転ぶこともなさそうだ。夜の空の中、存在を大きく主張するようにそびえる絹川山を見ながら俺は隣の男に聞く。
「お前は言わなかったけど、何も準備してこなくてよかったのか?」
「もし逃げるなら身軽な方がいいし、それに荒事はボクの役目だ。……逆に尋ねるが、今日持ってきたそのバックの中身は何かな?」
「一応、武器だ。台所から母親の包丁を持ってきた」
「なんだか人でも殺しに行くようなチョイスだね……」
俺は油断していた。明かりがあることで、照らされている箇所は見える。だからそこから先の闇に意識を向けなかった。
夜目を慣らしてなかった俺は、闇の中から飛来する物体を避けられなかったのだ。
顔面に球形の物が当たる。俺は呻き声をあげながら転がっていく物を掴み見た。
「……にんにく?」
しかも中途半端に半カットされた野菜に、俺は首をかしげた。このにんにくの持ち主だろうか、草を掻き分けて進んでくる人影が、光の中にその実像を見せた。。
「さっそく現れたわね! さ、これでもくらいなさいよ!」
一文字 ゆかりが手に十字架を持って現れる。俺はコイツが何を勘違いしたか察しがついて呆れた声でこう言った。
「あのな、俺は本物の方だから。それにお前の装備はあれか? 吸血鬼でもバスターするってか?」
「アイツの弱点なんて想像もつかなかったから、別の想像の範疇内でってことで。じゃ、じゃなくて騙されないわよ! そこの風見もドッペルゲンガーで、本物の二人はもう居ないのね!」
一文字はそう喚いて俺に十字架を放り投げてきた。彼女はノーコンだったようで、十字架はヘロヘロと見当違いの方向に落ちてった。だが孜朗乎は咄嗟に飛び出し、十字架が地に付く前にスライディングでキャッチしたのだ。ズササァと凄い土を巻き起こす激しいアクション。
「な、何やってんだ?」
「……ゆかりさん、コレをどこで?」
「え、お父さんの部屋に飾ってあったんだけど?」
「なんとぉぉッ! ゆかりさんの父上は相当レベルが高いと見受ける」
彼は手の十字架の裏側を俺達に見せた。表はなんの変哲も無いものだが、裏にはなぜかイエスの換わりに、銀髪の少女のフィギュアが縛られていた。
「これは『善業求血機! ゾルヴァン』の限定フィギュア『縛られる聖少女虚澄たん』じゃないかあッ! こんなレア物を投げたりしたらイケマセン! フゥ……、どうやら君のお父上とは話が合いそうだね」
「そ、そんなぁ! た、確かにお父さんの部屋に何でこんな物が? とか思ったけど、でも十字架になるからいいやって持ってきちゃったのよ。これお父さんのじゃないもん! きっと何かの間違いがあったのよ!」
父の意外な素顔が見えてきた一文字に、孜朗乎は首を振りながら肩に手を置いた。
「ゆかりさん、認めたまえ。人はそうやって大人になって行くんだ」
「う、嘘よぉぉぉッ!」
俺は時間が惜しいので、二人に出発するように催促した。
「なんでもいいって。面子も揃ったし、ほら行くぞ」
かくして三バカは絹川山へと足を踏み入れたのであった。
孜朗乎が導いた場所には大きな石の階段が、木々に隠れるようにして存在していた。火の玉の光を頼りに上がった先は石が敷かれた広い空間になっており、奥には大きな神社が。付近の植物が絡まったその建物は、夜の闇もあいまって不気味すぎる。
「な……に……? ここはどこかで……」
「アタシ……ここに来たことある…………?」
俺と一文字はお互いの声から、ある事実に感づいた。初めて来た場所ではない。俺はこんな所への行き方なんて知らない。でもあの日、確かに『何か』に誘われここを訪れた。
ドッペルゲンガーを作った場所だった。
「……どうして彪達が来てるのさ? 僕は彼女を待ち構えてたんだけどね」
神社の前に菟柄 洸が居る。前に別れたときと変わらぬ姿で。俺と同じ顔に怪訝そうな表情を浮かべていた。
「た、洸! やっと会えた……。俺は…………ずっと心配してたんだぞ?」
「ごめん。でも僕は『そういう』者だから。仕方のないことなんだよ。で、何しに来たんだいい?」
「俺は洸に帰ってきて欲しいんだ。なあ、洸。俺と一緒に居てくれよ! また俺の友達として戻ってくれよ?」
俺の洸への説得に一文字も援護してくれた。
「ちょっと洸君! このバカはね、洸君が居ないと駄目なのよ。だから神様のパシリだかなんだか知らないけどアンタも意地悪してないで、コイツんとこ戻ってきてやりなさいよ?」
「菟柄君、そろそろボクは準備にかかる。洸君の気を引いておいてくれ」
孜朗乎は俺にそう耳打ちして、身を下げた。
洸の注意を孜朗乎から逸らす。さてどうしようか?
「おい洸。さっき瀧を待っていると言っていたな? もしかして……アイツがここに来るのか?」
「まあね。さすがに街一つという範囲じゃないけど、この山に隣接する土地に僕は微弱なパスを繋げてるんだ。強い特殊な力を持った人間が、ここに真っ直ぐ向かっていたら感知できるようにね」
気になる話題を振りつつ洸に接近する作戦。このまま情報を引き出しつつ奴と距離を詰めることで、注意を俺に向ける。人間近いものを見ようとするしな。
「瀧が来るって言うなら急がないとな。洸、俺とケンカしようぜ?」
「は? 意味が解らないよ」
「お前の意思は解った。そうかい、そんなに信仰心が強いのかい。でも俺だって諦める心算はない。双方の主張が食い違うなら、それこそ勝負でもするしかないよな?」
そして闘争は始まる。洸は優しかった。俺に三発も殴らせてくれた後、数十発の拳をお見舞いしてきたのだから。俺の目には全く見えなかった……。
「へ……や……やるじゃないか? ぺ、ぺぇー! これが男の拳の味か」
「いやそれアンタの血の味だから。てゆうか弱ぁぁッ!」
「うるさい一文字! コイツは俺の力まで真似てるんだ。凄い……強いに決まってる」
洸に殴られた際に唇を切ったようだ。よくよく考えてみると、俺はほとんどケンカなんてしたことがない。そんな素人相手に洸も特殊な力を使ってくれるわけもなく、ただ普通に殴られて終わった。
「やめなよ。彪が敵うわけないし、僕は怪物なんだ。人を襲う獣に命なんか賭けてもバカらしいだろ? こんなことをする意味が無いね」
なんとでも言え。所詮これは時間稼ぎで、本命は孜朗乎だ。どんな方法かは知らないが俺の行動は必ず洸を助けることに繋がる。
俺が何も言い返さず、不敵にかつての相棒を見ていると、後ろから何かが飛んできた。
洸は自分に飛んできたそれを瞬時に伸ばした指で迎撃する。恐らく洸は反射的に刺し貫いたのだろうが、それは……にんにくだった。
「意味…………あるわよ!」
一文字が投げた物だ。彼女は顔に怒りの色を浮かべて、俺のドッペルゲンガーに言う。
「洸君は何言ってるわけ? 友達のために頑張るのが悪いって言うの? 彪はねえ、確かにバカかもしれないけど……何も悪いことはしていない! それにアンタは自分を怪物だって言うけど、そういうことをして欲しくないから、彪は体張ってるんじゃないの?」
そして一文字はもう一つの武器、人形付きの十字架を投擲する。だが先のにんにくのような奇跡は起こらず、十字架は大きく左に飛んでった。
「投げるなって言ったじゃないかぁーッ!」
洸に気取られないよう隠れていたはずの孜朗乎が、林から人形を守ろうと飛び出す。またもや人形が地に付く前にキャッチ出来たようだが……。
「あ、そっちは急な長い坂になってるよ?」
「うおぉぉぉぉぉッ!」
林の陰に隠れた坂道に突っ込んだ孜朗乎は、すぐ見えなくなった。地面をすべる音がどこまでも遠く響いてゆく。ハッキリと解ったことは、計画が失敗したということだ。
「な、何やってんだぁーッ!」
「彪達の顔を見たら察しがついた。孜朗乎様になんとかしてもらう積もりだったんだろ? あの坂に頭から突っ込んだら痛いし中々戻って来れないし。それに……主役の登場みたいだ」
足音は後方の階段から。一歩一歩踏みしめるようにゆっくりとした足取りで上がって来たのは、瀧 順子だった。
「な……! これは予想外ですね。彪君にゆかり、どうしてここに?」
瀧は一瞬驚くものの、すぐ怒りを込めて睨んでくる。彼女が関るなと忠告したのに、俺達がこんな場所に来ていることについてだ。
だが俺は瀧の今の姿に驚いていた。
「どうしてボロボロなんだよ!」
瀧は相変わらず学校の制服である。だがその衣服は所々千切れており、肌も擦過傷や煤けている箇所がある。何かあったことは明白である。
瀧は肩に木箱を背負っており、それを降ろしながら彼女は言った。
「組織の蔵からコレを取り戻してたんで、まあお返しにこの様ですけど。私なりの考えがあると言ったでしょう?」
菟柄 洸は微笑みながら前に出る。やっと己の全力を出せる相手が来たからだ。俺のようなヘナチョコではなく、瀧 順子を待っていたのだから。
「二人共下がってください。貴方達に構う余裕は偽者には無いので」
「やめろお前ら! 俺はどっちにも死んで欲しくないんだ!」
口では言うものの、俺は一文字と一緒に木々のそばまで隠れた。俺の発言なんてはなっから相手にされてない。
「何を用意したかは知らないが、今度は手加減は出来ないよ? ここは『神様』の御前だしね」
洸の右腕が変色していった。服の袖から見えるその手は紫。垂らした掌は液体が滴っている。なんだアレは?
「体液の有毒化ですね。掌に場所を限り、そこからどの生物にも有効な猛毒を浴びせる。使用範囲を狭めれば、コスト以上の成果が望めそうですね。……確かにそれは私の部屋でしか治療出来ないし、すぐ活動を停止しなければ害は全身に回ってしまいます。接近戦は不利……」
洸が瀧に迫る。猛毒の右腕を振りかざし、今度こそ息の根を止めんとする。瀧は持ってきた木箱を勢いよく蹴りつけた。
「なので今日は飛び道具を用います」
箱の蓋を吹っ飛ばして現れたのは、古びた黒い斧。その武器は空中に回転しながら飛び出し、ブーメランのように洸に向かう。
俺の目に見えたぐらいだ。洸は難なく手で弾く。弾かれた斧は意思でも有るかのごとく、瀧の掲げた手に戻っていった。
そして、斧に向かって彼女は呪文を呟いたのだ。
「五行相克、水は森羅万象の火を消し克つ。汝、信ずる者には智を与え仇なす者には恐れを与える。災厄の焔を赦さぬ大海の翼。名は……深守朱雀!」
それが武器の名前だったのか、瀧の斧はそれに応えた。斧の表面がパラパラと剥がれ落ちていく。彼女の手に別の形になった真っ白い斧が現れる。
とても小ぶりな薄い斧だ。握る所から刃先まで白いそれは、何かの芸術品のよう。刃には金属らしきパーツが打ち付けられていて、戦闘機の噴射口に酷似する穴があった。そこのパーツには不死鳥の絵が書かれていた。だがよく知られている炎の鳥ではなく、水を纏った鳥だった。
白い体と水色の絵の斧。およそ戦いには使えないような形状の武器を持つ瀧の手からは、肉を焼くような異音が聞こえる。これは……?
瀧は苦痛に耐える声を漏らしつつも、続けてこう『命じた』。
「命じます。瀧 順子という存在と契約した武具よ。貴方を握っている存在を瀧家の長女と認め、その使用を許しなさい!」
洸は最初は相手の動向を伺っていたが、それがただの準備だと解ると、再び襲い掛かる。接近して右手を伸ばし、そこから液体を発射。瀧は斧を前に出して防ぐが、数滴は体にかかったようだ。洸はさらに勢いに乗って、右手を直に彼女に付けようとする。
だが瀧は迫る脅威に動こうとしない。前に突き出した武器に言葉をかけるだけ。
「……放水します」
斧の噴射口から大量の水が発生。とても勢いの強い水で、洸の体を軽く吹っ飛ばした。
「吉再」
体制を立て直そうとする洸の手や顔が濡れている。かなりの水量だったので服の上から染み込み、中もびしょ濡れだろう。
それら全てが緑に変わる。サラサラと洸の足元に砂が堆積してゆき、すぐに止まる。水に濡れた顔や手の一部が剥がれ、緑色の皮膚を見せていた。
「な……なんだこれは…………! さっきの水かぁッ!」
「この斧の内部には擬似的な海が存在しています。無限に出る水は付着したものと私の間に術的な因果を繋げ、そこから吉再させることが可能となるのです。本来なら敵の体に無理やり干渉し、そこから『吉再』させます。しかし、私には敵を弱らせて因果を作る強さもなく、本物の私とは違い力の行使は有限です。ですので強敵の貴方と闘うには、こういった力の補助となる武器が必要不可欠というわけです」
どうやらあの深守朱雀という名の斧は強い力を持っているようだ。一撃で洸に無視できない損害を与えたのだから。
「まだだ! たかが武器一つ持っただけで、してやられると思うなよ!」
歯軋りしながら立ち上がり向かってこようとする洸に、瀧 順子はまたも一つの『命令』
を下す。彼女は中空に斧を振るいながら言った。
「想像します。……海羽の剣」
斧は宙を切りながらも放水。しかし出された水は空中で止まり、斧の刃の形を再現する。
「飛んで戻ってきます」
瀧が刃の形に圧縮された水に斧を叩きつけた瞬間、水刃は洸に向かって飛んだ。ここまでの動作は遅い。洸は難なく避け、今度こそ仕留めんと毒の腕を突き出した。
洸は考えなかったのだろう。彼女の言葉の意味を。その命令の力を。
瀧の海羽の剣という技。名前の羽のように上昇し、遠くでヒラリと旋回した水刃は戻ってきた。瀧の顔すんでの所で、洸の右腕を切り落としそのまま下降。石畳に四散した。
瀧は呆然とする洸の左腕を斧で切断、その体を蹴り飛ばした。洸は神社の近くにぶつかって止まる。
「あ…………、ヤバイよ! 洸君やられる!」
横からの一文字の言葉に、人外の戦いを呆けて見ていた俺は気付かされる。瀧が勝ったとゆことは、洸が吉再とかで砂に変えられてしまう! 俺は瀧を止めんと前に出る。
しかし、瀧 順子はその場に膝を着いてしまうのだった。よく見ると発汗して息が荒く、顔色も青い。洸の毒だろうか?
「偽者の分際で……無茶しすぎた…………ようです。やはり深守朱雀と契約もせず……無理やり行使したのが不味かったですね。本当は技も……細切れにするほどの威力の筈なんですが……」
「そ、そうか……。なあ瀧、今日はもうやめにしないか? ほら……お前だってもう疲れてろう?」
「だから菟柄 洸を見逃せと? それが彪君が選んだ『答え』ですか…………ダメです。冷静に考えてください。あれは人殺しの為の化け物なんですよ?」
強い語気。瀧は俺に怒っている。それでも引き下がるわけにはいかない。
「じゃあさ……瀧みたいに世の為人の為に戦うってのは? それなら」
「ダメです。私が生かされてるのは、元の本人の能力が貴重だから。もしもここで助ければ貴方は、これから出会う全てのドッペルゲンガーを助けろと言うようになるでしょう?」
瀧は俺に様々な正論をぶつけてきた。何一つ反論出来ない。それでも時間さえ稼げれば洸が逃げてくれる。俺はそう信じて彼女の弁論に立ち向かい続けたのだ。
「もう…………いいよ」
洸はまだそこに居た。上体を起こして地面に座る形で、俺の言葉をずっと聞いていた。腕も切られたままにして、何をするでもなくそこに居た。
「実はさ、未だに僕は己の仕事をしていない、人を殺せてないんだ」
「え……? 洸、お前」
「彪から離れた後も、色々やってみたんだ。でも直前で失敗してしまう。どこか壊れているのか……いや、彪のせいだね。君の複製であるから。彪は相当な善良性を持ってるみたいだね? そんな僕には生きる意味が無い。瀧さん……お願い出来るかな?」
「…………承知しました」
ああ、解った。俺は洸を解ってしまった。コイツはここで瀧が来るのを察知してた。逃げずに待ち構えていた理由、瀧にやられる積もりだったのだ。
「…………おい! 待て、勝手に決めるな! どっちも待ちやがれよぉ!」
耳鳴りがする。
何か金属を削るような鈍く汚い音が。
聞こえる。
炎。俺の目には大きな炎の塊が、瀧の居た場所に叩きつけられたように見えた。
爆発。鼓膜を壊すような爆音と、肌を溶かす爆風が俺を襲う。
無事。俺はなんともなかった。確かに熱風に身を曝されているが、死んでいない。足元に小さな紙片が刺さっていた。何かのアニメのキャラクターが書いてある。
「ふん、使う者が死んで、永遠に蔵から出ることのない武器を持ってくるとはな。私が出る羽目になったではないか」
人影と闇夜に舞う赤い炎の鮫が喋った。この場に生き残る全員の視界は、鮫の体で燃え盛る炎で確保されている。先ほど炎を吐いた口ではまだ火炎がくすぶっている。尻尾には鈴が取り付けられ、現れてからずっと、不快な金属の音を響かせている。そうか、あれが『不協和音』という奴か。
その隣で男が懐から何かのケースを出し、中身を空にぶちまける。文字が書かれたお札だ。札は空中で鮫を回るように浮遊する。その様はまるで太陽と周りの衛星。札は燃える鮫の体に張り付き、炎を鎮めるのだった。
「火鮫、安定化。すぐ次弾装填しろ。殺しても代わりが来る女だ。生きていたら止めを刺せ」
「孜朗乎ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
俺の叫びに風見 孜朗乎が顔を向ける。心底うるさいといった面倒臭そうな顔。こんなダルそうな表情は今まで見たこと無い。
「違う。今の私の本名は『火鮫 紫郎』だ。風見 孜朗乎のドッペルゲンガーをやっている」
「なんだってッ! じゃあ本人は……」
「いや、体は主の物だ。元々は別だったんだが、一年前に吉再されてな。やられる瞬間に精神を主と混ぜた。以来、二重人格でやりくりしてるのだ。『風見』という姓は偽名で、我々裏の世界の者はみな、仕事以外では偽名を使ってる。苗字や通り名で能力が知れたら困るだろう? ん? そんな目で睨むな。ちゃんとお前の記憶は消してやる。瀧 順子を二度も殺す手伝いをしてくれた礼だ」
火鮫 紫郎に寄り添う赤い鮫。忘れもしない。瀧本人を殺した怪物だ! この男の発言から推測するに、今の瀧が一年前倒した黒幕は紫郎で、瀧が死ぬときドッペルゲンガーに遺言の意思を託したように、コイツの場合は偽者が本物に人格まで送ったわけだ。
「瀧 順子は人が寂しくしていると放っておけない。奴自身がそうだからなぁ。だから貴様をダシにして、瀧を殺すつもりだった。あの化け物をヒーロー呼ばわりするとは……さすがに私も感動してしまったわ。ゆえに貴様を殺して隙を作ったところで瀧を殺る筈が、貴様を庇った奴を殺しさらにドッペルゲンガーを作らせるという手筈になってしまったではないか! あらかじめ防御の為に主の式神を渡してな、それを上回る威力の弾をぶつける策なのにな?」
「お前……! なんで生まれてきた? 孜朗乎は何を願っていたっていうんだ! どうしてこんなことを…………!」
「主の妹君の為だ。彼女から火鮫を外し、体を元に戻してやるためのな。ついでに火鮫家の没落も望んでおられる」
「あの由城って子の……?」
「そうだ。今回の神の試練の監督し、この地区の『怪談』に人を一定数殺させたら、報酬が与えられる。戻るはずの無い火鮫 由城の体の機能を、常人と同じところまで回復させると。ああ、神よ。御慈悲に感謝いたします」
俺の横では未だに炎が燃え続けている。その中でうっすら白い物が掲げられていた。遠くで得意げに語る紫朗には見えていない。
「宗教の始まりは、人が神から御言葉を授けられたからと言われている。そういった者達を『神命者』と呼んでいるのだ。そして主は神から私を与えられ、『ドッペルゲンガーという人食いの怪物』という『実話』を、試練を土地に根付かせよ、と神命を携わったわけだ。怪物伝承を植物に例えるなら、それを育て植える人間が必要。神話はひとりでに噂になるのではなく、実際に起こったから、人は神や怪物を恐れるのだよ? というわけで菟柄 彪、こちらに来い。二度とこんなことを思い出せぬようにしてやろう」
炎が消滅してすぐに飛ばされた水の刃が、紫郎の投げたお札で相殺される。
炎を裂いて現れた瀧 順子。服の端々は燃え、炎に曝されたため肌は赤い。肩で息するその姿は満身創痍。消耗に次ぐ消耗でとても紫郎と戦えるようには見えない。武器だけは嘘のようにどこも熔けてなかった。
今だ美しい斧を紫郎に向けて、彼女は言う。
「確かに……以前の彼はそう考えていました。でも今は違う。一年前に私に敗れたとき誓ったんです。自分の力で妹を助けると」
瀧の言うとおりだ。俺は孜朗乎の口から確かに聞いた。他人に迷惑を掛けてまで、目的を達しようとは思わない、と。今の紫郎のやっていることは、多くの人間に害悪をばら撒く行為。俺のよく知る風見 孜朗乎の願いとはあまりにもかけ離れている。
「私は言うなれば主の願望の塊だ。他者を傷付けたくないという考えは、あくまで理性や道徳あってこそ。私はそれらにとらわれることなく欲望を実行出来たらという、妄想の実体化といったところだ。これは妹君と私の計画だ。主は一切関与していない」
紫郎は聞き捨てならないことを言った。俺は思わず口に出した。
「じゃあ……これはあの子が考えたって言うのか?」
「その通りだ菟柄 彪。由城のことを語るなら、火鮫家のことも説明せねばなるまい。元々陰陽師の中では位の低い家なのだ。組織の中では事後処理など、目立たない仕事を受け持っていたあの家は、運良くある妖怪を捕まえた。この火鮫だよ。契約し、姓を火鮫と変えた後はコイツの力を使い、組織上位にまでその名を食い込ませることが出来た。だが、火鮫にデメリットがあった……。強力な火鮫の維持には、術者は多大な生命力を消費するため、頭首が早死する。ゆえに火鮫家では必ず子供をたくさん産み、長男が火鮫を受け継ぎ力を使い、二人目が火鮫の維持や行使する為のコストを支払う。これが主が言っていた虐待だ。火鮫 由城は生まれながらにして化け物を動かす燃料タンクだ。こんな境遇で由城がどんな人間になるかは想像がつくだろう?」
俺は妹さんのことをよく知らない。恐らく彼女の動かない手足は、あの鮫の代償。いや手足だけじゃない。ひょっとしたら見えない部分でも、彼女の体は『消費』されていたってのか?
「前の瀧と同じく、由城は自分の人生に納得出来ていない。彼女は真っ当な暮らしの人間を嫉妬し憎んでいるのだ。ドッペルゲンガーを作らせる要因を考えたのは妹君だ。菟柄のような平和に生きる人間を、苦悩のどん底に叩き込む。そして作られた怪物がまた、普通に立って歩ける人間を殺す。このシステムは、本当に彼女に愛された仕組みだよ」
「よく解りました。火鮫 紫郎、体ではなくその人格を反逆者として私が処理します」
瀧はやると言っている。確かに深守朱雀という斧は強力だ。攻撃を当てられれば、紫郎を倒せるかもしれない。
だが防御面ではどうか? 彼女は鮫の炎を武器で防いだようだが、もう一度出来るとは思えない。避けるしかない。
「瀧家の至宝『深守朱雀』か。陰陽道における水の神獣は玄武だが、御命士では朱雀。海中を飛ぶと言われる幻獣、深守朱雀の力が宿った武器。いくら有利でも炎の火鮫では水使いとは相性が悪い。ふう、やはり予備の策を用意して正解だったな。来い……一文字!」
紫郎が来てから一切何も喋らなかった一文字は、ふらふらと彼の呼び声に従った。いつぞや瀧の命令を受けたように、その目は虚ろだ。紫郎は彼女をかき抱きながら言った。
「人質だ。これで瀧は、火鮫を避けて私を水刃で狙うことが出来ない。そして……」
浮遊する火鮫が火球を吐いた。必殺の炎をの行く先は、俺だった。
「ひ…………!」
見える世界が熱で染まる瞬間、瀧が間に入り、斧から水を放出。数時のせめぎ合いの末、炎は完全に消えた。彼女の力の消耗を代償にして。
「瀧は私の攻めを避けることも出来ない。貴様を組織に仲介したのは誰だと思ってる? そのとき瀧本人の願いを聞いた。知り合いや友人を守る、だったか。その願いを生きる目的にしている偽者が、そこの無力な少年を見捨てるわけがない。私は菟柄 彪を狙い続け、お前はそれを防ぎ続けるのだ」
そもそも変だったんだ。孜朗乎はどうしてこの場所を俺に教えた? 何故一文字を連れて行くことを許した? いかにして瀧 順子はこの場所を見つけられたのか?
どこかの場面で孜朗乎の体が紫郎に乗っ取られていたからではないか?
「全部…………お前の仕業かよ!」
「ああ。妹君を救うにあたって最大の障害は、神の如き能力を行使する生前の瀧 順子。去年の私の力では劣化した火鮫を操る程度。彼女を殺すには奇襲の一撃しか無かった。しかし偽者が襲って来ることを想定して無くてね? それで前は負けたが、今の私の力は火鮫 紫郎本人の物。当然そこの紛い物の女に敗北することはない。まあ、あれだ。これも神の御意思と思って犠牲になってくれ」
またあの単語が出た。瀧も紫郎もドイツもコイツも、みな口を揃えて神様と言う。神が人を殺したがってるって? ドッペルゲンガーていう怪談が神の試練だ? 神様が妹の体を直してくれるって?
「そんな神様どこに居るんだよ……? おい孜朗乎の偽者! そんなに言うゴットとやら、俺に見せてみやがれッ!」
「どこに居るだと? 逆だ。見えていない者など居ない」
瀧の顔が見る見るうちに怒りに変わる。彼女は紫郎に走り、拳を繰り出した。
「赤花拳!」
火鮫が庇い、瀧の爆発パンチは妖獣に傷一つ付けず、逆に瀧が俺の後方まで大きく吹っ飛ばされた。
「紫郎! その先は言わせません! それを語ることは禁忌で……」
「『地球』が見たことない奴など居やしない」
「何を……言ってるか、意味が解らねぇ……よ?」
「菟柄、貴様も神の上に足を乗せているだろう? 神話曰く、神は人を創った。人だけじゃない、ありとあらゆる生物の元が神の体内『冥王道』から生まれいずる。そして、体の上に住むのだ。どんな毒草も、どんな猛獣も、回転する星の神性を疑わないが、唯一猿から進化した我々だけは信じない。この星の自然がゆっくりと死にかけているのは解るな? 我々のせいでだ。ここまで言えば理解していると思うが……神様は人に怒っているのだよ?」
何かの授業で習ったような覚えがある。神は尊ぶものだと。恐れるものだとも、とても大きな存在だとも、雨が降れば天の恵みだとも、様々な物体に神が宿るとも言われてきた。
俺達が神と呼ぶものは、地球だって? なるほど。そう考えれば、どこの神よりも現実的だし、どの国の人間でも信仰可能だ。星の宗教戦争をやるには、他の惑星の宗教じゃないと釣り合わない。
そして俺達はそんな神の恩恵を長い間受けているのに、環境問題なんてのを起こしてる。こりゃ嫌われても仕方ない。殺したいほど憎まれても……な。
「うわ……ヤバイな。こんな大きな物に嫌われちゃ…………逃げられっこないじゃん。昔からだろ? 神様が化け物とか作ってるの。確かに知らなきゃよかったわ」
「火鮫 紫郎は二秒間、眼が見えなくなります」
先の攻撃は俺や紫郎から距離をとり、離れた所から不意を突く為のブラフ。
彼女が一気に俺の所に走り着き、腹にラリアット。そのままの勢いで横の林まで連れて行き、一緒に飛び込んだ。いや、飛び転がった。
孜朗乎が落ちた坂道だ。落ちてゆく瞬間、目元を押さえる紫郎の姿があった。
「…………ッ! まだこんな余力が……火鮫、奴らはどこに行った! 足音が聞こえたぞ!」
俺は瀧に手を引かれ山の中を身を隠しながら進んでいった。ある程度まで行ったところで彼女は腰を降ろした。ここは大きな木の根によって大きな段差が出来ている。少しの間身を隠せそうだ。
「はぁ……はぁ……彪君、大丈夫ですか?」
「…………大丈夫じゃないのはお前のほうだろ……?」
瀧は自分には、本物ほどの力は使えないと言っていた。だからあの斧の水と力を媒体にして敵に命令を作用させていたのだ。
しかし先程逃げる為に、紫郎の体の機能を強制的に止めた。とっさに声で、だ。他にも洸と戦ったり、俺を守ったりと彼女は大活躍。そもそも深守朱雀という武器を無理矢理使っているのだ。素人目にも、彼女はもう限界だ。
「あの紫郎って奴はお前の武器とは相性が悪いって言った。瀧は知ってたんだな? 孜朗乎がなんらかの形で関っているって。だからそれを持ってきたんだな」
「貴方にとっての風見 孜朗乎が犯人かもしれないなんて言えなかったんです。彪君は彼と仲が良かったようですから……。だから別のドッペルゲンガーのことをほのめかしたんです。私がここに来たのは、紫郎に連絡を受けたからです。私は罠と解ってても、彼とそれで決着がつけられるなら、そう考え準備をしてきたんですけどね。相手の方が何枚も上手でした」
「それは違う! 俺が悪いんだ。瀧に関るなって言われてた筈なのに、こんなところに居る。案の定足を引っ張って、またお前を殺しそうになってる! 自分で解決できるなんて妄想を紫郎に利用されて……俺はどこまでバカなんだよ」
「問題ありません。貴方が名付けたように、瀧 順子と約束したように、私はヒーローなんです。何度ピンチになろうがその都度助けます」
瀧は立ち上がろうとした。俺は思わず手で引きとめた。
「お前それもう止めろよぉ? 俺なんか無視して戦って、いやもう逃げろよ?」
「瀧 順子の本名は私にも解らないんです」
「え……?」
「彼女は生まれたときから天才だった。でも普通の家庭にそんなのいらないし、両親だって普通の子供が欲しかった筈です。暴力に耐えかねて親をうっかり石にしてしまった彼女は瀧の家に引き取られた。でも優しくしてくれた親も死んでしまう。神の生む怪物との戦いに負けて。彼女もまた両親への恩を返すために、戦わなければならない」
「おい……なんで今そんな話しするんだよ?」
「以前部室で『私が』社会に必要な生け贄の話しをしましたね? あれは『私達』のことなんです。世界の為に戦う『生け贄』の彼女と、その彼女の身代わりに用意された影武者としての私。なんで『私達』はこんなことをしなくちゃいけないんだろう? どうしてこんな不幸なんだろう? 誰にも説明できません。ただ運が悪かったんでしょうか?」
答えられない。彼女の人生の悩みに答えたい。瀧の人生がなんだったのかを答えたい。不幸だったというなら、せめてどんな意味があったのか教えてやりたい。
悩む俺に瀧は、驚くほど優しい声音でこう言ったのだ。
「もう教えてくれたじゃないですか? 私達はヒーローだったから。漫画やテレビに出てくるヒーローには過酷な宿命がつきものです。あれは彼女だけでなく私にとっても、救いでした。今のこの流れにも納得しています。私は生け贄です。だから、ちょっと彪君やゆかりを守る為に捨て身の特攻をして来ますね」
しまった。すでに与えていた答えは、瀧を死へ後押ししてしまっている。紫郎は俺達を探している。瀧はもう限界だと奴も知ってるし、一文字を連れて山を歩くのは面倒だから、恐らく一人で来る。それでも勝ち目があるとは思えなかった。
「ん……『私が』? おい瀧、さっき部室の話しをそう言わなかったか?」
「耳がおかしいんじゃないですか? 私は彼女の換わりに毎日学校に通ってませんし、勘違いしないでください」
やたら早口でまくしたてる瀧だが、その頬は赤い。それに瀧は致命的な発言をした。
「いつから入れ替わってたんだ?」
「…………彼女は小学校に入ってすぐ、己が周囲とやっていけないことに気付きました。私はその頃に影武者として作られ、彼女の頼みでほとんど私が学校に行っていたんです。彼女は幼いときから組織の仕事をやらされていました。だから丁度良かったんですね。私は瀧 順子の表の顔として、彼女の為に友達を作ってあげようとしたんですが、結果は彪君の知るとおりです」
そうか。死んでいなかったんだ。俺のよく知る瀧 順子はまだ居なくなっていなかったんだ。
なら、俺も俄然やる気が沸いてくるってもんだ。
「話し合いましょう。彪君のことを好きなのは瀧 順子本人です。そして貴方を救ったのも彼女なんです。だから……!」
「そんなことは今はどうでもいい。聞け、俺に作戦がある」
「菟柄は愚者だな。せっかく逃げおおせたにも関らず、私に見つかった。貴様は逃がしてやろうかと考えていたが、こうなればまた利用するしかない」
俺は山の中、再び赤い鮫の男と相対していた。
見つかったのではない。俺が火鮫 紫郎を見つけたのだ。闇の中で強い明かりが近づいてくるのはすぐ解った。紫郎はすぐに対応できるように火鮫を出していたのだろうが、こんな夜中では居場所がすぐにバレてしまうだろう。
つまり、コイツは今慢心しているのだ。
「瀧はどうした? まさかお前に回復の為の時間稼ぎをさせてるわけであるまい」
「お前の家に行ったよ」
相手が唸る。余裕だった顔の色が見る見るうちに焦りに塗り変えられていった。紫郎は失念していた。瀧が勝負を捨て、火鮫家と妹の由城を押さえに行くという可能性を。
さらに考えているのだろう。今すぐ瀧を追って妹を守るか、俺の発言が嘘であるとしてこの山での探索続行を決めるか。
やっぱり瀧の力って凄いんだな。彼女なら消耗が大きくても、出来ることに限りがないだろう。孜朗乎にやったように嘘だと無理やり吐かせることが出来る。
だがコイツの能力は人を不仲にすることと、火ぃ吹く鮫を操ることだけだ。
「俺もお前にはいい加減怒ってるんだよ? 一発仕返ししないと、気が済まない」
俺の手にはバックから出した包丁が握られている。紫郎にも見える筈だ。
瀧に提案した作戦は、紫郎のやったことのパクリに過ぎない。敵の攻撃を封じ、こちらの攻撃は確実に当てるノーダメージかつ必勝の策。いや、ただの消去法か。
「瀧の命令で俺の反射神経とか動体視力、運動能力を上げて欲しいんだ。それで瀧への攻撃に反応して俺が横から防ぐ。同時に瀧が接近して倒す。近寄れば強い攻撃が出せるんだよな? こっちの有利な所は人数だ。分担していこうぜ」
「……? 確かに遠距離から紫郎を狙っても、火鮫に庇われてしまいます。かといって火鮫を倒せるほどの大技は、間に紫郎の暴御式神を挟まれるか、火鮫の炎を避けられずに潰されてしまいます。彪君にそれをどうにか出来るとは思いませんが?」
「自信ならある」
それはいつか瀧が言った台詞。本当だ。自信ならある。瀧は何度も俺の為に命をはってくれたんだ。今更俺に出来ない筈はない。
「俺には瀧を炎から守る方法があるんだ。そのとき俺の方は一切見ないでくれ。俺が奴の攻撃に反応できさえすれば、後はお前が火鮫を倒して終わりだ。だから……俺を信じて欲しいんだ」
俺の武器による攻撃を紫郎は難なく避け続けていた。本気は出さない。俺の上がった運動能力でコイツに作戦を気取られたくないからだ。
紫郎は酷くつまらないものを見る目で文句をつける。
「菟柄、何を勘違いしているのか知らんが、主がいくら運動は不得手でも、動かしているのは私だ。素人の攻撃なら先を見て避けられるぞ? 貴様は瀧を呼ぶ為の餌にする。手荒なことはしたくないんだが」
急に火鮫が俺に近寄って来た。蒸せるような熱気と巨大な体が圧迫してくる。包丁の先がかすってしまい、刃の半分が解けてしまった。
「うわぁああ! だ、ダメだ。助けてくれ瀧ぃーッ!」
「最初からそうしていれば良いものを。そっちか……」
俺が情けない声を出して倒れ、向いた方向を紫郎は見やる。
そっち、とは逆方向の林から瀧が走り出す。勿論、紫郎は気付き火鮫に火球を繰り出させた。
彼はこう思ったに違いない。なんだ、ただの不意打ちか、と。
火鮫 紫郎の敗因はこちらが二人であること。『瀧 順子の』行動を予測して戦っていたこと。
俺が何をしでかすかを全く予知していなかったことだ!
「瀧、任せろぉッ!」
脳味噌に激痛。眼球が認識出来るようになった数秒間単位の映像の処理が追いつかないからだ。瀧が自分に使わなかったのが解る。こんな状態で他の力は使えない。
それでも俺の体は駆動する。孜朗乎の火鮫の口が開かれ、火が撃ち出されたのがが解る。それが瀧に向かっていくのも。俺は走る。
火球が彼女に命中する寸前、横から瀧を突き飛ばす。紫郎の顔が驚愕に変わる。
「よく……許したな」
手筈どおり斜線から外れた斧を持つ女は、宙に浮かぶ赤い鮫に接近。武器を右に倒し水平に構えた。
「昇蕪水葬鎌」(しょうぶすいそうれん)
噴射口から出た水が斧にまとわり付き、刃を周囲を包んだ水は鳥の羽を模した鎌となる。瀧はその鎌を火鮫の横っ腹に突き立てた。
悲鳴をあげる火鮫の体の炎の一切が消える。代わりに出たのは水。鮫の体に小さな穴が空いていき、決壊しかけたダムのように細い水を撒き散らしていた
「吉再」
瀧が鎌を振り抜いた。真っ二つには出来ていない。大きな体の一部を抉っただけだ。すっかり冷えた鮫の背中から、何かが生まれる。
朱雀。鳥の形をした水が体を突き破って、空へとどこまでも飛んでいった。その衝撃で火鮫は破裂。大量の緑の砂が木々に降り注ぐ。
俺が見れたのはそこまでだった。何故なら自分の体は火鮫の火球を受け止めて、燃えてる最中だから。
死ぬ前に見たのは自分の負けなど、どこ吹く風で俺に呆れた顔で笑いかける火鮫 紫郎と、やっと俺の方を見た瀧 順子の見開かれた目だった。